学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

<   2015年 07月 ( 12 )   > この月の画像一覧

「チーム学校」を考える(3) 学校はサークルか

チームって目標が明確で達成できたかどうかもはっきりしていて、ゲームのいかんはとりあえず自分たちの権限と責任で動けるようなグループだなあ、と人と話しているときに、気づいた。そうや、似たような言葉にサークルっていうのがあるやん、って。

学生の間でも区分けがあるようだ。テニス部とテニスサークル、という具合に。前者は勝利を目指して色が強いのに対して、後者はまあ楽しくテニスをしよ、みたいな感じかしら。

学校は目標の達成を目指してとはいうけれど、それができたかどうか確かめようがないし、そもそも同じ目標を構成員が持っているなどあり得ない。こうした論理上の基盤を欠いているのに、掛け声だけ「チーム」では虚しく響くだけだろう。

さあ、言い直そう。学校は厳密な意味でのチームであり得ない。学校は何となく生徒が集い、そこでまあまあシャカリキになって向かってくる教職員と出会う、そんな感じの不思議な場という意味で、「サークル学校」と。こっちの方が、子どもをにとって心地よかったりするかもね。

[PR]
by walk41 | 2015-07-31 13:47 | Comments(0)

「チーム学校」を考える(2) 問題は「チーム教育」になれるかだ

ゼミで報告、議論をする。

その中で気づかされた。なあんだ、「チーム医療」というのに倣って言うのなら、「チーム教育」であって、「チーム学校」ではないよ、って。

繰り返そう。「チーム病院」の話を医療について話している訳ではないよね。医師や看護師、薬剤師や麻酔医や検査技師など、医療の中心にいる人以外に、事務、警備、清掃、食事などを担当する人が病院を支えている。当たり前のことだ。問題は、一人の患者を複数のスタッフで見ること、これを指して「チーム医療」と言っているのだ。

ところが、いま中教審で議論されているという「チーム学校」は、児童生徒に直接に接する教員以外の、事務、主幹教諭などの増員と、直接には接するものの必ずしも全ての生徒が関わるわけではないスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーなどの話が混在している。

前者は「チーム病院」に類する話をだから、どれほど拡充するかはともかくチーム論としては議論の必要がない。問題は後者で、彼らがどれほど教員とともに、一人の生徒に関わりうるか、つまり、一人の生徒を複数のスタッフで見ることの意義や可能性がどれほどあるかが問われるのだ。

「チーム教育」の問題を議論すべきなのに、「チーム学校」とワールドカップを思わせるような言葉遣いで、話を混乱させてしまっている。こんな低い水準の審議でこれからの日本の教育政策が一つ決まろうとしている。大いに嘆くべきことではないだろうか。

[PR]
by walk41 | 2015-07-29 06:27 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「チーム学校」を考える(1) 学校はどんな専門機関なのか

中教審で審議され、2015年7月に中間報告の出た「チーム学校」という言葉、これから何回か、この言葉が「ありうる学校」とどれほど整合的なのか、つまり、「チーム学校」は、教育ー学習や学校という場にはたして適うのか、を考えてみたい。

まず取り上げたいのは、学校はどんな専門機関かということだ。「チーム学校」は、いろいろな難しい課題が学校に持ち込まれ、教員は本来の教育に専念できていないとし、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーなどを想定して、専門スタッフとの協力を述べるが、きっとこんな話ではないんだと思う。

学校が専門的でありうるのは、主に教科を柱とした知識、技能の獲得とそれらを通じた理解とその変容を促すことができる点であって、およそ全生活に及ぶことはできないし、及ぶべきでもない。

生徒が病気になったからと医師や医療スタッフと学校がどう協力できると言うのだろう。保護者がリストラにあったからといって、ハローワークとどう連絡を取れと言うのか。そんなことは非現実的である。キャリア教育も叫ばれているが、学費の問題はどう学校が協力できるのだ。せいぜい奨学金の案内までであって、銀行と掛け合ってくれるものではない。もちろん、そうすべきでもない。

