学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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「子どものために」とは言い切れない

中学校の校長と話す。この地域は、子どもを家業の後継にと考える保護者が少なくなく、学校から見て優秀だなあと思う生徒なのに、いわゆる進学校に進まず、地元の高校を選ぶケースが多いという。進学校に進んでも、大学にやると故郷に帰ってこないから、あるいは大学にやる経済的な余裕はないから、という保護者の考えが背景にあると聴く。

保護者の教育権から言えば、生徒のこうした進路選択も真っ当なのだけれど、子どもからすれば、十分な雇用機会もない、何よりも若者が好む楽しみも少ないこの地で暮らすということが、はたして幸せなのだろうか、と考えさせられる。

街中にいると、こうした話は昔のことと考えがちだけれど、駅からクルマで30分も山に向かったところにある、この中学校の現実でもある。

「子どものために」と声高に話す教員はきっと多いけれど、どうすることが「子どものため」なのか。私に答えは出せないけれど、悩む努力は続けたいと思う。

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by walk41 | 2015-01-29 09:47 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

他者を評する無神経

ある公開授業に参加した人から、興味深い話を聞いた。

「子どもの言葉が響き合い,繋がり、学び合う」うんぬん、といったスローガンで「校内研究」を進めている学校とのことだが、聞く話の限り、「身勝手な解釈もたいがいにしいや」と思わされる内容がいっぱいだった。

というのは。複数の子どもが話をすれば、学びあい、つながる、響きあう、らしいけれど、そもそも見えもしない「学び」なるものを、当事者を差し置いて、「学んでいる」「響き合っている」なんて、第三者が評することのおこがましさ、不躾さを、とても感じるからだ。

学んだか否かは本人の納得の問題である。そんな領域に対して、本人でない人間が、その当人の学びについて「よく学んでいた」(逆でも同じだ)と見ることの傲慢さ、恥知らずであることに、かくも無自覚なことがまず情けない。

本人のみならず他者もそう思えるようなことであればともかくも(共通認識を得た状態)、本人に「学んだかどうか」を尋ねることなく、それ以前に本人が「学んだ」と語るのを待つことすらなく、「あの子とこの子が話していたから学びが成立している」なんてうそぶくことの愚かさに気づいていないことが、大きな問題である。

こうした人間に対する無理解が基本にあるから、いかに美辞麗句を並べようとも、怪しげな宗教の域を出ることはない。まさに「鰯の頭も信心から」状態である。授業後の検討会であ-だこ-だと話をする暇があるのなら、先ほどまで教室にいた子どもに「学んだ?」と尋ねればよい。それをしないのは、自分たちの身勝手な、そして無神経な「子どもの学び」なる無駄話を邪魔されたくないから、と勘ぐられても致し方ないだろう。

重ねて言おう。学びというのは、当人の問題である。それを当人以外の人間が学んだ/学んでいない、などと評することの愚かさ、ひいては評する自分の「学力」がかくも低いことを露呈するに他ならない。

考えてみよう。子どもを相手にこんな馬鹿話をしていても、子どもは言い返さなかったり、しょうがないと諦めたりと、彼ら相手にはいい加減でもやり過ごすことができる。これと同じことを大人にやったとしよう。「あの彼は先ほどのやりとりで学びましたね」と呟いてみよう。さらには、別の人と「そうですよね。彼はよく学びましたよね」と話をするシーンを思い浮かべてみよう。どれほどふざけた話かがわかるというというものだろう。一介の教員に別の人格の学びについて、うんぬんできる力がどれほどあるというのだろうか。

こんな阿呆らしいことをさっさと止めて、しっかり教員の役割について考え、じっくりまず自分が学ぼう。学ぶとは蓄積することだけではない。学ぶとはこれまで学んだことを捨てて、刷新することでもあると心して、子どもの学び以前に教員自身の学びに心をくだくべく、労力を投じてほしい。それでこそ、学校教育にも支払っている納税者に対して説明責任を果たせるというものである。
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by walk41 | 2015-01-27 23:16 | 授業のこと | Comments(0)

学校でいう研究って

管理職を含む教員の勉強会に出る。数校からの集まりだ。来年度に向けた校内研究の見直しについて、複数の提案を聴く。

「…の研究を進めていきたい」「…が研究課題です」と言葉が続いたので、尋ねた次第だ。「自然科学でいうと研究とは違う意味だということはわかってますが、学校で遣われる研究とはどんな意味でしょう。研究という言葉は何をすることを指しているのでしょうか」と。

