学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

<   2015年 11月 ( 18 )   > この月の画像一覧

教師は怒る

南西ドイツの学校、6年生の自主学習(selbständiges Lernen)の時間。

私の見るところ、生徒たちは決してうるさくなかったし、むしろ5時間目ともうくたびれているだろうに、よく頑張っているなと思うほどだった。けれど、教室内では言葉を基本的に発しないという、学校のルールからすれば、多少は声が出ていたのかもしれない。それでも、ささやき声ぐらいである。

突然、中堅の女性教員が声を上げた。さっきから集中してやりなさいと言っているのに、何してるの! いい加減にしなさい、という言葉の類である。生徒たちは次に落ちるかもしれない雷にこわごわしながらも、いささか呆れ顏でおとなしくしている。観察者としては不適切だったのだろうけれど、生徒が気の毒にも思われたので、何人かの生徒とは目配せして、もうしょうがないね、メッセージを送りあう。この点、言葉発せずとも伝わるのは、きっと万国に共通だろう。

生徒が教員の思うようにならないのは、ここでも同じ。また、それに対する教員のリアクションも似たようなものだ。教師と生徒は永遠の敵対関係、と命題化した大昔の研究者の着眼の鋭さを重ねて確認できる。
[PR]
by walk41 | 2015-11-30 16:58 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

どうしてこうなったの

何度となく書くことで恐縮だが、私の経験の限り、ドイツの鉄道はさっぱり当てにならない。

時間通りに来ることは稀と言ってよいほどだ。プラットホームが低くされているからか、数段の車内階段を経なければならないので、車両の乗り降りに時間がかかり、週末など大きな荷物を抱えた人が多い時期は一層だ。ドアのところで助け合う人々の様子は、微笑ましくはあるけれど。

数分遅れたくらいでは何のアナウンスもされないし、表示も出ない。遅れた電車に乗った後も、乗客へに説明やお詫びもよほど遅れているのでなければなされない。乗客はいわば「乗せてもらっている」状態で、お客様とは見なされていないと言ってよい。

車内の綺麗さも褒められたものではない。座席近くにごみ箱があるのはいいけれど、小さいためすぐに溢れるし、分別もされていない。大きな駅に停まった時など、掃除スタッフが回収に来るけれど、手づかみで取り出すので、汚ならしいし残るごみもある。うーむ。荷物棚のスペースは小さくて使いづらいし。

言い出せばキリがないけれど、電車のドアがどこで開くかわからない、進行方向に合わせて座席が動くことはない、乗換駅の案内は特急くらいしかなされない。何より路線図がなく、駅名を知らないと切符を買うことができない。なのに、目的地まで切符を持っていなければ検札で罰金を取られる。小さくアルファベットの順に示される駅名探しは骨が折れるし、我慢を強いられる。

こんなことを愚痴っていたら、ドイツ人の友人が言った。"Der Zug ist Abenteuer"(電車に乗るのは冒険だ)と。もう、そんなこと言わんといて。

これらおおよそ反対、たいてい時間通りに電車が来る、車内がまあまあ綺麗、くどいくらいでこれはこれで煩くもあるけれど車内外のアナウンスが充実、切符の乗り越しのできるのは当たり前、路線図は大きく色別で示されていたりもする、こんなことが普通の日本の鉄道は、凄すぎると思う。

ドイツ鉄道、どうしてこうなっているのかなあ。
[PR]
by walk41 | 2015-11-29 15:05 | ドイツのこと | Comments(0)

なぜ廊下では勉強できないの?

b0250023_041647.jpg


引き続き、南西ドイツの学校にお邪魔しています。この学校では、教室は静かに、つまり教員も教室では静かに過ごす場所であり、相談や話をしたいときは、教室の外に出るようにと考えられています。

この点で廊下は大切な学習の場でもあります。ラップトップパソコンを使って課題をダウンロードしたり、同級生と話をする上で写真のような台が設けられているのです。

勉強は教室で、という思い込みから離れられれば、もっと多様な学び方が構想できるでしょう。このためには、教室にしか机はないもにだと考えがちな教員や学校管理者さらには学校設置者の頭を柔らかく切り替える必要があります。自身を含めてそう考え、行動できるかの勇気が問われているのです。
[PR]
by walk41 | 2015-11-29 00:06 | 授業のこと | Comments(0)

