学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

<   2016年 01月 ( 17 )   > この月の画像一覧

どうしてかしら

こんな幟があったので、不思議に思って地元の人に尋ねたけれど、さあ、どうしてでしょうか、と返ってきたのみだった。

植栽を傷めないためなどに「前向きに駐車」とは聞くけれど、なぜバックに? ところ変わればルールも変わるということなのだろうけれど。うーむ。

b0250023_023174.jpg

[PR]
by walk41 | 2016-01-29 00:00 | Comments(0)

月決もあったよ

駐車場の表記といえば、月極、と相場は決まっており、だから「月極チェーンって、すごいな。どこの駐車場も持ってるわ」という都市伝説もあるくらいだ。

と思っていたのに、初めて違う表記を見た。まあ、大した話ではないのだけれど、ちょっと楽しい。
b0250023_17163637.jpg

[PR]
by walk41 | 2016-01-27 17:16 | ことばのこと | Comments(0)

嬉しかったこと

ご縁を得て招かれ、北海道に来た。

担当の方とお会いして話をしていると、数年前に私が担当した研修に参加されていたことを知る。だから、呼んでくださったのかあ。

嬉しかったのは、私のことを覚えて下さっていたからだけではない。「先生が研修で話されたことを、システム手帳に書き留めていて、今もときどき読み返しているんです」と聞いたからだ。そんなそんな。

どんな話をしたのか、研修講師だった当人にはもう定かでないけれど、この方には何か残ったようでとても嬉しい。研修の効果というほどのものではないけれど、何年か経って、ひょんな機会にこんな話を聞けるなんて、何て幸せなことかと思う。
[PR]
by walk41 | 2016-01-27 16:48 | 研究のこと | Comments(0)

客観的にも学校を捉える

これまで拙ブログをご覧くださっている方には明らかだろう、私が「学校教育って、主観的で、瞬間的な出来事にあふれているよね」ってわかったようなことを常日頃、口にしていることを。

こんな味方に、「ちょっと待ってや」とのメッセージとも聞こえた、学校事務職員の皆さんの研究会に参加させてもらう機会を得た。とても勉強になったし、軽いショックを受けた。そうやなあ、学校教育は主観的で瞬間的、だから再現性が乏しいけれど、学校という場は、相当に客観的で継続的、つまり再現性が高い面も強いなあ、って。

たとえば、消耗品をどのように置けば、きれいに無駄なく、あるいは全部がなくなる前に次の発注ができるのか。コンピューターのデータ管理はどうすれば効率的、つまり省力的、低ストレス、快適にできるのか。これらをアイディアの試みを通じて、すなわち新しいことを実践し、普遍化できないかを確かめていった、という報告をたくさん聴く中で、これらの工夫や改善が、働きやすい学校、ひいては児童・生徒の利益にもつながる学校を支えることになるなあ、と強く思わされたのだ。

学校教育は、教員の話術や教材だけで行われる訳ではない。黒板やチョーク、あれこれの紙、セロテープやビニール紐、トイレットペーパー、インターネットを含む情報などが下支えをしてくれている。備品がない、消耗品が足りない、教科書が届かない、出張に行けない、基本的に事務的な仕事がカバーしてくれることだろう。これらがあって初めて、安心して教員は生徒に向かい、生徒も気持ちよく学ぶことができる。

「そんなこと、あたりまえやん」と仰る向きもあるだろう。けれど、このことを実感を伴ってわかること、そして、支えてくれる人たちに感謝しつつ、狭い意味での教育に携わること、主観と客観の両にらみで学校を捉えようとすることは、必ずしも当たり前ではないように思う。

大きな課題をもらった気がする。少しづつ知っていきたい。
[PR]
by walk41 | 2016-01-22 17:13 | 学校教育のあれこれ | Comments(1)

「すべては戦争のために」

驚かされた。

国立科学博物館「ワイン展」監修者に聞く 
https://gunosy.com/articles/a0HCI
を読んで、日本のワインづくりの歴史の一端を知った。その中に出てくる、戦争とワインとの関係について、考えもしなかったからだ(以下も、上記ページから拝借)。

b0250023_23273637.jpg


「ブドウは科学兵器」とある。大変な時代だったのだろうなと想像する。
いま、ゆっくりとワインを味わえること、何と幸せかと強く思う。
[PR]
by walk41 | 2016-01-20 23:29 | Comments(0)

時間と競争する

長時間労働が即、一生懸命仕事しているわけではない、という指摘を興味深く読んだ。(http://gooday.nikkei.co.jp/内) そうだよなあ。

始まりと終わり、とくに終わりの時間をまずは自分なりに決めないことが、ダラダラ仕事に繋がっているのではないか、とは的確だと思う。これは一日を単位としない場合にも当てはまる。(次に出かける用事があったりして)「何時までにこれを終わらせる」と思えば、集中度が高まるとは誰しも経験しているだろう。「この仕事が終わるまでやる」という場合との集中度の違いは、明らかなように思われる。

