学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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教育改革

時間が経つと、かつてはよく遣われていた言葉がとたんに色あせて見える場合がある。学校教育に関するお喋りもままこれに該当するが、その一番は「教育改革」という言葉だろう。

1980年代以降、いや「第三の教育改革」と言われた中教審答申が出されたのが1971年だから、ウン十年にわたってと言っていいかもしれない。私が学部生、大学院生、助手、講師、助教授だったいつを振り返っても、「教育改革」が連呼されていたように思う。

しかしながら、いま思えばこれは不思議な言葉だ。なぜなら、教育というできごと(現象であれ行為であれ)は、人が人に教える、あるいはそこで学ぶといったことだから、そもそも、時代や地域によって大きく異なる面も持つにせよ、ある範囲に収まるものでもある。数百年くらいで人間の遺伝子が変化するわけはなく、認識や情感あるいは感性の閾値は自ずと定まってくるからだ(あるいは、そうではないのだろうか?)。

だから、ギリシャ神話に始まり、万葉集、枕草子、平家物語あるいは好色一代女と、今なお古典が読まれ、現代人にも実感される。こうした人間に関わるできごとの一つである教育が、はたして改革の対象となるのかどうか。「教育改革」と言うからには、そこから吟味されるべきにもかかわらず、自分たちで構想し、計画し、実施すれば教育を改革できるはず、という過度の操作主義 が「何となく」関係者の頭に到来し、「できるはず」「やらなければならない」と頭でっかちが先行する。ところが、人間そのものはほとんど変わらないから、「教育改革」と頭でっかちのイデオロギーが空中戦をしている一方、学校での最前線ではさざ波くらいしか立たない。教育を改革することは基本的にムリなのだから。

教育の改革ではなく、そこで取り上げられるべきは、「学校組織改革」とか「授業方法改革」あるいは「教員人事制度改革」と、人為的に影響を及ぼすことができそうな、すぐれて範囲を限った、また具体的なものであるはずだ。なのに、そうした焦点化についてはなおざりにされて、一見、勢いのありそうな言葉が跋扈する。何か変わりそうな「教育改革」は政治家が好きでもあるから、選挙の公約に掲げられもする。「教育改革を断行します」とね。でもその中身は往々にして空虚だ。学級編成基準が縮小されるという大きな改変を経てなお、教員の授業スタイルは変わっていないとまで言われるほどなのだから。

繰り返そう。教育を改革すること(改革に限らず、操作すること自体)は基本的に不可能である。そこで可能かもしれないのは、教育の回りの条件を操作すること、一人で教えていたのを二人にする、紙媒体の教科書を電子化する、授業時間を教科や内容によって多様化する、クラスの人数を大きく変える、テストや通知表を廃止する、といったことだ。そこで問われるのは、こうした改変を私たちは望んでいるのか、またこんな改変が実際にできるのか(財政的、技術的に)、さらに改変の反作用をどう評価するのか(クラスの人数を減らすと勉学への意欲が低下するかもしれない、あまりに複雑な時間割に教職員や生徒が対応できない、といった)である。これらの按配を勘案してなお、教育環境を変える意義がどれほどあるのかについて判断すべきとなる。これが改革論と言うものだろう。

しかしながら、教育改革という言葉を振り回している限りは何も具体化されないし、だからこそ、長く遣える言葉たりうる。これだけでは何も言っていないに等しく、人畜無害だからだ。さて、教育改革大合唱に参加した皆さん、人前で空虚な言葉を繰り返したことを今、どう振り返って下さるだろうか。
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by walk41 | 2014-12-30 18:30 | ことばのこと | Comments(0)

学校の外に委託/依存ではなく、中での分業を

学校のスリム化という話に絡んで、「教員の仕事は勉強を教えることに限るべきで、教育全般を学校に押し付けるべきではない」という主張がある。が、この立論はおそらく現実味を持ち得ないだろう。

なぜなら、(少なくとも日本では)学校生活というように、児童生徒の勉強、友人関係、部活動その他あれこれが、学校の中で混在しており、学校の内と外という区別で役割を分担することが整合的とは思われないからだ。確かに、「学級経営は授業の基礎だ」と授業そのものの魅力を高める努力を必ずしもしていない教員のサボり癖も困ったものだが、だからといって、学校で起こる子ども間のトラブルに対して、ノータッチといかないこともまた事実だから。