児童の手を止めさせる方法

授業で子どもに作業をさせていて、頃合いを見て教員に注目させようとする。ところが、作業に懸命な子どもはなかなか手にしたハサミや糊を手放さない。彼らの手を止めさせたい教員はどうすればいいか。

南西ドイツの基礎学校、3年生のクラスで中堅と思しき女性の学級担任はこうしたよ。「はいみんな、腕を組んで」と。自身も腕を組む。なるほど、これなら手を止めざるを得ないなあ。止めなさい、といくら注意するよりはるかに賢い方法じゃないかしら。

と同時に、腕を組んでいるという格好が必ずしも好ましくない、という訳ではないということも興味深く思った。身体の使い方が一様でない例を見た次第。おもしろいなあ。
[PR]
by walk41 | 2015-11-25 14:45 | 身体 | Comments(0)

生徒による目標管理

南西ドイツの基礎学校にて、3年生の授業を見せてもらった。

ここでは、算数とドイツ語について、週ごとに必修課題がそれぞれ4つ、選択必修課題が1つ与えられ、自分の状況を児童が勘案しながら進めることになっている。また、課題をこなす際に活用すべき教材やツールが示されている。

教員はそれぞれの児童の様子をモニターし、適宜、アドバイスあるいはサポートすることが主な役割であり、クラスのすべての児童の前に立って、注目させ、説明し、発問し、課題に取り組ませるといった、たとえば日本の公開授業などで見られるような役回りは、担っていない。

多様性や異質性が重視される中、一人のあるいは複数の教員がすべての子どもの注目を引き、望む方向に向かせるといった考え方、仕掛け、そして行為は徐々であれ、想定されにくくなっているのだと感じる。翻って、日本の授業研究という代物は、いくらかの幅を持つものの「〜すれば、〜になるだろう」と、教員の働きかけがすべての児童や生徒に影響を及ぼすという、あまりにあまりに幼い、そして思考体力を欠いた枠組みで、あいも変わらずやり過ごそうとしているのだから。

授業を研究するという言葉をもし遣うのであれば、それは授業者や授業を行う環境を分析し、可能な変容を試みることに他ならない。子どもの自主性や主体性などと言葉遊びに終始し、実のところ何も彼らを信頼していないような授業を設計しようとする時点で、教員は失格である。彼らがいかに自力であるいは子ども達で課題に臨み、やり遂げられるように場を用意するのか。そのためには教員がいかに変わらなければならないのか。そんなことを改めて考えさせられている。
[PR]
by walk41 | 2015-11-24 01:12 | ドイツのこと | Comments(0)

「当たり前」が普通であることの凄さ

聞いていたとはいえ、びっくりするほど寒い南西ドイツに来ています。

大きな駅構内のコインロッカーにスーツケースを入れて3時間あまり、一時間あたり1.5ユーロなので4.5ユーロのはずがなぜか7.5と表示されています。同時に入れた人たちのロッカーは4.5ユーロと示されているのに。

文句の一つも言いたいところでしたが、電車の時間は迫っているし、何よりもスーツケースを取り出さねばなりません。なぜ3ユーロを余計に払わねばならないの? ええ加減な仕組みやなあ。

こんな経験は初めてではないけれど、当たり前に機械が動くこと、ましてやお札も使えたり、カードで支払いのできたりする進化を遂げている状況に馴染んでいると、ショックもひとしおです。普通の凄さを再確認させられます。
[PR]
by walk41 | 2015-11-23 14:15 | ドイツのこと | Comments(0)

矛盾している

小学校で3年生の算数の授業を見た。

14✖️3を縦書きの筆算にしていたが、これを3✖️4、3✖️10、合わせて42として教えているのだ。

5枚の紙を6人に配るときの式を、5✖️6にするか6✖️5にするかについて、喧々諤々の議論があり、なぜか5✖️6しか正解と見なさない教員と不幸な出会いをする生徒もいるというのに、なぜ意味を持たない、つまり交換法則を踏まえた3✖️4で計算の仕方を教えるのか、と質問をした。

すると、授業者は指導書にそう書いてあるからと答え(自分で考えたのだろうか)、隣の数学教員は、ここは技法としてやっていると見ればいいのではないか、と返した。だから私は尋ねているのだ、日常の場面により即して算数を教えることが重要と、散々に掛け算の順番にこだわるのに、3の段だけで計算できるからと文脈を想定しない授業でいいのか、両者は矛盾していないか、と。