ちょっとイメージすれば、児童生徒の教育や指導といっても自ずから限界が明らかなのに、「なんとなく」みんなで協力しあってというと、そうだよなと思ってしまう。まさにマジックワード、何とでも解釈できる無責任な言葉である。

学校が専門的であるというのは、公教育の最前線として、いろいろな生徒がいるけれども、それなりに教育内容を提供し、なるべくその方向で彼らが変わること(学校ではこれを指して「力がついた」と自動翻訳する)を期待するまでである。品質保証などできないが、だいたい、おおよそそんな感じ、で学力や能力の獲得、少なくともそのための機会を提供することにおいて、適した場ではある。

だから、ここをチームでというのならば、一人の生徒に対する授業や生徒指導などを複数のスタッフで担当してこそ、である。複数のスタッフで一人の生徒を教育的に見る、これが実際的かどうかが、まず吟味されるべきである。



[PR]
by walk41 | 2015-07-27 18:24 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

だから、学校教育は自己完結しない

宿題、作文、レポートを代行する会社が、夏休みに入って大忙しというニュースに接した。文科省は、望ましいことではないが、やめさせることはできないと語ったらしい(読売新聞)。そりゃそうだろう、保護者や児童生徒のニーズに応えているにだから。公序良俗に反するとまでは言えないだろうし。

この例だけでも、学校教育を入力、過程、出力の各段階で計画、実施、評価するというマネジメント論は、およそ現実的ではない。なぜなら、学校の外で行われているこれらのサービス業の結果が、学校教育の出力結果として評価される(少なくとも、「意欲が高い」「丁寧」などと)点で、事実は詐欺的あるいは勘違いだからだ。

敷衍すれば、学校教育の過程についても同じことが言える。塾や予備校の教育の結果かもしれないのに、学校の授業を通じて「力がついた」と評される。かくして、学校教育が何をしたから生徒がこうなったと説明しようとしても、学校外との関係でいわば「じゃじゃ漏れ」状態では、議論のしようがない。

にもかかわらず、学校教育が生徒の有り様を独占していることを前提にしたマネジメント論が、まことしやかに語られ、教育委員会の講座などを通じて正統化される。

もともと、こんな発想は現実的ではないのに、説明のようにならない(入力ー過程ー出力関係を説明できない、したがって、日々の職務をどのよう目標に向けて制御すればよいか、わからない)のは、自分たちの力量不足だと思い(思わされ)、これを変えるには意識改革だと説教される。まったくもって、理不尽な話である。


[PR]
by walk41 | 2015-07-23 13:07 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

昔からの謎が氷解

20歳代はじめ、クルマの運転免許を取るのに教習所に通っていた時から、不思議だなあ、おかしいんじゃないかなと思っていたことが、今回のドイツ訪問で納得できました。

何十回もドイツに行っていて、今更ながらわかったの、と呆れ顔の方もおられるかもしれませんが、私の観察力不足あるいはその場面に遭遇しなかったからと、お許しくださいね。

それは、電車の線路、踏切の前で、クルマは一旦停止するというのが日本のルールですが、これに対して、それはそれは、免許をとった直後から、不思議だと思っていました。つまり、動いているクルマを一旦止めて、ふたたびアクセルを踏むなんて、エンジンの回転数を下げるから、却って線路内で止まるかもしれず、危ないんじゃないかって。

もちろん、前のクルマが線路の直後にいるのに突っ込むというのはイカンだろうとは思いますが、警報も鳴らず、踏切棒も降りていないのに、なぜ一旦停止させる必要があるのでしょうか。

そして、今回の南ドイツでちゃんと見てきたのは、踏切をなんら減速せず、どんどん走り抜けるクルマの数々です。何十台と見ましたが、一旦停止はおろか、減速すらするクルマは私の見た限り、一台もありませんでした。もちろん、一旦停止といった標識もありません。ここでは、止まるかも必要がないという判断なのでしょう。

