学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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絶対的貧困

東アジアを数日、旅した。とても刺激的な時間を過ごせた。

映像ではあるいは書物では聞いていたつもりだけれど、実際にそういう機会に出合うことによる衝撃は相当だ。

地元の絵葉書を10枚一組で売りに来る、10歳に満たないだろう女の子、いつ洗ったのだろうかわからないほどに汚れたTシャツ、裸足でこちらにやってきて繰り返しせがむ。それこそ、いつ風呂やシャワーに入ったのだろうかと思わされるほどのクシャクシャな髪、埃に汚れた顔である。観光客が買ったとしてもそれでわずか1米ドル、土産物屋でも同じ値段で売っていたから、彼らの手元に残るのはいくらになるのか。もっと小さな子どもがバナナの房を抱えて、買ってくれと寄ってきたこともあった。ほとんど単語とはいえ、しっかり日本語でである。

片や、トイレのスリッパそろえを生徒指導の目標に掲げる小学校がある日本で、揃えるスリッパすら履いていない子どもがここにはいるという事実。相対的貧困の方が辛いという声も聞くけれど、辛いといった主観に留まらず、衛生、健康、安全、学習といった点で、決定的に条件を欠いていることを見れば、絶対的貧困がたまらなく大切だとも気づかされる。
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by walk41 | 2015-12-31 17:47 | Comments(0)

希少性

ほしいものにはなるべく安く、早く、多く、近づけるほうがいい、とは一つの考え方だ。昔、牛丼の吉野家の宣伝にあったね、「早い、安い、美味い」と言ったように。

ただし、いつも吉野家で食事というのは困るように、たまには豪華な店で食べてみたい、というのも一つの考えである。そして、そんな店はたまのことでいい、むしろ、いつもそんな店でと言われると却って困ってしまう。こんなふうに、希少性に価値が置かれる領域や場があると見るべきだ。めったにないことだから、その日を楽しみに過ごす、当日を満喫する、事後も思い出しては反芻する、そんな総体を指して、モノへのアクセスと言える。

いろいろなモノへの近づき方があるだろう。医療サービス、教育サービス、あるいは芸術や文化といったもの…。何へのアクセスかによって、その濃淡や遠近がある。教育サービスはどんな辺りに位置するだろうか。

少なくとも、「早い、安い、美味い」方が何はさておき、ええことやん、というのは、とっても子どもっぽい、素朴だけれど幼い発想だと思う。何でも近づきやすかったらええ、という訳ではないと考えるのが大人というものだろう。

かくも、議論をどのようにするかの基盤に、論者の視野の広さ、思考の深さが垣間見える。
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by walk41 | 2015-12-26 11:53 | ことばのこと | Comments(0)

教育サービス

これも老いの一つだろうか、昔に経験した理不尽がふとした拍子に思い出される。記憶っていい加減でもあるけれど、けっこうすごいなあ。

もう30年近くも前のこと、大学院に入って間もない頃だったと思う。ある教授と話をしていたら、彼が「公教育は、教育サービスをいかに提供するかが課題だ」というような発言をした。教育サービスという言葉が聞き慣れなかった自分が、びっくりしたような顔をしたのだと思うけれど、その教授はしたり顔で、そうだろ、という顔を浮かべたように記憶している。

ところが、その教授の授業は、いま振り返れば当時は他の教員も似たりよったりだったけれど、まあ酷いものだった。突然の休講は当たり前、授業レジュメというものを一度たりも受け取ったことがない、思いつきのような話、たとえば文献の名前を挙げかけても「えーと、なんという筆者だったかな」「確か、お金のことを特集してる雑誌があったね」と不正確な情報での講義という名前のお喋り、こんな体たらくだった。

かくも自分がおよそ納税者に説明できないような授業をしていながら、教育サービスと宣う図太さ、勘違いさに今なお驚かされるし、ゆめゆめ自分がそうはならないようにと努めてきたつもりだ。今の学生が私をどう評しているかはわからないけれど。

同じような繰言を重ねていますね、いけません。「わかったような物言い」をするときは、けっこう危険だということ、それを分かった上でなお、ものを言う勇気とその根拠を持つことが大切と繰り返し繰り返し思われる、それだけです、はい。
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by walk41 | 2015-12-24 22:59 | ことばのこと | Comments(0)

教師の認識と判断、そして決定の力

大学院の授業にて、教室での意思決定について話をする。

意思決定の前には状況の判断があり、その前には状況の認知がある。どう意思決定するかということの前に、いかに状況を認識しそれらを分析・統合して判断しているのか、そこでは、五感なかでも、見ると聞く辺りが駆使され、これに経験が加味されるに留まるのが、多くの教員の状態ではないか、色々な測定器がある世の中を顧みれば、教師という器の制約は自ずと明らかではないか、という発題だ。

校内研究の件でもるる述べているように、良かれ悪しかれ、教師が適切に認知するにはいくつものハードルを越えなければならない。それらは、①40人にも至るほどの児童・生徒と向き合いながら、どのように刺激を取捨選択しながら受け止められるのか、②感情労働でもある教育労働という特性において、どのように落ち着いて冷静に判断ができるのか、③経験値というバイアスや自分なりの合理化が図られやすい、基本的に一人で授業を担当するという環境にあって、未知の存在でもある児童・生徒を適切に捉えることができるのか、といったことである。

