学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

<   2015年 08月 ( 10 )   > この月の画像一覧

教員による違いは避けられない

小中学校の教員を長く勤めた、もう古希も迎えられた男性のエピソードを伺うことができた。

うん十年も前、彼はクラスの子どもが自由に発言できる学級経営と、座ったままで話をさせるようにしていたという。ところが、ある児童が卒業を待たず他県に引越しし、転校した先の学級では、起立してから発言することを求める教員が待っていたのだとか。

今やその子どもも立派な大人だから、もちろん冗談半分だけれど、同窓会の席でこう言われたという。「先生、あの時のことは恨みますよ」と。児童にとっては、全く違う教員の対応に大いに面食らったことだろう。しかも、順番が逆だったらまだしも、座って話すのが当たり前の子どもは、起立して話すのが当たり前の教員にとって、気に入らなかった可能性がある。前のスタイルに馴染んでいた、転校した児童には辛い日々だったことだろう。

かくも、全科担任制を基本とする小学校ではとくに、担当教員の主義主張、好みが表出されやすい。これらを廃してどの教員も同じように学級を運営しようというのはかなり無理な話だ。人格から離れ難い教職という仕事は、その人となりが出ざるを得ないし、それでこそ、子どもたちと関わりうるからだ。この点でも、「いつでも、どこでも、だれでも」そうなるといったシステム的発想は学校教育に馴染まない。

問題は、それぞれの違いが起こることを認めつつ、それに疑いを投げかけ、認知を揺らす機会をいかに設けるか、これを通じて個々の教員の職能をいかに促すかである。たとえば、自身の思い込み、決めつけ、信念と葛藤させない研修は、「やっただけ」のアリバイ作りに留まる。自身が変わる怖さと面白さを経験させてこそ、研修の意味があるというべきである。

これは日々の業務遂行においても同様だ。恐々に実践をするという態度を「わかったようなことをいう」立場と併せ持つこと、サーカスの綱渡りのような真摯さとバランス感覚が教員に求められるのだと、私は思う。

[PR]
by walk41 | 2015-08-30 08:34 | 身体 | Comments(0)

仮説の二つの意味

教務主任と研究主任をされているK-hanabi さんからのコメントに、「研究授業」に関わって仮説についての言及があったので、ちょっと整理したいなと思った。

①仮説とは、これから起こるできごとについて予想を立てていることである。「いま家を出たら、乗ろうと思っている電車に間に合うだろう」とか「この株は数年以内には、価値が大きく上昇するだろう」といった、何となくのものを含めて、誰しも大なり小なり予想のもとに生活しているから、仮説を抜きの意図的な行為は難しいだろう。この点では、「仮説ぬきに授業はできない」というのは正しい。

ただし、仮説における予想とは、厳密なものから大らかなものまで多岐にわたる。天気予報の的中率は1パーセントを競うが、恋が成就するデートの仕方を特定することは容易ではない。予想の度合いは様々だ。

②この点、授業は後者、大らかな予想しかできない部類に入る。授業の様子は、児童生徒の都合に大きく左右されるし、授業者とて、その日の気分や感情に影響を受ける。「いつでも、どこでも、だれでも」ができるような授業はなく、どの授業も「一回限りのできごと」として生じる。このように、授業はその設計者や行為者がすべてを制御できない点で、「ライブ」であり「出たとこ勝負」であって、授業者が全てを手中に収めているかのような議論は、したくてもできないのである。

だから、「〜すれば、〜になるだろう」という文法は、学校教育には馴染まないし、にもかかわらずこのスタイルを踏むと、「話し合い活動をすれば、コミュニケーション力が高まるだろう」といった同義反復(tautology)に陥ってしまう。自分でも変だなと、きっと思いながら、こんな作文を示さなければならない研究主任が気の毒なこと、しきりである。

③だから、大らかな予想として授業をとらえる、つまり、「〜すれば、〜になるだろう」ではなく、「〜になるには、どうしたらいいだろう」と、予め特定の仮説を立てず、どうなるだろうかと仮説を探す文法は、学校教育にふさわしい。

いま多くの学校で行われているだろう「仮説ー検証型」は、厳密な実証をするという体面を取りながら、実のところ、大らかな話にしかならない、しかも授業の捉え方、理解は質的、主観的、短期的であり、そして観察者効果が働きやすいもという特徴を持っているから、大らかな話そのものすら、かなり不確かなことなのだ。