このブログでの主張の一つですが、正しいとされていることも、所変わればまったくといってよいほどにそうではないこと、そんな相対感覚をいつも持っている必要があるということです。なぜそれが正しいとされているのか、を常に頭に入れておきたいと思うのです。


[PR]
by walk41 | 2015-07-19 23:40 | Comments(0)

児童と教員との不幸

 児童の姿勢を正すため膝を縛り椅子の背もたれに画びょうを付ける体罰を加えたとして、神戸市教育委員会は16日、市立小学校の女性教諭(38)を戒告処分にしたと発表した。児童にけがはなかった。
 市教委によると、4年生の担任の女性教諭は4月27日、総合学習の時間に椅子の背もたれ上部に頭を乗せ足を広げていた児童が、姿勢を正そうとした指導に従わなかったことに立腹。背もたれ部分に画びょう2個を針が児童の背に向く形で粘着テープで貼り付け、両膝をタオルで縛った上で座らせたという。
 保護者が同日夜、学校に連絡し発覚した。女性教諭は「感情をコントロールできなかった。子供を待つ気持ちがなかったと思う」などと話しているという。 市教委は「適正な指導をきちんと行っていくようにする」とコメントした。(時事通信 7月16日)
------------
教育とはその対象である児童生徒の感情を惹起するとともに、その主体である教員の感情を制御することでもある。この観点からは、この事案は、児童の感情を惹起できなかったことに加えて、自身の感情を制御できなかったことになる。この不幸はなぜ生じたか。

姿勢が「良くない」のは学びへの姿勢の表れとして問題である。ここから当の教員はスタートしているが、これがどれほど確かなことなのか、データはない。エビデンスはないけれど、何となく、あるいは限られた経験の限りでそうらしい、ということだと私は予想する。

証拠がないのに、「何となく」そう思ってしまい、それを疑わなくなる。すると、「なぜそんなことをするのかと分析的に捉えず、「当たり前のことを当たり前にする」と、自分の信条こそが守られるべきものとなる。

これが不幸でなくて何だというのだろうか。児童の振る舞いをどれほどの根拠があるのかを確かめずに、「ダメだと思うからダメ」と思考停止して、教室の独裁者である場合にはその力を行使する。哀れである。

先日のドイツの学校でみた、「姿勢の悪い椅子」に関わる話については、次にご紹介しよう。「当たり前」など、すぐに消し飛んでしまうことがよくわかるから。


 
[PR]
by walk41 | 2015-07-16 20:48 | 授業のこと | Comments(0)

仕事は誇りが支える?

teto1029さんからコメントを頂戴したように、ところ変われば、あるいは状況が変われば、当たり前が必ずしもそうではないということに気づかされる。

ただし、私は手放しの日本万歳ではない。ここはええなあ、ここはあかんやん、と思う中で、自分の日常茶飯に多分に肯定的なのだ。

さて、お耳障りの方もおられるだろうし、私じしん否定的な回顧は好むところではないが、どうあれば人は献身的、つまりおもてなし心、hospitality を発揮できるのかを深める上で、興味深いエピソードと思われるので、ドイツのあるホテルでの経験にあと少しおつきあいを願いたい。

受け取った部屋の鍵で扉を開けたら、別の客がすでに入っていた夜の翌朝、別の(より良い)部屋の手配をするよう同僚に伝えておくと聞いていたにもかかわらず、フロントから何も入ってこないので、こちらから尋ねたら、おおよそ次のような返事だった。

…その件は昨夜、しっかりお詫びしたとスタッフから聞いているし、その印に飲み物も提供した。これ以上、何を求めるのですか。通した部屋はバルコニーのついた静かな部屋で、この部屋以上のところはない。この大都市の中心地にあって、私が住んでいる部屋と比べたら格段にいい部屋なのに。私たちは人間だし、間違いをおかすのが人間でしょう。…

うーむ。確かに間違いは起きるかもしれないね。でも、別の客がすでに入っている部屋の鍵を渡すって間違いというレベルのこと? そもそもなぜ部屋の鍵が開くの? そして、こんな間違いをしたことに対して、他の客にも聞こえるフロントで大きな声を上げて、客に申し訳ないという以上に、ホテルマン/ホテルウーマンとしてのプライドが許さないとは思えないのかしら?