この前段階の整理を終えていないのに、「~べき」論が跋扈する。つまり、事実がどうなのかはさておき、価値観が優位して、自身を含めて教師に無理を求める。曰く、「子どものみとりができなければならない」「教室の状況を的確につかまえて、授業を進めなければならない」という鼓舞や説教である。

人間の五感くらいしか持ち得ない教師に、どれほどの情報を短い時間の間に正確に受け止め、適切に分析・統合し、自分の行為の基準を立てることができるだろうか。「無理なものは無理」「できないことをやれるはず、やるべきとは言わない」という当たり前のことが今なお無力な状況に愕然とする。教育界はかくも「頭でっかち」(これこそ机上の空論だ!)の人が多いんやなって。

現職の教員のみなさん、どれほどの認知的・感情的資源とその利用、そして状況判断と意思決定が、一般的な教師に可能なのか、という点での見極めについて、ぜひご意見を下さい。子どもをいかにみとるべきかという話よりも、教師がどれほどそうできるのか、を考えることが先だろうから。
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by walk41 | 2015-12-23 16:49 | 授業のこと | Comments(0)

子供

中学生の学習発表会を聴く。

パワーポイントの資料中、「子供」という表記が出ていたのを見て、自分が学生だった頃の議論を思い出した。

曰く、子供という表記は、大人に伴う小さい存在としての子ども観の現れである。子どもはそれ自体、重要な固有の存在なのだから、子供ではなく子どもでなければならない、と。

これを素朴に信じて、自分も子どもと記し続けてきたけれど、障害を障がい、とも書くようになって、「そんなんナンセンスやん」と言っている自分も、子どもって書くことに微妙に拘ってるなあ、と気づかされたのだ。

こんな自身が抱えている矛盾、みなさんにはありませんか。
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by walk41 | 2015-12-18 09:38 | ことばのこと | Comments(0)

教師のみとり、のいい加減さ

小学校で働く知り合いから、こんな話を聞いた。

その学校の低学年のクラスでは、家庭学習(宿題)として教科書の音読の練習をして、それを保護者に聞いてもらったというサインを求めているとのこと。そこに、学校でとても真面目で明るい子が、なぜかその宿題をやってこない、つまり保護者のサインがないと。

子どもに尋ねると、聞いてもらっていないのだという、その子の担任は、家で見てもらえない理由が何かあるのではないかと考え、このことを教頭に伝えたところ、「そんな、親が見られないということなどないはずだ」と宣ったそうな。

折しも、保護者懇談の時期。やってきたその児童の保護者は、そのことについて、忙しさのあまり、聞いてくれというのに相手をしていませんでした、と語ったという。

ほらね。ウン十年と教員生活をしてきた教頭ですら、子どもの状況認識=みとり、において決定的な間違いをするということ、そして、「~ないはずだ」と言う根拠がさしてある訳でもないのに、まことしやかに話すようになるのが「ベテラン教員」の怖さでもあるということ。

つまるところ、子どもを観察する、みとる、評価する、いずれであれ、そのための方法論について議論、定式化、実践という回路が経られていないことに気づく。まあ、言ったもの勝ちの世界である。

繰り返そう。長く教員をしたからといって、適切なみとりができるわけではない。そこに、「わからないから、こわごわと接する」ことが大切と知ることができる。思い付きで話していないか、先の指摘がもっともらしさを欠いてはいなかったかと、反省する能力が教職には決定的に重要だということ、何度も心しなければならない。
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by walk41 | 2015-12-16 22:47 | 身体 | Comments(0)

法制といったものに規定されにくい教育という出来事

新たな教育委員会制度に関するシンポジウムを聴いた。

狭義の教育行政に留まらない「総合行政」として、とりわけ福祉と関わって学校教育、社会教育、生涯学習の施策が捉えられつつあることを確かめるとともに、「民意」と専門性、「教育の専門性」の内実、意思決定と葛藤や調整、といったことについて考えなければと、多くのことを学べた。

その一方でこうも思う。都道府県と市町村、合わせて1800ほどの教育委員会が置かれる、自治体の規模、産業や人口構成などから導かれる課題は、相当に幅のあるもので、全予算占める教育関係予算の相対的比率のみならず絶対額の違いも著しいことだろう。くわえて、首長の教育関係施策に対する意識や構えも一様ではないと考えられる。

この点で、教育委員会は法的根拠を持った制度ではあるけれど、教育に関わる現実をどれほど規定するものかと考えると、はなはだ心もとないだろうと私は捉える。何より、どのような意思決定と予算執行がどんな事実を生み出し、またその事実が関係者、住民や保護者そして児童・生徒にどのように受け止められ、またいかに効果を上げたかは、事実上、測定不可能なのだから。予算をいかに獲得したか、という軸だけならまだしも、それでは教育政策論といった話にはならない。