会場で「うーん」という声が漏れる。どこの世界もそうだけれど、使い慣れた、いわば手垢のついた言葉はなかなか顧みられない。何となくわかったような気になるからだ。だけれど、改まって問われるとよくわかっていないことに気づける。学校外からの刺激が必要な所以だろう。

結果、特別支援学校などでは医学との接点もあり、「何か新しいことを発見すること」という意味も持ちやすいのに対して、いわゆる健常な子どもを扱う普通教育学校では、収束ではなく拡散の方向を取りやすい、いろいろな事実の収集、もって教員の引き出しを増やしていくこと、が大きな比重を占めるのかなあという辺りに落ち着いた。

まだまだ考えるべきことはあるけれど、言葉を遣う際にちょっと立ち止まってみること、わかったような物言いをしていないか確かめてみること、そんな態度や指向をいかに養うかも、教員の資質向上のテーマになると、研修の中身を設計すべきではないだろうか。


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by walk41 | 2015-01-24 14:17 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

見せたいならちゃんと見せよう

タイトルから何を想像されたか、私が言うのは、研究発表会のことである。

学校外の人たち、大掛かりなものになれば全国に知らされるこの会は、見に来てもらいたいからのものである。だったら、見てくださいと演出しているかと言えば、実はそうではないのだ。見に来てもらっていることは知っているのに、公開される授業はあたかも見られていないかのように、つまり普段の授業かのように教員と児童生徒の間で繰り広げられることになっている。

おかしいよね。だって、発表会と名打つならば、その時点での一つの完成形が示されるべきであり、「こんなことができるんだ」「すごい、かっこいい」と来訪者に思ってもらえてこそのものなのだから。演奏、演武、演劇、演説、いずれもそうである。

なのに、まったく不思議なことに、研究発表会では、授業の過程を来訪者に見せ、さらにはそのプロセスが事後の議論の材料となる。完成形ではなく途中経過を見せて、「いかがでしょうか」と発表側が尋ねるのである。

見られていることは百も承知なのに、それを知らないふりをして、日常かのように演出することの無理さ(いつもはジャージ姿の教員がなぜかスーツを着ているのだ)もさることながら、さらに問題なのは教員と児童生徒、児童生徒間で生じる、微妙で不確定な事実を「望ましい実践」の一つとして取り上げようとすることである。高度に管理された工場でのモノづくりは、見られても大して影響を受けないが(だから、公開されうるとも言える)、教室や体育館での活動はこれと大きく異なる。だから、過程ではなく、過程の結果としての完成形で示すのが、教育ー学習という活動の特性に適っているのだ。

にもかかわらず、過程を見せる、しかもあたかも見られていないかのように振る舞う、この奇妙な儀式を、今なお続ける理由はなんだろうか。もし、「積極的な理由はないけれど、これまでそうしてきたから」と言うのならば、子どもたちに「自ら進んで」「新たな道を切り開く力を」など、どの口が言うのか、と非難されることになる。「それはそれ、これはこれ」と逃げないで、ぜひこの問題に向き合ってほしい。

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by walk41 | 2015-01-23 09:14 | 授業のこと | Comments(0)

「学力」vs「人間性」?

学校教育の議論における基本テーマの一つ、学校で目指すのは「学力」か「人間性」か、は尽きることがない。前者なのか後者なのか、あるいは両者にまたがるものなのか、そもそも両者の定義はどれほど確かなものかが、わからないままにお喋りがなされるからだ。だから、好き勝手な話ができるテーマの一つでもある。終わらない、だからある意味、盛り上がる。

そこで、今回は敢えて「人間性」こそ目指されるべきという立論をしてみて、そこに見える学校教育の可能性や限界を考えてみたい。

「学力」と対比させて「人間性」を強調するならば、その特徴は関係性にあると言える。ペーパーテストとよく言われる「学力」は、おおよそ予め決められた答え(正解、正答)にどれだけ近づくことができるか、をもって評価される。「100点満点」という言い方がこのことを示しており、回答者は正解に近づくほかない。正解と対話したり、議論をして結論を変更させることはできないのだ。

この点で「学力」は、問題-解答の関係がまったく固定的であり、関係性という言葉が登場する余地を与えない。児童・生徒は動かない相手に向かって自分を沿わせるしかなく、そのための行動はいわば直線的である。決められた正解に向かって、できるだけ多く、速く接近することが求められる。また自分だけで何とかなる(自分だけで何とかするしかない)ことと観念され、自身の工夫や努力が大切と学ぶことになる。

これに対して、「人間性」が問われるのは、相手との関係性においてである。相手に好かれるかどうかは自分だけではいかんともしがたく、仮に相手に好かれるように自分が変わったとしても(相手に自分を沿わせても)、さらに相手が変わるかもしれないから切りが無い。そもそも、自分も月日と共に変化するので、結局のところ、どうすれば上手く人付き合いができるかの正解はなく、「臨機応変に」「柔軟に」といった次元を越えるものにはならないのである。

