学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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だれが学校にPDCAって言い出したの?

少しばかり学校に行くことが増え、いっそう思うようになっている。個々の学校での活動をPDCAサイクルで回そうなんて、誰が言い出したんやろ、って。そんな無茶、そして言いっぱなしの無責任を放ったらかしたらあかんやろ、って。

学校教育は結構な量の血税を使い、終わりなき公共事業として、毎年、毎日行われている。ただ、それがサイクルとして回るのは、実施する側が手中に収めている部分について「だけ」である。学校の暦を決める、修学旅行の行き先を決める、児童・生徒をクラス分けし、座るべき椅子を決める-こうしたことは、文部科学省、教育委員会や各学校で決め、その推移を見守り、必要があれば変更することも、評価もできる、確かに。

しかし、それ以外のことが学校には多く持ち込まれる。思ってもいなかったことを生徒がする、あるいはされる、学校と直接関係ない人物が学校に入ってきうる、生徒の家庭で問題が起こりうる、と自分たちだけでは制御できないことがたくさんある。これらは文字通り、手中にないのだから、直接にはどうしようもない。

そして、こうした「思っていてもいないこと」や「思っていたとしてもどうしようもないこと」に学校は日々、直面しうる。しかも、「自分たちではどうしようもないので、知りません」とはできない。必ずといってよいほど関わらなければならない。自分たちで制御できない分、疲労感さらには徒労感が増す。無力さを学習することにもなる。労力に対するコストの適切性を考えるための費用対効果の歳出など、夢想である。

さて、学校においてPDCAを廻さなければならない、と今なお宣うている御仁、その主張の妥当性をもう総括してほしい。そして、現実的でないと評価するのならば、その言説の撤回と自己批判をしてほしい。それが「研究者」の良心だろう。
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by walk41 | 2015-09-30 21:49 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

なんでもサッカー

朝日新聞(20150920デジタル版)、フットボールとも言われるサッカーの語源について、面白い。

知らなかったなあ。Association football のsoc を抜き出し、これにcer をつけて、soccer になったなんて。日本ではAmerican Football の影響を受けてか、フォットボールは、アメフトを指す場合が多く、サッカーはあの競技を指すのだが、この語源を知れば、どんなスポーツも、さらにはどんな協会の扱う活動も「サッカー」ということになる。

ちなみに、日本サッカー協会は、Japan Football Association とのこと。フットボールはサッカーに自動翻訳されているんだね。
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by walk41 | 2015-09-29 13:59 | ことばのこと | Comments(0)

どこに理由を求めるか

分析とは研究や研究者に関わるだけでなく、広く日々の生活に関わる営みだ。

ある出来事に遭遇したとき、それが自分と限りなく関係しないと思えるならばともかく、自分が無関係ではなかった場合に、その出来事がどこに帰属するのか、どうしてそんなが起こったのか、を考えるのは他ならぬ自分だから、知ってか知らずか、分析する人の前提、想定、思い込みあるいは偏見などが入り込む余地が生まれる。分析、出来事の解きほぐしは、は相当に主観的である。

そこに自分の影響で、自分のおかげであるいはせいでそうなったと思えるか、それとも、他者の影響、おかげ、はたまたせいでそうなったと考えるか、その人の品格を占うものでもあるだろう。

「この頃の大学生は本を読まない」と大学教員が嘆くのは滑稽である。なぜなら、本を読むような授業やゼミをしていないということに他ならないのに、つまり、その出来事に自分も少しは関わっているのに、あたかも自分と無関係な出来事かのように嘆いているからだ。その分析は、幼くか弱い。自分の授業を変えれば、嘆き方も変わってくることだろう。これが分析を通じて自分をも変えていくことだ。

しかしながら、自分に眼差しを向けられず、出来事に対して自分は無関係と捉えてしまうと、その分析は他者に向かうことになる。広く社会問題は個人の集積でもあるから、自分が無関係とは言えない事柄も多いだろうとは考えずに、自分にとって大きな出来事に対してすら、自分を埒外に置いて論じる、分かった気になる。

どれほどが自分に関わるのかの、正確な計算はできないけれど、少なくともそうかもと想像してみる。そのために、自分の中に他者が向けるかもしれない眼差しを取り込もうとすること、他者の声に耳を傾ける、なるべく丁寧に接することが大切だなと、自戒を込めて思う。
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by walk41 | 2015-09-28 08:33 | 身体 | Comments(0)

作られる社会問題

外国で長く過ごした生徒のスピーチ発表、楽しく聴いた。

その一つに、犯罪事件が多いという地域で暮らした男子生徒の発表が、興味深かった。

曰く、「その街では、誘拐がしょっちゅう起こるので、あまりニュースにはならない。けれど、日本ではあまり重要ではないと思われるようなことを、長々とニュースに流していると思う」という趣旨だ。

