学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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コミュニケーションとコンテキスト

文科省の研究開発指定ともなっている「メディア・コミュニケーション」に関する報告を聞いた。主としてコミュニケーションをはかるために必要とされる道具や機器と、コミュニケーションの根幹たる言語的または身体的な表現と、広くメディアを捉えており、狭義の方法的な発想に留まるものではないことが、よく伝わった。

その一方で、こうも思う。「言葉にすれば嘘になる」という言い方があるかどうか定かではないが、言語化ほか客観化することでは伝わらない部分を担う、非言語的なメディアについても考えていかなければなあ、と。

誰が見てもそうだという客観性は、当事者間のコンテキスト(文脈)と負に相関する。客観性が高いことは、コンテキストを低めることにつながるのだ。この反対に、当事者間での前提や了解が多ければ、第三者にはわかりにくいという点で客観性があまり担保されないことにもなる。

グローバル社会は、より多くの人々と繋がる可能性や必要性をもたらす反面、ドメスティックな側面を弱める。狭い世界ー身内、仲間、県民性や「日本」らしさといったーからより広い世界へと誘うものだ。このことは、言葉ほかに依拠して人々の同化を促し、共感を強める反面、それぞれの差異を捨象するものでもあるだろう。

子どもの頃、たとえばアメリカ合州国を指して人種の「るつぼ」(melting pot)と学んだが、溶け合うつまり同化的意味合いが強いからと、今は「サラダボール」(salad bowl)と言うのだと最近、知った。

違っているけれど一緒にいるという「緩やかな」、思い切って言うならば「ちゃんと分かり合えなくてもいい」くらいのコミュニケーションとコンテキストの関係がいいんじゃないかな。


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by walk41 | 2015-02-28 10:01 | 身体 | Comments(2)

地図記号

クルマを運転中、学校を示す「文」マークを電柱に見つけて、「そういえば、地図記号ってどうなっているんだっけ」と思ったのだ。

調べると、現在の学習指導要領には小学校の段階で地図記号を扱うこととなっている。なるほど、私が小学生だったころと同じような状況らしい。たしか中学年あたりだったか、発電所、森林、寺社と、クイズのノリで覚えたことを思い出す。

しかし、今やgoogleマップほか、ネット上での数多の地図サイトを見れば、こうした記号ではなく、ちゃんと正式名称で出てくる。「関西電力(株)高浜発電所」と丁寧なこと、この上ない。もちろん、地図帳で見る場合もあるだろうけれど、縮小/拡大が自在なweb上の地図は、スペースの有効活用でもある地図記号の出番を狭めているのではないだろうか。

ここで、小学校教員のみなさんにうかがいたいが、地図記号を扱ったときに、児童の意欲が低かったり、記憶も覚束なかった場合、その原因や背景を何に帰属させるだろうか。仮に、実際の生活で不要なものなのに、やることになっているからと取り上げ、結果、児童のパフォーマンスが不確かなものであったら、彼らの問題に答えを求めるのだろうか、それとも、児童の意欲を喚起できない自分の授業技術の問題と考えるのだろうか。

答えはそうではなく、意外なところにあるのかもしれない。それは、私たち、そして子どもたちの情報環境の激変が、学ぶべきことを大きく揺るがしているという事実である。
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by walk41 | 2015-02-27 20:10 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

島を育てる学力?

南の島を少し旅した。島に一つだけという小中学校があった。平屋の校舎、広いグランドがある。聞くと全校児童生徒は50人ほど、複式のクラスもあるとのことで、いわゆる僻地教育のフィールドと言って良いだろう。

ちょうど下校時間とかちあったため、家に帰る子どもたちに道を尋ねて、集落を自転車で回った。親切にまっすぐ行って右に曲がってと教えてくれる。中心部とは言っても、数筋も過ぎれば集落がなくなるというほどの小ささだった。

この学校の卒業生で進学する生徒は、間違いなく島外に出ることになる。この島に高校はないからだ。掲示板には、生徒が記した今月の予定が張り出されていたが、その一つに「学力検差」と書かれているのを見ながら、彼らが学力をつけることは、この島にとってどんな意味があるのだろうかと考えさせられる。

東井義雄『村を育てる学力』(1957)は後々に至る論争的なテーマだが、これをもじれば「島を育てる学力」はどのようなものか、また学校はそれを担いうるのか、今も問われていると実感した。島の人は大方が作業着かポロシャツなのに、ネクタイ姿で姿を現した学校教員を見て、いっそうそう思わされたのだ。

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by walk41 | 2015-02-26 19:16 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