子どもの身体は一つであり、彼らの認知的、情緒的、感性的なセンサーが学校であまねく働き、理解や習熟、喜怒哀楽や審美眼などが培われる。このために、空間的な区切りはある面では有効だろうが、教科、道徳、総合的な学習、部活動、生徒会活動、ボランティア活動などを包摂する日本の学校、とくに中学校においては、あまり意味をなさない。どうしてって、生徒の生活リズムが学校ベースになっていることを認めざるをえないから。

そこで、学校の外に教育的機能を持ち出せないのであれば、学校の中の機能をむしろより充実させて、つまり、教員だけでなく、スクールソーシャルワーカー、養護教諭、スクールカウンセラー、図書館スタッフ、スポーツ指導員、音楽指導者、文化・芸術関係の専門家、さらには退職教員など、多くの人々、しかも「社会総がかり」などと牧歌的な表現ではなく、ある専門性を持った人たちによる分業体制として、学校での業務を想定してするのが、合理的と思われる。こうしてこそ、リーダーシップやコミュニケーションというテーマもより豊かに広げられるだろう。

外部資源の活用を進め、それらを学校内部の資源ともしつつ、狭義の教育に留まらない活動の場を学校として提供するということ、こうした方向に近未来の学校像を求めるべきと、私は考えている。読者のみなさんのご批判を頂戴したい。
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by walk41 | 2014-12-29 16:18 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

やっぱり無理やわ、学校でのPDCAサイクルや目標管理

中学校に関わるようになり、日々の実にあれこれの出来事を知るに、いっそうそう思う。学校教育でPDCAサイクルや目標管理って話はやっぱり無理やわ、と。

なぜって、学校では教職員が児童生徒に働きかけをして、教育的価値と言われるものを付与するといったことよりも、児童生徒、とくに中学生以上の生徒があれこれをしてくれることによって、学校の機能がなかなか「正常」に働かなくなるほどに、彼らの行為やときには心象が大きく影響していると思われるからだ。

あれだけ伝えたのに宿題をやってこない、派手な格好でやってきて校則を破る、器物を破損する、「いじめ」に類する行動をとる、あるいは「心の風邪」を引いて不登校になる、さらには冬場など風邪やインフルエンザで学校を休む、学級閉鎖になることもある、といった具合に、学校が困ること、悩むことに事欠かない。

なのに、学校が教育目標に即して年度あたりの目標を立て、点検、評価、修正を加えながらも目標の達成に尽力をするというPDCAサイクルにもとづく目標管理論は、こうした生徒たちのあれこれを、あまりに等閑視しているのではないだろうか。基本的に教職員、とくに教員が主導権を持っており、生徒たちを教育の対象として、客体として捉える、こうした発想が学校にもよるだろうが、生徒の「問題行動」に翻弄されがちな学校現場のリアリティにどれほど沿っているか、疑問なのだ。

自分たちが職務対象をいわば仕切り、加工、調整できると考えることが、学校という場でどれほど現実的なのか。学校では、仕事は自分の前に流れてくるのではなく、すべき仕事に向かって職員が動かなければならない、という特徴を帯びている。(榊原禎宏「学校組織構造のメタファー」『京都教育大学紀要』No.113、2008、を参照)。だから、校務分掌のあり方も書面通りにはならないし、ひいては、学校組織の捉え方も、「鍋ぶた」や「ピラミッド」という喩えなど、不毛なのだ。

好むと好まざるとに関わらず、学校がどのような特徴を持っているかを踏まえること、それを脇に置いて、「意識改革が重要」とか「管理職のリーダーシップが職員を動かす」と無責任なことを宣う「著名な研究者」や「教育評論家」がもてはやされるとは…。万年野党だからこその物言いだけれど、大いに憂うべき学校業界の知的水準だと私は思う。
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by walk41 | 2014-12-26 11:48 | ことばのこと | Comments(0)

授業を作る力

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南西ドイツの基礎学校を訪れたが、教員の力量次第やなあと、強く思わされた授業があった。

2年生への英語だったが、この女性教員は、私が見た限りこんな感じで進めた。
①猿のぬいぐるみを抱き、歌で授業をスタート。
②バスケットボールだったかな、七色のボールを示したフリップを順に張り出し、子どもにred, yelllow と言わせる。
③予め黒板に記していた七本の帯線と色の頭文字の順に、「o は何かな?」と手を挙げさせ、子どもの手でチョークで色を載せていく。写真は今から色を置いていくところ。
④これができたら、虹の色の歌をみんなで歌う。この時が初めてではないだろうね。
⑤教室の後ろに全員が移動、車座にただし椅子に座って、「blueの服を着ている人は動いて」とゲーム。全員が動く掛け声も忘れない。
⑥最後に、家に帰ったら七色の英語の話をお家の人にするようにと伝えて、おしまい。