さて、「学力」にシャカリキになると、関係性が等閑視される。これに対して「人間性」は、優しさ、丁寧さなど、多くの人に共通する肯定的価値観を含みながらも、「好み」や「相性」といった自分と相手との関わりで決まる部分が多いから、また場面に応じて求められる態度や振る舞いも一様ではないので、「自分がこうすればいい」とあまりに考えると失敗する。「必ず成功するデート」や「誰にでも好かれる方法」はまあ成り立たないのだ。

「でも、基礎基本は大切でしょう」と「学力」派から声が上がるだろう。確かにそうだと思う。ただし、それは「正解主義」だけでは上手くいかない、そこから距離をとった「相対主義」(この言い方でいいのかしらん?)を併せもってこそ、意味があるのであって、片方だけでは「押しの強い人」「マイペース」の誹りを受けかねない。つまりは損なことになる。何よりも自分がハッピーになれない。

教科書やテストに向かいがちな「学力」獲得も大切だけれど、自分と異なる他者、それは大人になっていくほどに多様な価値観、論理、行動をする異文化の固まりでもある人たちと、なるべく上手く関わること、ましてや、他者に評価されてこそ、多くの人たちは喜び、やりがいを感じることを踏まえて、学校での生活を味わうこと、こんな立論ができるかと思う。皆さんからのご批判を受けたい。
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by walk41 | 2015-01-22 10:08 | 身体 | Comments(0)

自分に引きつけて考えよう

大人数授業での最終レポート。事前に、授業の冒頭に提出できるよう準備をすること、即、クラスメイト間で交換をして、私が言う「赤ペン先生」に臨むことを伝えてある。

さて当日、三名が遅れてやってきた。聞くと、電車酔い、財布忘れ、電車逃し、と言う。そこで彼らに尋ねた。「君たちが教員の立場だったら、このレポートは受け取るか否か。」他の60人弱の学生はすでに「赤ペン先生」に取り組んでいる状態である。

すると、ある学生は理由から仕方がないと答え、別の学生は理由として認められないと返した。「じゃあ、それでいいかな」と演じてみながら、「だけど、それだけで判断するのも難しいよね。これまでの経緯、あるいは今の様子をチラチラ見ている他の学生の気持ちなども考えないと。こんな風に、短い時間で判断を求められる一方、葛藤する価値観も認めつつ、というのが教職の日常でもあることをわかってね」旨を話したのだ。

これまでにも学生に話している。「教育について学ぶのはけっこう怖いこと、なぜって教育に関わる自分の価値観、論理そして行動も、いわばまな板の上に載せられ、吟味されることになるから。これまでの自分を部分的であれ否定されるって辛いものがあるでしょう。だから、教育について学ぼうと思うなら、しっかり覚悟をしてね。」

自然科学でも倫理的な面が問われるけれど、人文社会系においては一層だろう。学生の有り様を自分が嘆くとすれば、その一端は自分にも原因がある、と私も心しなければと思わされる。けっして、ええかっこしい、ではなく。




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by walk41 | 2015-01-20 09:40 | 授業のこと | Comments(0)

コピペが起こらないように

大学はいま、卒論や修論、あるいは年度末の修了レポートと慌ただしい。

この折、学生のレポート、さらには驚くことに卒論にすら、コピーとペーストが見られると、いたく嘆く大学教員のつぶやきが紹介されていた。

でも、とても不思議でもある。確かに、コピペは大問題だ。知的財産に微塵の敬意も払わず、泥棒まがいのことを、いや泥棒そのものだろう、他者の文章で単位や学歴を得ようとするのだから。盗人猛々しいである。

しかし、こうしたレポートが出てくるような、怠惰な大学教育も土壌としてあるのではないか。まず授業でのレポートについて、なぜその授業に出ていない人の文章が使えるような課題を出すのだろうか。「ヘルバルトの教育方法上の意義を述べよ」といった課題を教員が示すから、どっかに転がってないかなと学生が探す羽目になる。

そうではなくて、「7回目の授業で見せた資料映像の内容を踏まえて、教員の感情労働の特徴を論じよ」とか「4回目の授業レジュメに紹介されている、前回の感想からの8行目の意見についてコメントせよ」と課題を出せば、授業に参加していないと応えられないし、授業レジュメも必要になる。先週など「その映像見ていないんですけれど」と言いに来た学生に、私はコピーして(DVDは学生に用意させた)渡したくらいだ(えへん!)。他に文章を探すなど必要ない。