④これに対して、「仮説探索型」とも言うべきものは、目標や狙いはおおよそ定まっているとしても、そのための方法やそれを支える発想は限定されておらず、むしろ多様なアイディアと試みが奨励される。これまで実践してきて上手くいっていないからこそ、問題が残っているのだから、新しい発想と方略が求められる。

だから、「研究授業」をするのなら目新しいことを試み、その妥当性を吟味しなければならない。あまり変わりばえのしない授業をしても、課題は積み残されたままだから、従来の枠を取り払うような、斬新で知的興奮を惹起するものでなければやる意味はない。問題はそのような授業や活動についてのアイディアが、教員に沸くかどうかである。

⑤自分たちがルーティンに浸っているのに、新しいことを発案できるだろうか。「研究授業をやると決めてくれたらやるから言って」というような雰囲気では、どれほど目新しいことが、しかも一回限りのお祭り騒ぎではない、その後もいわば使える授業や活動になるかの吟味に耐えるようなものを提案できるかどうか、心もとない。教員自身を革新するような構えなしに、新しい授業や活動はままならないだろうから。

忙しい毎日にあってなお、日々を新鮮に過ごさなければ、つまり、自分が囚われている枠組みに気づき、そこから解き放たれて、問い直すことができないような身体であれば、そもそも「研究授業」ができないということ、に気づかなければならない。


[PR]
by walk41 | 2015-08-25 07:40 | ことばのこと | Comments(0)

堂々と「わからないんやけど」と言おう

研修に参加した、K-hanabi さんから嬉しいコメントを頂戴した。校内研究のあり方については、また他日に述べるとして、教員の身体の使い方について一言したい。

私の見るところ、教員の中には、相好を崩すというか、「ごめんね-、わからなくて」という、自分で自分を笑うことに抵抗のある人がいて、それが回り回って損をしているのではないかな。つまり、教員たるもの、わからないと言ってはならない、といった思い込みがあるという…。

教員だってわからないことはあるし、むしろ優れた教員の方がわからないことがより多いとすら言えると思う。なぜなら、ソクラテスの無知の知、知らないということはある意味で大変な強みなのだから。「わからない」と自信を持って言えるのは、そう言えるまでは考えた、悩んだからであって、そこまでまだ進んでいない場合に、わからないと言うのを躊躇することはよくイメージできる。

だから、強がってわかったふりをすることも、また弱々しくでも一応やってます、って格好を取ることのいずれも抑制して、堂々と「わからない」と言ってみよう。それはただわからないのではない。結構考えたけれどわからない、ここまではわかるつもりなんだけれど、ここからがわからない、と説明してみよう。まとめ役は「わからない」など言ってはいけない、というのは思い込みの一つである。校内の他の誰よりも考えたと自負できるのならば、胸を張って、そして同僚の胸を借りるつもりで臨めばいい。

他者が頼りにしようと思うのは、話す中身もさることながら、話す人に対する評価いかんでもある。問いに懸命に真摯に向かうこと、その結果、わからないとしても何が不安を招くだろうか。大切なのは、「わからないんだけど、どうかな」と自信をもって投げかけることができる、語る人の身体のありようである。

一人で「まとめ役」を買う必要はない。芝居で間合いと言う言葉がある。喜劇人の伊東四朗さんによると、この間合いの中でお客さんにより頼る芝居がいいのだそう。研修や講演の経験から私もそう思う。この間を上手く活かせないことを「間抜け」ともいうそうな。大いに相手を信頼して、そしてその前に自分を信頼して場に臨みたいと思う。
[PR]
by walk41 | 2015-08-21 22:48 | 身体 | Comments(1)

教育委員会がんばれ

学校教育に向けられる人々の眼差しは期待を込めている分、厳しくもある。しかし、それは無制限であるはずがない。

こんな話を聞いた。ある街では議会を通じて議員が教育委員会に対し、「がん予防教育」の推進を求めたというのだ。どうもその街では、がんの罹患率が高いのだそう。だから、教育の力でこれを抑制したいという考えなのだろうが、無茶振りもほどほどに願いたい。

そもそも、がんの罹患率が高いことが本人の意識とそれ基づいた行動にどれほど還元できるか、明らかではないのに、たとえば、放射能に被爆する仕事に就かざるを得なかったり、がん予防になるという食べ物を得られなかったり、あるいは、家族の喫煙から逃れられなかったりするのに、どう本人にできると言うのだろうか。遺伝的要素も排除できないだろうし。