ロシアンルーレット

神奈川県で中学生が遺体で発見、不登校の生徒だったと聞く。

例によって、学校のこれまでの対応が問われ、説明に奔走させられる様をテレビで見て、さぞ大変なことだなあと気の毒に思う。

学校は生徒を確かに預かってはいるが、それはあくまでも学校にいる間のことであり、彼らがより影響を受け、あるいは及ぼす学校外のことまで関知さらには操作できるものではおよそない。学校が自分たちではどうしようもない事柄について、あたかも権限と責任があるかのようなスタンスで報道関係者に迫られるのは、まったく理不尽なことと言わなければならない。とくに思春期を迎え、生徒当人ですら困惑する疾風怒濤の時期に当たる中学生に関しては。

ある中学校教員が話してくれたことがある。「中学校で務めるというのは、ロシアンルーレットのようなもので、何か起こるのが当たり前で、起こらなければラッキーという場なのです。」

なのに、しっかり生徒指導をして、危機管理ができていれば問題は未然に防げるというムチャな前提が、正義として振りかざされ、これに応えられない最前線の教職員がいたずらに消耗するという構図、これまでにも経験したのではないだろうか。補給ルートの確保なしに、やれるだけやれと最前線の将兵を煽り、無駄死にさせたどこかの国の軍隊のことである。

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by walk41 | 2015-02-25 08:39 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「気付いてよ 既読スルーも 返事なの」

第一生命保険による好例のサラリーマン川柳の入選が決まった。

私がおもしろいと思ったのは、「気付いてよ 既読スルーも 返事なの」。話さないコミュニケーションも大切なことを伝えている。

学校教育に限らないだろうが、「コミュニケーションが大切」が蔓延している。ところが、そのイメージはといえば、話す、伝える、が主で、聞く、耐える、という発想が乏しいように思うのは、私の狭い世界ゆえだろうか。

黙っていても、コンテキスト(文脈)があれな伝わる、いや黙っている方がより伝わるという、人間関係の面白さ、不思議さ、こんな関わりを自分もいっそう続けたいなと強く思う。
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by walk41 | 2015-02-23 23:06 | ことばのこと | Comments(0)

実証

大学教育もご多分にもれない、いや、ある意味では初等・中等教育段階の学校以上だろう。実践をした結果を客観的に示すという実証研究の掛け声の嵐である。

いわゆる正論を目の当たりにして、言い返せない状態というのは、自分も多少は関わっている領域があるから、わかる。立場ゆえの辛さもあると、確かに思う。けれど、だ。

ひとりの人間が生まれ、回りの環境に影響されて、ときに助けられて、時を過ごしていく。成長したつもりでも、少しあとで「わかっていなかったなあ」と反省が起こる。あたかも振り子が左右に揺れるようだ。

おそらく当事者はみんな知っているのだと思う。教育に関わる実証など、大方は無理なことを。にもかかわらず、納税者に対する説明責任や自己管理目標と言われると、そのもっともらしさに反論ができなくなってしまう。

ここで求められるのは、一見は不合理でも人間やその社会を説明する上では避けて通れない、曖昧さ、無計画さ、場当たり的なものへの着眼である。測定、客観、そして記録という点から見れば、教育という活動もこれらに収斂されると見なせるだろう。でも、実はそうではない、つまり、それなりの長い時間と向き合うことになる人間は、測定に際して時間的な幅に問題があるし、客観というにはあまりに観察点が多すぎるし、また、以前の記録がほとんど役に立たないことを知っているし、という特徴を踏まえざるを得ないのだ。

大学評価、研究評価、教育評価、いずれであれ、溢れがちなのは「人間は、自身の頭で考えるほどには、合理的ではない」という知見である。宝くじほかの賭け事、あるいは人間の推測の大らかさを挙げれば、どれほど人間が合理的であり得るか、確かめるべきだと言える。けれど、測定を伴えば、それなりに合理的な結果を導くことができる(PDCAサイクルなど)、という素朴な革新は、教育という行為に関わる基本的なボタンの掛け間違いをしていると言わざるを得ない。

実証や客観と唱道している当事者もおそらく気づいているのだろう。なんか違うなって。だからこそ問いたい。おかしいなという感覚を一回は信じて、向き合ってみること、今後の世代交代も著しい中、まあいいかと投げ絵仕舞わないこと、自身にも言って聞かせたい。
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by walk41 | 2015-02-23 22:16 | ことばのこと | Comments(0)

