学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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どこまで「正解」を強調するか

文化庁の文化審議会漢字小委員会は16日、漢字の手書き文字について、「とめる」か「はらう」かなど、細部にこだわって正誤を判断せず、多様な字形を認めるべきだとする指針の中間報告案をまとめた。

 社会生活で使う目安を定めた常用漢字表では、手書き文字にはいろいろな書き方があり、漢字の骨組みに当たる字体が合っていれば、細かな字形の違いは許容されることが記されている。だが、一般には広く知られておらず、印刷文字など一つの形だけが正しいと判断されがちだ。入学試験や入社試験の書き取りテストで誤字だとされたり、金融機関の窓口で書き直しを求められたりするなど、混乱が起きているため、文化審議会国語分科会で指針を示すことにした。(読売新聞、20151017)
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小学校の中・高学年、こんな風に漢字テストが進められたことを、よく覚えている。毎週のように、B6サイズくらいの紙に10問の漢字テストが行われる。つぎに、満点をとった答案は教室の後ろに張り出される。休み時間などに他の児童が見て、「ここ撥ねてない」などと学級担任に言いに行き、それが認められると満点でなくなるので外される。そして一週間、最後まで指摘されなかった答案が、正真正銘の満点ということになる。

だから、一度は張り出されても、いつ剥がされるかわからず、ドキドキする。自分の満点答案に怪しげな箇所を見つけても、黙っている。そして、最後まで剥がされなかったときは歓喜する。こんな授業というか学級経営が行われていたのだ。

上のようなニュースに接すると思う。あのとき、必死になっていたのは何だったのか。児童にとってどれほどの意味があったことになるのか。誰しも先のことはわからない、と言うのならば、「正解」はだいたいのところでおいておいた方がいいのではないだろうか。

いっそう長寿化するとも言われるなか、価値や規範の変動は避けられない。ならば、懸命なこと、揺るがないことといったことが、かくも脆いものでもあることを、子どもの頃から学ぶことが大切ではないだろうか。
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by walk41 | 2015-10-30 18:34 | ことばのこと | Comments(0)

配慮

どうもいかん。いいところに目が行き過ぎる。

回転寿し屋さんに入る、別のお客さんが生ビールと注文してから、トイレの場所を尋ね、店外に出るべく少し席を離れた。その間、数分。

店員さんは、ビールサーバーの前に立って、お客さんが帰ってくるのを待っている。そして客が戻ってきたのを見てからビールを注ぎ、客に出した。

すごい。どうしてこんなに配慮した行動が取れるのだろうか。注文したのだから、客のいないテーブルに置いておいてもいいものを。自分がもう酔っているのかしらん。涙の出る思いがする。カッコいいなと思わされる。

小さなことかもしれないけれど、大切なこと、お客の立場に立って動くこと、こんなプロフェッショナルな人が見えて仕方がない。
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by walk41 | 2015-10-27 17:08 | 身体 | Comments(0)

もてなし

前にも別のホテルで経験したことがある。ビュッフェ形式の朝ごはんにて味噌汁を掬っていたら、残り少なくなっているのに気づいた。するとスタッフが「補充してきます」とお鍋を持っていったが、しばらくして、私のテーブルまでお椀を持ってきてくれたのだ。

私がどのテーブルに着いているかを確かめて、お鍋に新しく味噌汁を注ぎ、一杯のお椀を取って持ってきてくれる、このサービスを当たり前のようにするスタッフに、プロフェッションを見た。自分も頑張ろうと思わされたよ。
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by walk41 | 2015-10-27 10:16 | 身体 | Comments(0)

誰がそれを言っているか

コミュニケーションや、リーダーシップの議論で、提案する。ともすれば、何を言うかに力を置きがちだけれど、誰がそれを言っているかも大切なことでは、と。

言葉はその発信者を離れて存在するわけではない。詠み人知らずの場合もあるけれど、発信者がわかってこそ、その言葉の文脈や意味をより理解できることがあるだろう。そして、発信者を知るとは、発信者が周りからどのように見られているか、ということでもある。