また、がんは年齢を重ねるほどに発症するから、被教育経験との相関をいっそう伺えない。子どもの頃の「がん予防教育」を、その後の何十年にも及ぶ経験が打ち消すことは十分に考えられる。もちろん、がん予防の常識が変わる可能性も考えておかなければならない。

こんな素朴で乱暴な「教育オールマイティ」主義を示されたならば、たとえ住民の代表とはいえ、教育委員会はやんわりと諌めなければならない。そんなことに市民の貴重な税金を使うことはできません、と。

無理難題を持ち込むのは保護者だけではない。行政は、その分野の専門家として「民主主義」と対峙しなければならない場合もある、と心すべきである。

[PR]
by walk41 | 2015-08-20 11:06 | 学校教育のあれこれ | Comments(2)

プロフェッションとミッション

プロ消防士がいない中国、http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/218009/081700010/?n_cid=nbpnbo_mlp を興味深く読んだ。

今回の天津での爆発事故、死亡・行方不明とされる約200名の半数ほどが消防士だったと言われる。この背景には、志願制の公務員とての消防士は中国におらず、徴兵制の若く、安価な消防兵士が最前線に投入されるのが実情という記事だ。

すでに1980年代に消防士のプロ化が試みられたが、年齢の上昇に伴う費用の負担と、第一線に立ち、また後進に経験を継承する意欲のある者が乏しく、制度化に至らなかったとのこと。最後はそれぞれの人の矜持、プライドのあり方に拠るのだろうなと思わされる。

消火する、命を救うという明確な課題に臨むのでさえ、各々の心持ちが大きな意味を持つのだとすれば、目標の曖昧な、結果も捉えどころなく、かつ裁量がある程度認められる教職にとって、プライドをいかに持つか、それにふさわしい自身へといかにマネジメントするかは、より重要だ。

膨大な文書処理、あれこれの要望や苦情への対応と、ブラック企業とも言われるけれど、「いい仕事をしている」という自負とそれを支える働き方を実現すること、周りからカッコええなあ、と思われる仕事になるよう(であり続けるよう)、知恵と努力を払いたいと思う。

[PR]
by walk41 | 2015-08-19 12:00 | 身体 | Comments(0)

やっぱり理科系ではなかった

40数年ぶり、実に小学生以来で青少年科学センターを訪れた。夏休みゆえだろう、子ども連れがいっぱい、走り回り、叫びまわり、実に賑やかなことだった。

海辺の生き物、紫キャベツでわかる酸性・中性・アルカリ性、周期表、恐竜、光の3つの色、と、いくつかは面白いものがあった。バフンウニがワカメを食べること、卵がアルカリ性なこと、アルカリがアラビア語で灰を意味すること、視覚残像は見続けて疲れた色以外に現れることなど、知ることもたくさんあった。ちょっと嬉しかったよ。

とはいえ、振り子、花火の仕組み、電気と磁気ほか、あれこれのコーナーの大半は、あまり理解できず、また興味も残念ながら持てなかった。私の頭の回路のどこかでこの世界を拒絶しているのかしら。高校生になった頃は、なぜか理学部に進んでなどと思っていたが、やっぱり無理やったなあと思わされる。人によって向き不向きがあるって言えば、全てを人は学習できるっていう立場から怒られるかしら。

それにしても、この施設の老朽化は否めないなあ。頑張ってはることは伝わるけれど、しっかり昭和の感じの展示。子どもたちはとても楽しんでいるように見えたけれど。

[PR]
by walk41 | 2015-08-16 16:58 | Comments(0)

聴き方の問題かしら

研修を担当してまずは終えると、気になるのはどのように聞いてもらえたかだ。

その時盛り上がったからといって、良かったとは限らず、その反対も然りだろう。こんなことからも、教育評価さらには学校評価って難しいなって思う。なのに「子どもを見ればわかります」なんて言える人、すごいなあって驚き、呆れる。

さて、過日の教頭研修における事後アンケートの結果を知らせてくれた教育センターがあった。学校の見方が新鮮だった、自分を振り返る良い機会になった、といった感想は私の想定内だけれど、その中に、具体的な方法がたくさん示され、秋から学校でやってみたくなった、という感想を読んで、へえ、そんな風に聞いてくれた人もいたんやと、ちょっとびっくりしたのだ。