20人ほどの規模だからこそできる部分もあるだろうけれど、45分の授業を、a.子どもを飽きさせないテンポ、b.話す、聴く、読むという活動の幅(書くことはこの時間ではなかったけれど)、c.教員がエンターテイナーとして楽しそうに振る舞うこと、d.教員の行動が話す、聴く、読む、書く(板書)だけでなく、ギターを弾いたり、歌ったりと、演出に関わる力量を持っていること、を見たように思う。

ちなみに授業後、この方は「全ての教員が楽器を演奏できることが必須だと私は考えているけれど、多くの学生が、楽器は、音楽は…と引き気味なのは残念だ」と話されていた。なるほどと思う。

メニュー豊かに授業を構成できること、いわゆる一本調子ではないこと、そのためにも教員が多面的に教材を理解できていること、また教材を自分なりに再構成して、状況に合わせて柔軟に対応できることが大切と感じさせられた。そのために求められる教員の身体性(発話、子どもとのやりとり、子ども同士の声を聴く、音などを介して楽しい雰囲気を作り出す、といった)を深めてみたいと思った次第だ。
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by walk41 | 2014-12-23 12:22 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

グローバル教育

大学でもこうしたテーマでの研究や附属学校での実践が課題となっている。国民国家だけで生活が成り立たない中、教育問題も地球規模で考えるべき時期に入っているのだろう。

ただし、グローバルという名前のゆえかもしれないが、着眼や具体的な方略があまりに多岐に渡り、いわばなんでもあり状態に陥っているようだ。少し交通整理をしてみたい。

①グローバルが国内だけでなく、国外にも目を向けるという、空間的な広がりを指すのであれば、このことと文化的な共通性の高さー低さは必ずしも相関しない。すなわち、国内のことだから共通性が高く、国外に関することだから共通性が低いわけではないからだ。たとえば、京都に住んでいる子どもだからといって京都の歴史に通じているわけではなく、反対に世界を席巻しているマクドナルドには馴染んでいるといったことである。

②空間的に内側domestic であっても、時間的に縁遠いものであることは多く、また現在のことですら、身近に知らないことも多い。過日も山岳グッズを扱うmont-bell という大阪市の会社を、ヨーロッパのものだと思っていた学生がいた。

③空間的に外側foreign であっても、時間を超えて同化されていることは少なくなく、もちろん現在のことはなおさら共通的である。フランス革命時にクロアチア人が身につけていたネクタイはいま、サラリーマンの定番であるし、リーマンショックが日本にもすぐさま波及する。

④だから、グローバル人材の育成とかグローバル教育を標榜するのであれば、このことが即、多文化共生を意味するわけではないことをスタート点に、共通性を獲得する時期や内容と、相違性に気づき学ぶ時期や内容とを、とりあえず峻別して捉える必要がある。

⑤具体化すれば、前者は幼稚園、小学校、特別支援学校を中心に、言語、規範といった共通性を獲得する。そして後者は中学校、高校を中心に、歴史、地理などを手掛かりに異質性に着眼できるようにする、という棲み分けが考えられる。

⑥グローバル化とはアイデンティティーの喪失でもあり、ナショナリズムの高揚をももたらす。移民排斥、ヘイトスピーチなども観察される。

学校教育に限らないが、教育のお喋りは、常に何かを得るという視点が強く、何かを失うという発想は弱いように思われる。教育あるいはコミュニケーションは、共通化を基本的に志向するのだから、分かり合える範囲で同化することは、その範囲を超える菲同化、不寛容、排除をもたらすことでもある。これが教育され過ぎることの問題である。グローバルといったマジックワードに溺れず、丁寧に考える姿勢をいっそう持ちたいと思う。


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by walk41 | 2014-12-21 11:51 | ことばのこと | Comments(0)

甚だしい認識錯誤

山本敏郎ほか『新しい時代の生活指導』(有斐閣アルマ、2014)を読みかけている。

この中に「学校づくりと生活指導」とあるが、その冒頭に「今子どもたちは、学校の管理・経営業務にあたかもそれが当たり前のように従事している。子どもたちが学校の管理・経営業務に携わることに意味はあるのだろうか」と記されていて、目が点になってしまった。何じゃ、こりゃ!?