ならば、発信者として自身をどのように見せるかについて研究しよう。どのように見られたいか、そして見せたいか、これが伴ってこそ、メッセージがより受信されるだろう。

自身の姿勢、視線、所作、発声と沈黙、と観察して、どのように映り得るのかを想像しよう。よりカッコよくありうるように、多少のトレーニングに努めよう。そんな風に日々を過ごしたいと自省しながら思わされている。
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by walk41 | 2015-10-26 11:44 | 身体 | Comments(0)

どちらの側に立つか

ドイツにいた頃、こう言われて面食らったことがある。

一緒に出かけた時に撮った写真を現像して(当時は画像送信など想定外よ)、彼に渡したら、こう言ったのだ。"Was kriegst du von mir?" (僕からいくら得るの?)。

もちろん写真代をもらう気は無かったけれど、日本語的な感覚としては、自分が欲しがっているかのように思われているのかなと戸惑ったこともあって、要らないよ、と言葉を返したのだけれど。

日本語では、主語が省かれることが多いと、「(私が)言ったでしょ」が説明されるけれど(関西では、さらに、「そう言うたん、自分やん」と自分という言葉がなぜか、相手に移動する^_^;)、このエピソードを思い出すに、そうでもないかもとも思わされる。だって、「いくら得るの?」ではなくて、「いくら払えばいいかな?」と自分の側に立った物言いをするから。

こうも言えるかもしれない。自分の側に立った言い方が多いから、それが当たり前のこととされて、私が、僕が、という主語が言われなくなっているのだ、とも。主語が出てこないから、控えめというわけでは必ずしもないようだ。言葉の森は奥深くおもしろい。
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by walk41 | 2015-10-26 09:03 | ことばのこと | Comments(0)

かくもいい加減な学力論

給食や掃除が組み込まれている日本の学校教育は、子どもたちの社会性を育てる上で有効と、特別活動が海外から注目され、トッカツとして知られるようになってきたという(朝日新聞、20151025)。

文科省はこの「輸出」をつもりしているとも報じられているが、かたや学力テストの結果わずかな違いでも一列に並べてランキングし、各地で順位のために血道を上げさせることになっている現況を、どう説明するのだろうか。

学力テストが生徒個々に回答させるもので、協力や助け合うものとはおよそ異なる性格を持つことは百も承知なのに、個々の「能力」の集積を頭数で割った平均値を跋扈させている。特別活動が日本のウリだと言うのなら、どうして「三人で満点の答案を作れるかどうかのテスト」(「文殊の知恵」)とか、「わからないクラスメイトにいかにわかるように説明できるかのテスト」(情けは人の為ならず」)とかをやったらいいのに。

問題解決は一人でもいいし、複数でもいいはずなのに、個別に測定して、なぜかそれを並べる。「学力向上」なる掛け声が、いっそう虚しく聞こえるニュースに接したことだ。
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by walk41 | 2015-10-25 21:19 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

残念なこと

ときどきメールが入る。留学生から研究生にしてほしいという依頼である。研究生になったあと、大学院生になるというプランで、その足がかりを得たいのだ。

研究計画書を読むも、私の分野とは言えないなあと、断りの返事を書く。私よりはるかに多く、こうしたメールが届くある人は、読まずに削除するとも聞いたことがある。それはあまりに無碍だからと考えて書くので、それなりに丁寧な文面のはずだ。

なのに、これに対する返信が来ることは一度たりともない。断ってきた相手に返事をする余裕がなどない状態なのだろうけれど、それでもなお、わかりましたとか、お手数をかけましたとか、一言あったほうが、先々来るだろう、他の留学生が悪い印象を得ないためにも大事じゃないかなって思う。

依頼に対して何かしたいと自分が思えるのは、相手からの反応にも左右される。そうした人間に関する理解があってこそ、基礎的な学力が身についていると言うべきではないか思うから、たとえば大学院に入るつもりならば、自身の理解力がどうなのかを確かめるのもいいのではないかしら。

とボヤきながら、また同じようなメールが届いたら、同じように返事をするのだろうけれどね。ふう。
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by walk41 | 2015-10-25 18:50 | Comments(0)