つまるところ、自分で持つしかないのだけれど、「いい仕事」をしているという自負を自分なりに持てるか、そしてその水準は他者の評価と大きく離れていないかとメタ認知できるか、かと思う。まずは「厳し目の」自己評価ができるか、そして自己評価を評価する自分でいられるか、とも言えるだろう。

自分に厳しく、他者に優しくとは、いつの時代も言われることだろうが、この方向で自身をマネジメントできるか。肉体的、精神的、社会的に健康かどうかを問える自分でありたいと、私は思う。


[PR]
by walk41 | 2015-07-15 07:00 | Comments(0)

「当たり前」であることの凄さ

それなりの回数、ドイツを訪れ、それなりの回数ホテルに泊まっていますが、こんな経験は初めてでした。

夜遅くホテルに入り、電子カードの鍵を受け取って、言われた部屋にカードを差し込みました。当然のように扉が開いたまではいいのですが、次の瞬間、なんと中から人が出てくるではありませんか。それはもうびっくり、開けられた人の方がはるかに驚いたことと思います。もうベッドに入っておられたようだから。間違いなく、訳がわからないままに、ガシャっと扉を閉めてしまわれてしまいました。もう「あり得ない」話です。

驚いて、そして怒ってフロントに戻りましたが、説明はまったく要領を得ず、担当したのは大学生のアルバイト青年でしたが、プログラムが変で…といったことを繰り返すのみです。もう一人の中堅スタッフにも苦情を申し入れて、別の部屋を用意させましたが、「すみません」だけで済まされる問題ではない、と散々に文句を言い、また先に部屋に入っていた方に重々お詫びすべきと伝え、さらに少し宿代を負けさせました。

簡単に言えば、いい加減にすぎる仕事ぶりがこのホテルに見られた訳で、この他にも、①食べかけたパンがフロントに置いてあったり、②客が出入るする階段の踊り場に使い終わったシーツがつくねてあったり、③部屋についていたバルコニーはなぜか隣の部屋と共用なことを知らされずにいたり(バルコニーの扉を開けたままだと、隣室からはいれるということ、なんと)、④ゴミ箱に入っていたわけではない荷物を一部、勝手に捨てられたり、⑤朝食時に出されたお皿が複数枚に渡って汚れていたり、と話題満載のホテルでした。もう訪れることはないでしょう。

「当たり前」に見えることは決して当たり前ではないと、人をもてなす仕事に限っても強く感じることです。それは不断の努力と人力(工夫やhospitality を発揮するための能力)によって支えられてもいるのだと。

[PR]
by walk41 | 2015-07-13 01:17 | ドイツのこと | Comments(1)

エイズは遠くにあらず

b0250023_07024991.jpg
南ドイツの駅のポスターです。
エイズ予防を呼びかけるものですが、私だけかしらん、遠い問題になったと思っていたのは。

[PR]
by walk41 | 2015-07-10 07:06 | Comments(0)

わからない絵文字

見当もつかない文章に合った時の「打ちのめされ感」はけっこう強いものです。

「お清めにはモスクの施設を使ってください」というメッセージだったとは。
b0250023_01400714.jpg
イスタンブール空港のトイレにて。

[PR]
by walk41 | 2015-07-07 01:41 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
名前
at 2017-12-14 10:49
児童がほかの教職員と出会う
at 2017-12-13 06:32
マンションポエム
at 2017-12-11 14:44
鉛筆で遊ぶ
at 2017-12-10 07:39
除籍の不細工さ
at 2017-12-07 18:34
変化にかかる時間の意義
at 2017-12-07 10:09
question, prob..
at 2017-12-06 14:30
「お疲れさまです」
at 2017-12-05 14:30
非標本誤差
at 2017-12-02 20:58
大学の授業の作法
at 2017-12-01 18:45
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