というのも、ゼロではないにしてもそんなにやり方、進め方について話したわけではなく(そもそも、そんなに知らないし(・_・;)、どちらかといえば、捉え方、考え方が中心の研修で、それをベースにそれぞれの学校で考えて具体化してほしいと話しているから。

にもかかわらず、上のように聞く人もいるということを、教育と学習のズレとして興味深く思ったし、学ぶ側の余地ともいうべきものを大切にした教育側のあり方をより考えるべきだなあと思わされる。

初等・中等教育の議論にも通じるだろうけれど、大切なのは児童や生徒がいかに学ぶかであって、いかに教えるかではない。彼らの学びの上で教えることが役立つ場合があるからそうしているのであって、間違っても教えることが学ぶことを邪魔してはならない。授業時間の大半を下手な説明で遣ってしまい、生徒が考え、練習し、習得する時間を奪っている授業を見ると、もう止めてあげてと声を上げてしまいそうになる。

[PR]
by walk41 | 2015-08-07 15:58 | 研修のこと | Comments(0)

無視すること

学校が夏休み入ると、少しは教員も時間ができるのか、昔のよしみで集まらないかとメールが届く。うん十年前は長い時間を一緒して、共通体験も少なくなかったが、それから長い時間の中で、公的・私的な事情も少なからず変わる中、もう会うまでもないなと思っているので、いわゆるスルーしている状態だ。

なのに、今年もメールで同様の連絡が届いた。向こうは、会えないにしても何かリアクションをくれたら、と思っているのだろう、さりとて、私はもう関わりたくないのだから、無反応である。すると3度目のメールが入る。文面に目を通す気すらないのだが、こんな文字列が目に入ってきた。「…無視するのも結構ですが…」。はあ、なんでそんなことを言われなあかんの。

郵便よりも事故率がきっと低く、必ずや届いているだろうという前提に立ちがちな電子メールは、この点やっかいだ。届いているのだから読んでいるはず、にもかかわらず、返信がないのは、送った自分に失礼ではないか、という気持ちになるのだろう。

繰り返しになるが、関わりたくないから黙っているのに、テキストもまともに目を通していないのに、そうしていると無視しているのかと噛みつかれる。ここで少し言葉遊びをすれば、無視は「見ているけれど見ていないふりをする」というように、けっこう意志が必要だが、無反応はそうではない。こだわりがないのだから。

遥か昔の関係に固執して、弱いながらも今なおそれが継続していていてほしいというわがままに無自覚な50代、哀れである。

[PR]
by walk41 | 2015-08-04 12:45 | 身体 | Comments(0)

話がつまらなかったのかもしれないけれど

夏休みの到来とは、教員にとって研修シーズンのスタートでもある。各地の教育センターや大学などでは、職務研修、認定講習、免許更新講習と大忙しになる。

さて、本学でも教員免許更新講習をお手伝いしており、南北に長い京都では北部でも開催した方がよいだろうと、いわば出前講習に出かける。炎天下、電車でゴトゴト揺られて2時間ほどかけて会場に着く。

これまで20年くらいになるだろうか、何百回と研修、講習、講演をしてきたが、自分の気づく限りこんなことはなかった。初体験である。更新講習の年齢区分からすれば35歳あたり、色黒の男性教員だったが、講習中にスマートフォンで遊んでいるではないか(まあ、20年前はスマホはないけれど(^^;)。

始めは、わからない言葉の検索でもしているのかと思っていたのだが、どうも違う。そこで、「スマホをいじっている人、この点、どう思いますか」と発問して、暗に止めや、とメッセージを送っていたのに、今度は、机の下、自分の膝の上に置いて相変わらず触っている。近くに行って目を合わせたり、沈黙をとって注目させたりと試みたものの、スマホから離れられない様子。

とうとう、60人ほどの受講者がいる中だったのに、本人の傍まで要って、「よろしいですか。…(それとも)お帰りになりますか」と発言してしまった。ああ、こういう状況って会場をまったく凍らせるんやけど。楽しくてこそ研修やと思っているのに、こんなことさせんといてえな、と心の中で嘆く。研修をいつもこれて閉める「悲しいとき~」(いつもここから)に、もう差し掛かっているのに。ホンマに悲しいとき~なんやけど、この状況。