鮎川潤『少年犯罪』(平凡社新書、2001)に挙げられるデータがある。1960年代後半にもっとも少なくて、以降、激増する犯罪についてのクイズである。おわかりになるだろうか、それは占有離脱物横領罪、自転車泥棒の類いである。国会突入や電車転覆といった激しい事件が頻発していたような、学生運動華やかりし頃は、こうした犯罪の届けもそもそも認知も乏しかっただろうが、政治の季節から経済の季節に移り変わるなかで、世の中がいわゆる平和になり、こうした犯罪が増加したと考えられると。

人々の関心がそこに集まれば、より問題は生まれやすい。生徒が自殺という事件を聞けば、いじめがあったのではないかと考えがちなのは、昨今の風潮が投影されている。時代や地域が違えば、自殺の背景に恋愛問題、健康問題や家族問題があったのではないか、と考えることも十分に可能だから。ちなみに、中高生の問題は過剰な受験競争(受験戦争という言葉もあった)が原因、と大騒ぎをしていた昔のこと、みんなもう忘れたんかな、とも思う。不思議だなあ。

客観的に発生している事実よりも、それに注がれる人々の眼差しによって、事実は社会問題として立ち現れる。そんな視角の大切さに改めて気づかせてくれた生徒の発表だった。
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by walk41 | 2015-09-27 18:38 | ことばのこと | Comments(0)

先生

学校にいて、とくに中学校で私の感じる「落ち着かなさ」は、教員が生徒に向かって「先生は…」と話しかけることだ。

「先生の授業を受けたよね、みんなは…」「先生の感想を言うと…」「先生は驚きました」といった表現が続く。私の感想だから、個人的な受け止めに過ぎないから許してね、好きじゃないのよ、この言い方。

学生にも尋ねる。大学の教員が自分のことを「先生」って言ったら変でしょう。じゃあ、高校の教員は? さらに中学校、小学校の教員の場合は? と。このどこかで違和感を覚えるとすれば、それはどの辺り、また何故だろうか。

私の今の理解を言っておくね。先生という呼称あるいは敬称は、他者がある人を指して呼ぶもの、なのに、自分で自分のことを先生という言う、このおかしさは、相手の了解を得ることなく、相手に対して自分はあなたより目上の立場なんだよ、と表明している、という点にある。

相手がそう認めているとは限らないのに、自分でそう言って、(失礼ながら)恥ずかしげがないというのは、けっこう恥ずかしいことだと思う。また、相手の他者評価を軽んじている(君たちがどう思うかは、重要ではないんだよ、という)点でも、恥ずかしいことではないかなと思う。

かくも、コミュニケーションは、相手に向かって自分が何かを発する時点で、自分のことを赤裸々に示してしまうという特徴を持っている。つまり、コミュニケーションは自己開示で、ときに自らを危険にさらすものなのだ。

にも関わらず、コミュニケーションを情報のやりとりに矮小化して捉えたり、コミュニケーションできることを無前提に望ましいと考える風潮を憂う。コミュニケーションは危ない行為で、誰かれ構わずに交わすものではないのだ。だから「沈黙は金なり」という諺もあるでしょう。黙っているのは自己防衛でもあるの。お喋りは危機管理能力が低いとも言えるのよ。

生徒に素朴に自身を「先生はね」と語っている方々、そのように言う人なのだという評価を彼らから得ていることを踏まえてなお、自分のことを先生と言い続けますか?
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by walk41 | 2015-09-27 18:20 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

異質性

外国で長い期間、過ごした生徒による日本語でのスピーチ発表を聴いた。

彼らはアメリカ、ヨーロッパ、オセアニアやアジア各地で育ち、ときに生まれ、また外国を転居し、いまは京都にいる。どんな発表が聴けるのかと楽しみに当日を迎えた。

どれも印象的だったが、その中でもある女子生徒の発表が心に残った。それは現地のインターナショナル校に通った時の経験を話してくれた行だ。彼女はこうスピーチした。

「私たちが仲良くなるためには、お互いが違うのだということを学ぶ必要がありました」

その学校では、50を越える国や地域から生徒が集まっていたそうだが、子どもたちの言語、服装、仕草や価値観まで、同じということを想定できず、だからこそ、どう違うのかを知らなければ、仲良くなれないという言葉に、勇気づけられた気がした。

これまで学校でまま見られたような(今でもあるだろう)、クラスの児童・生徒に「いいです」「私も同じです」と同調圧力を強めたり、「ルールを守らないと大人になっても信用されない」と単一ルールを押しつけたり、といったこと。こんなことは、「グローバル」な世界ではもはや通用しないということ、これからの世代にはどんどん先に行ってほしいと思う。もちろん、私も頑張ってついて行きますよ。

経験を通じて育まれる新たな感性に触れられて、良い時間をもらうことができた。嬉しかった。
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by walk41 | 2015-09-27 17:28 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

七、ひち、しち、なな

井上章一『京都ぎらい』(朝日新書、2015)のあとがきを読んで氷解した。どうして「七条」の駅に「しちじょう」って表記されているのか、が。

読むと、京都あるいはその周辺では、ひちじょうが普通なのに、明治以降の東京の政府は、しちじょうが正しいと強要してきたらしい。京都近辺の人間には、しちじょう、と、しじょう(四条)は紛らわしく、七条をしちじょうと言われるのは迷惑にほかならない。さすがに、しちじょうではあかんとなったのだろう、ななじょう、と新手の発音を始めている、という説明だった。