私の色眼鏡が過ぎるのだろうけれど、こうしたマクロな制度の議論はつまるところ「いろいろある」という域を出ない、と思われるからこそ、私の研究関心はメゾ、あるいはミクロへと移っていった。現実を説明する手がかりとして、上のような制度の説明力は乏しいんじゃないかなあ、というのが私の受け止めだ。間違っているかもしれないけれど。

かくも教育にはエビデンスがない。それを分かった上で何を議論するのか。見えないにもかかわらず見えるかのように話をしている自分たちをメタ認知することなのか。あるいは、ごく限られたことであっても事実を見いだし、その比較や分析を行うことなのか。わからないことはなお多い。どなたかご教示をお願いする次第だ。
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by walk41 | 2015-12-13 17:36 | 学校教育のあれこれ | Comments(1)

新たな問いへと開く

年に3回集まっては、勉強会を続けているメンバーがいる。かれこれ5年ほどになる。前回は、私に講演が入っていたためにお流れとなったので、このメンバーで会うのは、ほぼ9ヶ月ぶりだ。

それぞれの報告を聞きながら、自分の中で気づき、そして喜びを感じられる瞬間に多く出会う。

学校にとって地域とは何なのか、教育目標や方法の基準と教員、生徒の個別性はどういう関係なのか、規制をしすぎるとかえって目標から遠ざかるのではないか、と新たな問いが生まれる。こうした経験のできることが、忙しい中、遠方を含めて集ってもらう意味だと実感する。

こうして一日を過ごせたこと、幸いと思う。
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by walk41 | 2015-12-12 22:07 | 研究のこと | Comments(0)

出口管理がないからこその「キャリア教育」論

キャリア教育に関する報告をゼミで聞く。とても熱心な報告だし、思いは伝わる。けれども、残念ながらしっくり来ない。

どうしてそう感じてしまうのか。ドイツの学校教育のことをかじっている身としては、どうしてもこう考えてしまうからだ。

彼の地では、9年間の教育修了(Hauptschulabschluss)、同10年間(Mittlerer Schulabschluss)、同12年(もしくは13年)(Abitur)のいずれも、州政府による資格であり、日本のように学校長が生徒の卒業(進級も同じく)を決めるという制度とは大きく異なっている。このため、学校教育が成功したかどうか、目標により近づいたかどうかは、それぞれの教育修了の通過率によって少なからず示される、という論理になる。

つまり、学校で何を頑張るかと言えば、これら教育修了資格を得ることであって、その先に就職や進学といった次のステップが控えている。日本でも卒業資格はあるけれど、多くの高校生にとって、高卒は苦労して得られるものではなく、一つの通過点に過ぎない。彼らが卒業式に涙するのは、クラスメイトと別れるのが辛いからであって、ここにたどり着くまでの苦労を思い返してのものではない。日本では卒業の意味が軽く、だから次の学校の入試が重要な意味を持つのだ。翻って、ドイツでは、教育修了の資格を得ることが事実上の卒業であり、次のステップに進めることを国(州)が保証するものだ。これが私が言う「入学文化と卒業文化の違い」である。

ドイツからの留学生に尋ねてみた。履歴書に卒業したギムナジウムの名前を書いたりするのだろうかと。彼女の答えは否、Abitur(大学入学資格)を持っていることを記載すれば十分で、どのギムナジウムに通ったかを書くことはないとのこと。ほらね、学校履歴よりもどの教育修了資格を持っているかが大切だから。

つまるところ、日本で「キャリア教育」の議論が「生き方」教育に至るまで拡散し、収集がつかなくなっている事態は、何のために在学しているのかの意味づけをしにくい制度ゆえに、「何のために学ぶのか」「将来を考えているのか」を当該の学校の課題にしなければならないという、ある意味での不幸である。卒業を個々の学校ではなく、国が認め、それに向かって学校と当人が励まなければならない、という構図のもとでは、「何のために勉強するのか」という論理は形づくりにくい。その目的は、学校を超えたところに既に設定されているのだ。

生徒の入口管理には熱心でも、出口管理が緩い日本の学校制度を、逆転させることはできるだろうか。不登校の生徒に「卒業式くらい、来いよ」などという教師の言が好感を持って受け止められるようなところで、「学校ではどうしようもないから、頑張ろう」というようなセリフは、果たして似合うだろうか。
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by walk41 | 2015-12-08 18:50 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

r. と l. は難しい

そろそろ、ラップが切れるな、買っておこうと思った。そのとき、ラップってどんなスペリングかなって。

lap これは膝、子どもが安心して過ごせる場所との意味もあるそうな。
じゃあ、rap かな。これはコツコツと叩くことで、だからラップ音楽なのか、なるほど。
それとも、lup あるいは rup かな。どっちも外れ。ええい、どこや!?

何のことはない、wrap でした。ああ、知らないもんやなあ。

アルファベットのままに紹介してくれれば、こんなことも起きないのにね。日本語にないものをカタカナにして輸入することの功罪、どう考えればいいものやら。
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by walk41 | 2015-12-07 13:36 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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