ましてや卒論については、何を言わんかやである。最終的に学生が論文提出に至るまで、どれだけ話をし、てにをはに始まる日本語の添削をし、資料の妥当性を確かめと、繰り返すなかで、徐々に出来上がっていくのが、論文指導である。これをしていないから、突如それが現れ、読むとコピペだらけと悲嘆にくれることに陥っているのではないか、とは言い過ぎだろうか。

当の学生以上に論文のテーマ、構成、関係文献を識っており、より真っ当な方向に向けていくのが論文指導なのだから、コピペが入る余地があるはずもない(フェアなコピペ、すなわち、出典を明記した引用は大いに奨められるべきである)。だから、嘆く暇があるならば、しっかり論文の作法を含めて学生を指導しなければ。

なのに、二年前だったか、電車の中で大声で学生が話していた。「ウチのゼミ、論文指導がないから、出したら終わりやねん。」関関同立と言われる大学の一つである。そんなこと、他者に聞こえるような声で喋らんといて。こんな体たらくな大卒者を世に放って良いのだろうか。「腐っても」大学卒の資格が輝くようにできることはあまりに多いだろう。


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by walk41 | 2015-01-19 10:42 | 研究のこと | Comments(0)

オノマトペはどう学ぶ

4500ほどあるという擬音語、擬態語、さらに増える傾向にあるとも聞く。

そこでとても不思議なのだが、学生と話していても、「もふもふ」が「もこもこ」や「もやもや」と違うということについて、明らかに共通理解が得られている。聞くと「もふもふ」は、羊の毛のようだとのこと。触ったこと、あるのん?

漫画に多用される、特に少年漫画に出てくるような、グサッ、ドタン、といったオノマトペに、子どもの頃から親しんでいるからわかるんだ、と言う人もいるけれど、それだけでは新しい擬音語、擬態語がなぜわかるようになるのか、の説明にはならない。

ましてやオノマトペは、辞書に載りにくい言葉で、またニュースなどでも使用が忌避されやすい、と言えるなら、謎はいっそう深まる。

どなたか教えてくださらないだろうか。特段の学習機会がないように思われるのに、どうして「何となく」オノマトペがわかるようになるのか、について。

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by walk41 | 2015-01-16 13:29 | ことばのこと | Comments(0)

不登校

NHK、クローズアップ現代、不登校12万人-その背後にある睡眠障害、を興味深く見た。

塾や習い事、あるいは早朝の部活動などで、求められる睡眠時間を確保できず、その結果、眠りと活動とのバランスが取れなくなる睡眠障害を生じている子ども、青少年が増えているという。

こうした報道に接するに、不登校問題をまったく学校問題として自分が捉えていたなあと反省させられた。それはたとえば、学校と生徒の相性の問題、学校での生徒の人間関係の問題といったことだ。不登校問題は確かに学校に関わる問題ではあるけれど、同時に、朝起きることができない、活動のペースをうまく作ることができない、という点では、健康や運動、あるいは生活全般に関わることでもある。学校教育の問題だけではない。あるいは、保護者による虐待ゆえに学校に来られない子どもも、全国で千人を数えるほどいることをごく最近、知った。

なのに、学校教育のことばかり考えているが故だろう。不登校問題を学校教育の文脈でもっぱら扱う自分がいることに気づかされた次第だ。かくも、見慣れている言葉にこそ、注意を払って分析的に捉えること、一つの現象の広がりをより具体的に観察できる能力を高めること、自身の課題として臨むべきと強く思わされている。



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by walk41 | 2015-01-10 21:22 | ことばのこと | Comments(0)

誰か教えて

ご覧になったことがあるだろう。ワゴン車やトラックなど、側面が大きな車に、会社名などが記されているのを。

たとえば、山田運輸としよう。背面にはこのように記されているのに、側面には、「輸運田山」と多くの場合、記されているのだ。右から左に読むようにということですね。不思議で仕方なく、もう20年近く前になるが知り合いにこのことを尋ねたら、車の進行方向からの方が読みやすいからでしょう、と返ってきた。ううむ。

私だけなのだろうか、車の進行方向に沿っているからといって、決して読みやすいわけではないと思うのは。ましてや、過日見かけたトラックには、"transport"などとアルファベットでも表記されており、それは左から右に読むようになっていた。同じ面でどちらから読んでもいい、は不便だろう。そうじゃないのだろうか。

皆さんに伺いたい。①このような表記は読みにくいと感じられませんか? ②なぜこのように記すことがあるのか理由はご存知ですか?

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by walk41 | 2015-01-08 13:30 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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