なるほど、確かに、京都周辺で育った私の辞書でも、ひちじょう、が当たり前であって、しちじょう、と言わなあかんかったら辛い。井上さんの本にも出てくるが、七五三は間違いなく、ひちごさん、である(が、このキーボードでは、しちごさん、と打たなければ漢字が出ない)し、上七軒は、かみひちけん、である。質屋ですら、ひちや、と読んでしまいかねない頭としては、しちは発音しにくいのだ。

聞きなれた音は、心地よさにもつながる。外国語の発音も大切と思う自分は矛盾しているけれど、母語(間違っても、母国語ではない)は身体に馴染むものであってこそ、と思う。


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by walk41 | 2015-09-20 19:22 | ことばのこと | Comments(0)

切ってしまった

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これは人生初の体験です。お札を入れていた封筒を短くしようとハサミを入れたまでは良かったのですが、その最中に気づきました。封筒の中に確かお札があったような。

封筒を開けるとバッサリお札が切れています。いやあ、驚きました。特段の違和感なくても、お札って切れるんやなって。

調べると銀行で替えてもらえるそうですが、ちょっと恥ずかしいかな。何事も経験とは思っているけれど、少し新鮮な感じがしました。




追記、翌日、郵便局のATMでひょっとして行けるかしらと、このお札の預け入れを試みましたが、見事にはねられました。さすがATMです。ごめんね、いたずらして(^^;)
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by walk41 | 2015-09-19 19:46 | Comments(0)

見ればわかる?

学校教育の世界に限っても、評価は大流行で、教育評価、学校評価、教職員評価、そして教育委員会評価とオンパレードである。誰が、何を、どのように評価するのか、評価の着眼、方法、結果のフィードバックはと、まったく賑やかなことだ。

もう20年ほど前、大学の授業評価が制度化されようとした頃、教員にアンケート調査をしたことを思い出した.当時の私は、自分の授業について学生からの評価をすでに行っていたし、東海大学などで先行していたひな形を参考に。自分でアンケート項目を作り、学生に書いてもらい、集計、分析と、嬉々として臨んでいた頃だ(これは後に、『学生による授業評価と「大学における教員養成」』と題した研究室報告書にまとめた)。

英語分野の教授だったが、自由記述の欄におおよそ次のようなことを書かれていたと思う。「学生に対して真摯に授業をするのみ。それがどのように受け止められたか、どんな授業だったと思われたか、を知ろうとするなど、見当違いも甚だしい。」

こうした意見に対して、「いい加減な授業をしているから、評価されるのを嫌がっているんだろう」と批判することは可能だ。けれども、この教授がもう一歩先、「どのような授業だったかは、教員はおろか、学生ですら問われて知ることはできないのに、たとえばアンケートという形で行うことで、結果が一人歩きする危なさを考えるべきではないか」まで考えていたとすれば、それは一考に値する。

尋ねればわかる、調べれば掴まえられるという前提が成り立つかどうか、から吟味されるべきなのに、聞けば知れる、見ればわかると思い込みがちなこと、このことを疑う必要は、学力調査の大騒ぎや、評価の緻密化といった話を聞くに、より強まっていると思う。

「そんなことして、ちゃんとわかるって思うなんて、大きな勘違いしてんのとちゃう?」-こうした問いを発することのできる人間になるように学生を支援すること、それが大学の人文・社会系分野の役割の一つである。
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by walk41 | 2015-09-19 09:02 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

飲酒年齢

選挙権が18歳に引き下げられたことに伴い、飲酒、喫煙の年齢も現行の20歳から変えるべきではないか、と議論が起こっている。曰く、選挙権は成人扱いしていることに他ならないのだから、同じく引き下げて良い、あるいは、選挙権と酒タバコとは何の関係もないのだから、害となる両者はできるだけ遠ざけておくべき、と色々である。

ドイツは確か…と、2015年版の青少年保護法を見ると、知っていなかったことがあった。タバコが18歳からOKとは知っていたが、飲酒については、そうなっているのか、ううむ、という感じだ。近年、改正されたのかしら。以下、ご紹介しよう。
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14歳未満、あらゆるアルコールが禁止。
14-15歳、ビールとワイン/発泡性ワインは、同席している両親の許可があれば認められる。ただし、蒸留酒または蒸留酒が混じった飲み物は、いずれであれ禁止。
16-17歳、ビールとワイン/発泡性ワインは認められる。ただし、蒸留酒または蒸留酒が混じった飲み物は禁止。
18歳以上、ビール、ワイン/発泡性ワイン、蒸留酒または蒸留酒が混じった飲み物は認められる。
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いかがだろうか。子どもと大人の線引き、難しいね。







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by walk41 | 2015-09-16 11:36 | ドイツのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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