本文を見ると、さらにびっくりすることが書かれている。1989年の学習指導要領によって、児童会や生徒会が子どもたちの自治組織であることが決定的に否定されたと述べたあと、「(児童会の)各種委員会は児童会の委員会というよりも、顧問教師の指揮・監督・統制を通じて学校の管理・経営に協力する委員会になっている。学校重層構造論と接続すると、作業層のいわば『下請層』として、顧問教師の指揮・命令のもと、学校経営に一方的に協力させられているといってよいだろう。」

こういう文章を見ると,学校教育は正確で厳密な客観的な捉え方よりも、当事者の願望や希望といった主観的な捉え方が優位しやすいこと、だからこそ、「どうしたらいいのか」に遙かに先立って「どう捉えたらいいのか」が丁寧に議論されるべきと、改めて強く思わされる。

全国3万校ほどの小・中学校、あるいは高校と特別支援学校を加えれば3万5千校ほどの初等・中等学校のすべてを知ることはおよそできないが、それでも、児童会や生徒会が、学校の管理・経営業務に協力的といった事実がどれほど認められるのか、まったく疑問だ。ここで言う「学校の管理・経営業務」が何を指すのかにもよるけれど、学校経営を看板にする私の立場から、子どもに関わる学校での仕事を挙げれば、「学級崩壊」や怠学がなく、落ち着いて授業が進められること、「いじめ」や暴力、あるいは不登校といった学校の機能を脅かす行為のないこと、が一番に来る。

これらが、児童会・生徒会の協力のもと、うまく進められる、運ばれるのであれば、学校にとって何と嬉しいことだろう。しかしながら、そうなっていないからこその、生活指導であり生徒指導なのだ。必ずしもそうなっていないから、むしろそうでない状態が一般的だからこそ、生徒指導加配、少人数加配、スクールカウンセラーの派遣といった行政的支援がなされ、また、地域ボランティアの活用、縦割り班の編制と、学校経営上の方略も見られるのである。そもそも、学校に通っている子どもと教職員との間に、法的・行政的根拠にもとづく指揮・命令・統制といった関係が成り立つはずもない。

だからこそ、同書にも、授業中に立ち歩く、教師の指示に従わないといった「学級崩壊」、「いじめ」や「暴力行為」が指摘され、問題視されている。このことは、子どもが学校の業務に従事している姿からほど遠いことを示すものだろう。一冊の本として整合性がまったく欠けていることを、読者はどう理解すればよいのだろうか。

まさしくそのように、教職員とくに教員は、宿題をやってこない、時間を守らない、つまらないことでケンカをする、学校の器物を損壊しかねない子ども達に、大いに手を焼いている。「顧問教師の指揮・命令のもと、学校経営に一方的に協力させられている」など、虚妄に過ぎない。にもかかわらず、つまり同書でも「生活者としての子ども」に迫ると謳いながら、かくも浮き世離れした言葉が、なぜ活字化されるのか。大きな謎だ。

学校教育の研究とは、その実際に迫ろうとすることだけにあるのではない。研究の名の下にどのようなことが行われているのか、それは何をいかに見ることで(あるいは見ないことで)導かれているのか、を明らかにすること、こうしたメタ研究も、学校教育研究の重要な柱となる所以である。
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by walk41 | 2014-12-18 08:59 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

なぜ斜めの駐車場にしないの

何度となくドイツを訪れ、見ているはずなのに、はっきりとは気がつかなかったことがあります。もっとも、私が見た二つの例だけで、ドイツを語ることはできませんが。

それは駐車場でのラインの引き方、車を停めさせる時の格好が、駐車場の壁に対して、直角ではなく斜めに引かれているということです。

こうすると、車を入れる時に大きくハンドルを切る必要がないので、スムーズに留めることができます。また、車を出すときも、斜めに少しだけバックすればいいので不安も小さいでしょう。

これに対して、日本のおそらくほとんどの駐車場は直角にラインが引かれているため、入庫するのに時間がかかります。なぜなら、直角に前から入れるのは、隣にすでに車が停まっている場合、一度では事実上不可能です。切り返しが必要になります。また、出庫するときの不安も手伝って、どうぜ切り返すのなら、初めからバックで入れようとするために、これまた一度で停めることができません。これに要する時間のために、後続の車が待つことも珍しくなく、また入庫、出庫の間もエンジンをかけているので、ガソリンの消費量も増えます。

ただラインを斜めに引けばいいだけなのに(停められる台数が少し減るという弊害はあるでしょうけれども。これが大きな理由かしらん)、なぜそのような駐車場を見ることがないのでしょうか。それとも、私が知らないだけ?