その言でようやく、当の教員のお遊びは終わったのだけれど、講習終了後、こちらに詫びにか釈明かに来ることもなく、そそくさと鞄をもって会場を後にしようとしたので、部屋を出たところで声を掛け、名前を尋ねた。京都市内の中学校の教員とわかる。踵を返す私の背中越しに彼は「すみませんでした」と言ったけれど、もちろん返事はしない。あかんやん、そんな不細工な格好、中学生に見せられるかって。勤務校から想像すれば、生徒指導が大変かもしれない地域、こんな体たらくでどんな風に生徒に向かっているのん。不思議やなあ。

免許更新講習に対していろんな意見があると思う。私も大学人の話を聞く機会があってもいいとは思うけれど、資格制度とリンクするのは反対だ。こうした強制力が働かなくとも、教員には夏休みなど少しは大学で勉強もしてほしい。けれど、この講習を受けなければ教員資格を失うという規定のもと、まあしゃあない、と申し込んで会場に来ているのだろう。ならば、なぜ「せっかくやから、ちょっとは話をきいてみよか」と、耳を傾けないのだろうか。あるいは「こんなつまらん話をするために講習料を払わすなと言うために、しっかり聴くぞ」と思えなかったのだろうか。どっちであれ、学べることがたくさんあったと思うよ。

講習後、拍手は起こったし、お礼を言って帰る人も複数いた。数年前の講習でご一緒した人などは「変わらず楽しいお話をありがとうございました」とも言いに来てくれた。そんなに悪い時間ではなかったのではないかと思う(自己満足?)。だから、この機会を大切にしようと思ってくれてもよかったんとちゃうかな。

自分の講習が軽んじられたこと、こんな不細工なことで注意を受ける教員がいたこと、他の受講者が気まずい思いをしたこと、いずれもまったく残念なことだった。

過日の学会シンポジウムでゲストスピーカーの発した一言が大切やなあと思い出される。「あなた(の発言)は、相手に対するリスペクトがない」。自分も出会う人により敬意を表せるようにありたいと思う。
[PR]
by walk41 | 2015-08-02 13:25 | 研修のこと | Comments(0)

誰が何を言うか

ここ数日の猛暑、外で仕事をされている方はさぞかし大変だと思う。

そんな日中、信号待ちをしている郵便配達の男性を見た。思わず、「暑いですね」と声を掛けそうになったが、いや待て、知らない人から言われたら、ちょっと怪訝に思われるかもと止めて、改めて気づいた。何を言うかと同じくらい、あるいはそれ以上に誰に言われるかって大切なことやなあって。

学校経営の領域でも、コミュニケーション、合意形成、リーダーシップなど、いかに行うか、発揮すべきかという議論がある。教育雑誌でも「管理職としてのリーダーシップ」といったタイトルで記されているが、筆者の経験か一般化された話どちらかで、読み手が自身を振り返る機会にはなっていないように思われる。

だから、私は教員研修の機会に、校長や教頭といった受講者がどのような人柄なのか、少なくともどのような人物として職員の前に現れようとしているのか、さらには、いかに職員に見せるかという基調で話をするようにしている。

たとえば校長の姿は、特定の人を通じてしか現れず、その人物が醸し出す雰囲気、空気、オーラのようなものが、周りの人たちに伝えられる。もちろん、相性もあるだろうけれど、より間口の広い、包容力のある人物が望ましいだろう。その上で初めて「何を言うか」が問われるのではないだろうか。

こうした「人間関係構築力」のようなものは自分だけで全てできる訳ではないが、ある程度は方向づけられるとすれば、それを支えるのは、他者に注がれる眼差しだと思う。穏やかで奥行きのある眼差しが、冷静で広い視野を通じてもたらされるならば、それは教養と言うべき知識や思索そして経験に裏打ちされるだろう。コミュニケーションがやり方の問題に矮小化されるべきでないのは、眼差しや目の置かれる顔の様子(顔つき)がその人らしさをよく語り、相手に受け入れられるかどうかの素地を作っているからである。

[PR]
by walk41 | 2015-08-01 11:36 | 身体 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
「指導死」の背景
at 2017-10-22 21:46
気づかなかった
at 2017-10-19 21:56
人文・社会系学問のミッション
at 2017-10-18 23:02
nation
at 2017-10-17 12:45
好みの幅広さ
at 2017-10-15 12:43
スクールソーシャルワーカー
at 2017-10-14 10:59
「奏を功する」
at 2017-10-12 20:20
付いた力は自分ではわからない
at 2017-10-11 23:31
まずは良かった
at 2017-10-09 19:14
Fiasko/fiasco
at 2017-10-08 10:40
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