にもかかわらず笑おう

朝日新聞での落語家、桂歌丸さんへのインタビュー記事。「人間にとって一番肝心な笑いがないのが、戦争をしている所」という行が印象深い。真面目すぎて、笑う雰囲気にならない、こんな状況は要注意だ。正義を振りかざし、異論を排除する、思考を停止させ、身体も強張らせる。自身をカチコチの状態にしてしまうのだ。争いはこうした状況でこそ起こること、よくわかる。

「相手を笑わせてナンボ」と関西人らしく自負したい。ともすれば高まる緊張をほぐし、しなやかに、かつたくましくありたいと思う。そのためにも、世の様々な具体を学び、自分の頭でも実験できる体力を高めなければ。それでこそよく笑うことができる。面白いから笑うだけではない、笑える自身であることで面白く見えてくるということを、確かめさせてくれる記事だった。
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by walk41 | 2015-10-19 12:25 | 笑いのこと | Comments(0)

教員がワクワクしているか

学校でミドルリーダーと目される人たちとの研修会、おおむね楽しく過ぎたと思う。

子どもの意欲をいかに高めるか、学力目標をいかに達成するか、とともすれば、悲観的な空気が漂うけれど、それをわかってなお、教員が楽しそうに学校や授業でいるか、ワクワク感を持っているかが大切だろうなと、皆さんに話をしながら思ったのだ。

人にはミラーニューロンという神経が備わっていて、真似をするという習性があるらしい。笑い学においても基本テーマだが、なぜ笑いは伝染するのかに対する一つの答えは、笑っている人を真似ることで、笑っていると知ることができるからだという。楽しそうにいる人を見れば、なぜか自分も似た感情になりやすいとは、おそらく多くの人が得心することだろう。

ならば、教授方法や教材理解といったこととは別に、教員がいかに子ども同僚あるいは保護者とラポール(心的親和性)を築くことができるか、いかに他者に興味を持ち、面白いこと、楽しげなことを共有したいと思っているか、が問われるべきだろう。

先天的にそう振る舞える人もいるかもしれないけれど、広く経験によってこうした態度や指向性を獲得するならば、そのトレーニングは毎日の生活の中で行うことができる。出会った人に微笑む、ちょっとしたユーモアを話す、色々なことに、面白いなあ、不思議やなあと子どものような眼差しを向ける、幾つであってもできることだろう。今日が人生最後の日かもとちょっと思って大切に生きること、こんなあたりが魅力ある教員にも連なっているのではないかな、と思う。
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by walk41 | 2015-10-16 20:37 | 笑いのこと | Comments(0)

学校教育目標

研修中、スライドを指して指導主事が訂正を述べた。

「いつも強調しているのですが、自分が間違えてしまいました。学校教育目標と書いてありますが、それはありません。あるのは、学校の教育目標、あるいは、学校教育の目標です。」

それを聞いて思う。そんなんほとんど言葉遊びのレベルやん。たとえば、小学校という学校教育の目標か、具体的なある学校の教育目標か、という話の違いに過ぎひん。だから、指導主事も間違うんやで。

せやのに、ことさら「学校教育目標なんて言葉はありません」て強調するなんて、何を意固地になってんのかと思う。こんなことにこだわるヒマがあるんやなって、思ってしまうわ。

最近おもしろい話を聞いたよ。もう県の偉いさんだが、指導主事時代に研修にてこう話したそうだ。「みなさんの学校の教育目標を学校名を外して並べたら、どれが自分の学校のかわかりますか? わからないでしょう」って。ホンマや。学校中でも義務教育の学校、普通教育でどれだけ学校ごとの違いがあるって言うんやろ、違いをつけるなんて無理な話ちゃうのん。

こんな、どうでもええことに血道を上げて議論したり、うまくできひんからって「意識改革」と叫んだり、学校教育という世界に合わへん道具で何とかしようともがいてること、止めにせえへん?
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by walk41 | 2015-10-15 15:00 | 学校教育のあれこれ | Comments(1)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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