ぜひ、皆さんのご意見を伺いたいものです。ラインを斜めに引いて前向き駐車、そして後ろ向き出発、これで行きませんか。エコな時間とエネルギーのために。

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by walk41 | 2014-12-16 14:38 | ドイツのこと | Comments(0)

大学入試の問題なのか

学会で「高大接続」のシンポジウムに参加する。大学入試の「より良い」あり方について分析、提案が行われたが、まったくしっくりこない。自分が得心できるとはおよそ思えない。大学入試の問題とは基本的に思えないのだ。

1. 大学への進学希望者が入学定員を上回る限り、選抜は不可避である。ドイツで制度化されているAbiturは、確かに絶対評価に基づく資格試験であるけれど、ただAbiturを取ればいいという話ではなく、より良い点数でAbiturを通過しなければならない。この点では、日本の特殊性とも言われる集団準拠にもとづく競争でもある。議論の際に「隣の芝生は青い」は避けられないけれど、日本は特殊と言おうとするために、外国の例を乱暴に扱うのはいただけない。

2.ある学校の修了がその上級学校への進学を前提にしている訳ではないから、学校の修了を上級学校の入試で捉えようとする発想そのものが適切ではない。にもかかわらず、高校教育を大学入試で評価しようとすると、やりたいことがまだ見つかっていないにもかかわらず、大学先を決めなければならない、経済的負担も相まって浪人を忌避する「受かるところ」探しに奔走することになる、合格したら即、入学しなければならず、「五月病」にもつながりかねない。高校修了の問題は、大学入試の問題ではないのだから。大学入試に結びつけるから高校生が「生き急がされる」、まだ何をやりたいかわからないのに入試に臨まなければならないのだ。

なのに、なぜ大学入試の話になるのだろうか。大学進学率が上昇したとは言え、高校から大学に進むのはおよそ5割、残る生徒は大学とは直接に関わらない。彼らの高校修了の問題はどこ行くのだろうか。大学関係者がこのテーマを扱うことのムリ、ということかもしれないなあ。

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by walk41 | 2014-12-14 17:11 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

廊下も使っては?

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勉強は教室でするもの、という思い込みは、児童生徒に教員が伝える、指示することを前提にしているがゆえでしょう。だから、自ら学ぶと標榜するのであれば、教室外でも取り組むことができるようにしておくことは、何ら不思議ではありません。

ドイツの基礎学校の一シーン、写真は二年生ですが、廊下に置かれた机に向かっています。ドイツ語と算数については、週単位での課題が示され、できたがどうか自分でチェックをしながら進めていきます。質問があれば教員にたずね、課題ができたら別の課題にも臨むのです。だから、子どもはよく動きます。教室の出入りも多いですよ。

公開研究会や授業発表会で、子どもが廊下に出ていたら、関係者はびっくりするでしょうか。「かくあるべし」という縛りから自身を解き放つこと、これなしに授業改善など望むべくもないのではないでしょうか。



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by walk41 | 2014-12-13 10:34 | ドイツのこと | Comments(0)

クリスマスシーズン

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こんな様子を見ると、ドイツはやっぱりキリスト教の国だなあと思わされます。今の季節柄、学校もクリスマスモード、教室や職員室にはポインセチアが置かれ、モミの木の枝が散りばめられ、星やサンタクロースがモチーフのお菓子があり、という感じです。

日本では生徒の合格を祈るためと、何気なく教員が教室に神棚を作ったりして、宗教的中立性を侵すと問題になりますが、この地では、ましてやいま訪れている、いわゆる田舎の方では、キリスト教的であることは、まず認められているのでしょう。

ただのお祭り騒ぎではない様子も垣間見えます。この学校では、東ヨーロッパの子どもたちにまさしくクリスマスプレゼントを送るべく、文房具ほか生活雑貨、そしてお菓子などを詰めた箱が、毎朝のように家から運ばれてきます。いずれもズシリと重く、色々なものを精一杯入れてあるのだろうなと想像します。これらは関係団体を通じて送り届けられるとのこと。

キリスト生誕を祝うとは、互いに手を指し述べ合うことでもあるでしょう。路上で物乞いをしている人も見える中、いっそうそのように感じます。誰かに喜びをもたらすことができるような自分のあり方を考え行動することについて、この季節より問われているのでしょうね。
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by walk41 | 2014-12-10 13:31 | ドイツのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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