朗報

通りかかったお店の窓に大きく宣伝あり、「朗報、2月◯◯日、生餃子、◯◯◯円」。

まあ、朗報だろうけれど。

わからなくはないけれど、ちょっと違うよね、って言葉は、意外に多いかもしれないね。



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by walk41 | 2015-02-23 08:41 | ことばのこと | Comments(0)

外国についての研究

久しぶりに学会の例会に出る。発表者の思いや熱意を感じられ、とても刺激を受けた。

その一方で、どうしたものだろうかと疑問も大きかった。その一つが外国の研究のあり方である。たとえば、私が大学院生だった頃ならば、資料そのものが日本国内では限られていたから、それ以上を求めるなら、彼の国に行くしかなかった。向こうに行って図書館を訪れて、関係しそうな資料を探してできるだけコピーしてという手間暇が要った。その分野の研究者もいることは知っていても、約束の取り付けを考えるとおよそ試みようとも思わなかった。いや正直に言おう。そんなインタビューや対話など思いつくことすらなかった。

それが今は、インターネット上に資料は膨大だし、研究者の連絡先も容易に見つかる。電子メールでアポイントメントを取ることもできるだろう。ラッキーならば顔写真も見ることができる。心算もできる。それどころか、直接に合わずとも意見を伺うことすらできる。調べたことを学会で発表中に、聴いている人が資料を探し、発表通りの内容かどうかを確かめることも十分に可能だ。

こんな風に環境が激変する中、どのような外国の研究ができるのか、そして意味を持ちうるのか、とりわけ若い世代は悩むことだろう。知りたくても知ることのできなかった時代から、知りたくなくとも知ることができる時代へと移った今、いかに研究を進めていくのか、私も議論に加わりたいと思う。

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by walk41 | 2015-02-21 17:43 | 研究のこと | Comments(0)

実践にこそ謎がある

学校に伺って様子を少し見せてもらうたびに思う。どうして教育実践に問いを立てないのかな、って。

「こうするべきだ」と思い込まないで、「どうすればいいのだろう」と今やっていること以外のやり方に、もっと思いをはせて試みてみること、つまり、色々なやり方についてよりアイディアの出る方向へと自身を促せるのではないかな。

生徒が掃除をちゃんとしない、ならば、彼らを叱咤するだけでなく、どうすれば彼らが動いてくれるかを、これまでとは違う方法で考えてみる。だって、これまでそうしていてうまく行かないのだから、別の方略を考える必要があるのだ。

なのに、なぜか、これまで通りのやり方を、失礼ながら「なんとなく」続けて、事態が変わらない。そしてやがて疲弊する。新しいことをやろうとする気力も湧かなくなる。悪循環である。そうなる前に、まだ元気なうちに、自分の引き出しを広げ、事態に柔軟に鷹揚に臨むことができれば、また違った結果を導けるかもしれない。

そんな余裕はないよ、というのが定番の答えならば、その余裕を持てるようにマネジメントすること、そんな働き方を考え、試みてみること、そうした実験精神ともいうべきものが教職では、いっそう大切ではないだろうか。

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by walk41 | 2015-02-20 07:37 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

そこを丁寧に言葉に

一回生のレポートを読む。1年前はほとんどが高校生だったが、この間にどれくらい伸びてくれただろうか。

敬体と常体の区別、段落の構成(改行)、接続詞の使用、具体と抽象のバランスそして往復は、と見ていくと、これら以前の段階にある文章にも出合う。「すごいと感じた」、「とても驚かされた」などの表現だ。

どうすごいのか、何に驚かされたのかが明らかでなく、いわば自己完結に留まっている。他者に伝わらない。このままではレポートではなく、まあ日記、備忘録である。

まだわからないながらも別の言葉を探すこと、借り物の言葉で良いから言い換えてみること、これを通じて感覚的なものから認知的に取り上げることができる。限りはあるだろうけれども、それでも言葉として読む人に伝えることができる。そのための吟味や呻吟、つまり推敲する体力が必要だ。

思ったままをすぐに言葉にしないこと、どのように翻訳ができるかを確かめつつ表現しようとすること、こうした慎重さと新しい表現に臨むという点での意味での大胆さを身につけていくこと、そんな大学生活を過ごしてほしい。

こうした能力の基礎は、もちろん以前の学校経験にも裏打ちされる。だから、子どもがちょっと思ったことを述べただけで、「自分の言葉で表現した」とか「子どもたちの言葉がつながった」などと、見えもしないものについて、子どもの人権そこのけで「学び論」を戯れることが、いかに危険か、また教育的にもどれほど有害なものかがわかる。




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by walk41 | 2015-02-17 17:58 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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