けれど、この趣旨は彼らに届かなかったようだ。「まとめ」と称するお喋りでは、アクティブラーニングが言われる今日、こうした子どもの実感に根ざした授業は大切だろう云々、と話したのだから。あのね、さっきの授業は全然これに根ざしてないし。機械的にやっているだけだから。どこを見てそんなことを言えるん。

私の覗いたところが、酷いケースだったのかもしれない。けれど、こんな不整合なやり取りをしていて不思議と思わない「学力」の教員が数人はいるというだけでも、問題状況としては十分ではないか。

研究授業、事後研究会、操作的活動、と言葉はたいそうだけれど、話していることはほとんど思いつきと仲間内での気遣いである。何も気づきも発見も考察もない。こうした場を持つことそのものに意味があるのだ。こんなことに血税が投じられていることを納税者が知れば何というだろか。
[PR]
by walk41 | 2015-11-19 16:26 | 授業のこと | Comments(0)

色の重要度

b0250023_1017255.jpg

クアラルンプールにあるブルーモスクと言われるイスラム教の施設を訪ねました。世界で4番目に大きなモスクとのことです。

彼の地の眩しいお天気に、ブルーがとても鮮やかに映える、清々しい建物という印象を受けました。が、なぜブルーなのかと尋ねると、これを立てたスルタン(王様)がブルーを好きだったからだろうと、ガイド役の人は素っ気ありません。そうなんや。

この色でなければならない、と重要性を強調する発想もあれば、そうではない場合もある。何こだわり、何にそうではないのか、人間って不思議だなあ。
[PR]
by walk41 | 2015-11-18 10:18 | Comments(0)

gated

マレーシアに限らないだろうけれど、今回驚かされたのは、コンドミニアムと称される高層住宅が踏切遮断機のようなバーを挟んで、住宅敷地のウチとソトを明確に区分けしていることだった。

すなわち、住宅の敷地内に入るには、このバーを越えなければならない。そこには、セキュリティスタッフが24時間いるし、モニターカメラで出入りは録画もされている。カードを持っていれば、それをかざしてスタッフの手を借りることなく、バーを上げることができる。

私の経験した限りは敷地内を出る場合も同じだ。バーを上げることなく出ることは叶わない。かくも、出入りが厳しくチェックされている。こんなところが日本にどれだけあるだろうか。

数年前だったかと記憶しているが、アメリカを例に"gated community"が新聞で紹介され、格差社会について議論されたことがあった。自分が知らなかっただけなんだなあ。こうした住宅敷地内に出入りする際の保安設備とスタッフが、当たり前に置かれているところが、既にしっかりあったなんて。
[PR]
by walk41 | 2015-11-17 22:09 | Comments(0)

おおらかやなあ

マレーシア在住の方から、エピソードを聞く。

電気関係か、故障したので修理してもらうべく、出張サービスを頼んだ。夕方、やってきた職人さんが「みんなは4時で上がってるけど、自分はこうして5時なのに働いている」と自慢げに言う。何言うてる人のん、あんた1時に来るって言うてたんが4時間遅れて来ただけやん、と突っ込みたくなるそうな。

とにかく直して、と待っている間、ほかに何もできないので、DVDで映画を見ていた。気づくと、その職人さんが自分の後ろで、同じように映画を見ているではないか。驚いて、ちょっと怒りを込めて見据えると、両手を広げて、あらまあ、というポーズをとったのだという。もう、まったく、である。

こんな愛すべき人がたくさんいるマレーシア、短い間だったけれど、私も楽しく過ごさせてもらいました。ありがとう。
[PR]
by walk41 | 2015-11-17 21:30 | 身体 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
地毛は大切?
at 2017-08-21 10:30
「言い切れる正しさ」
at 2017-08-21 09:34
「子どもらしさ」と感情の表出
at 2017-08-19 16:13
人一倍
at 2017-08-18 12:45
Platoon
at 2017-08-16 23:25
〜しか〜ない
at 2017-08-15 19:34
7月4日に生まれて
at 2017-08-14 22:54
耐えられる能力
at 2017-08-13 16:29
negative capab..
at 2017-08-13 12:45
悲しいとき〜
at 2017-08-12 13:43
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