そして、短い時間単位とする〆切の設定は、あまり多忙感を生じさせないようにも感じる。集中度が低いと、一つの仕事の最中に他のことが気になって、気ぜわしく、つまり忙しさを感じる。これが、多忙と多忙感の違いだ。仮に多忙ではあっても、多忙感を持たない。

予想される時間よりも短めに、一つの課題に当てる時間を設定して、終わるべき時間までに仕上げる、いわば時間と競争をする。すると、高い集中度が必要となり、「思ってたより早くできたわ」と結果的にゆとりができる。これが「忙しいかって? そんなことないよ」となるように思うのだ。

仕事に追いかけられるではなくて、仕事を追いかける、このためには高い集中度が不可欠だろう。教育労働に関してこれが難しいのは、自分だけで時間管理のできない側面が少なくないからだろう。とはいえ、できる余地があるとも思う。このことは、改めて考えたい。
[PR]
by walk41 | 2016-01-19 09:19 | 身体 | Comments(0)

名前を記す

鹿児島にある知覧平和記念会館で、興味深いものを見た。

それは、真ん中に大きく日の丸を描いた、2メートル×1メートルほどの布だが、武運長久とか必殺といったおどろおどろしい文字が並ぶ中に、家族、友人、恩師といった人々の名前が数多く記されているものだ。戦地に赴くに当たっての激励、お守り代わりによく使われたものだと思う。

その中に、誰もが知るキリスト教系大学の総長と学長の名前が記されていた。おそらくは、学徒兵のものだろう、その学生が頼みに来たか、誰かが書いてやってほしいと依頼したか、はたまた両人が進んで記名したかはわからないけれど、確かに書かれている。

ネットで検索するといずれも実在した人物で、その一人は戦後、社会福祉協議会会長、教育委員会委員長にも就き、晩年には褒章も受けている。いわゆる著名人として戦後も生きた。

ここで思う。戦地に赴く、さらには特攻隊としてアメリカ軍に臨む学生に対して、どんな気持ちで自分の名前を、しかも職位も合わせて記したのだろうかと。

この大学は、キリスト教主義を建学の柱としており、「学生たちに良心を喚起する風を送り続けるキリスト教」を標榜している。この教えはあの戦争をどのように捉えていたのか。当時の総長や学長は、大学創設者が学んだ地でもあったアメリカ合州国をどのように見ていたのか。そして、戦後になって、戦時中の自身の言動をいかに総括したのか。それは大学の精神に適っていたのか否か。

もし、「あの時は仕方なかった」と思っていたのならば、同じくキリスト教信者や自由主義者あるいは社会主義者・共産主義者が戦争に反対し、特高(特攻と同じ発音である)に捕えられて、命までも奪われたということにどう向き合うのか、もう鬼籍に入られたが是非うかがいたいと思う。

そして、自分がもし似たような立場に置かれたら、どう振る舞うだろうか。そうした事態に至っていれば、もはや人の上に立つようなところに身を置いていないのか、それとも…。あるいは、そうなるまでに何かできたことはあるのか。教育者、研究者としての(戦争)責任について考えさせられる。
[PR]
by walk41 | 2016-01-16 14:17 | Comments(0)

平和を願う

鹿児島県の知覧町にある、知覧特攻平和会館を訪れた。
昨今はWebでもある程度のことを知れるから、それ以外のことに気づけるようにと出かけたのだけれど、私の観察力の限界ゆえか、一本調子の展示という感を否めなかった。

太平洋戦争における戦局の悪化と特攻作戦の決定、本州最南端の陸軍飛行基地だった知覧がその先鋒と位置づけられた。家族と国家、そして天皇の安泰たることを願い、アメリカの艦船に突入しようとした、多くは20歳前後の若者たちーほぼこの基調で埋め尽くされていると見た。

こうしたことが二度とないようにという願いは強く示されているけれど、ならば、どうすればこんな悲劇を起こさないようにできるのか、という視野までもった展示になっていたかはいささか疑問だ。

通常の攻撃と比べて特攻はどれほど効果的だったのか、つまり、より効果的と考えられたにもかかわらず、実際にはそうではなかったという結果、あるいは特攻に殉じた彼らの悩みや葛藤が少なくとも表向きは出されていなかったこと(ひょっとしたらなかったのかもしれない)、経験の浅い兵士を投入しなければならなかった、戦争遂行上の問題、政策ひいては外交の問題へと、問いを広げることができるのではないかな、と思われたので。

驚かされたのは、来訪者が記したノートの多さだ。今年になってまだ10日あまりなのに、毎日のように、しかも一日に数人が感想を書かれている。その中に中国からの留学生が書き込んだものがあり、興味深く読ませてもらった。

中国でも戦争時に若者が記したものが残されており、国は違っても家族や故郷へ思いは同じなこと、こうした思いをする人が、もう決して現れないように祈ると書かれている。まったく同感だ。ときおり、「日本人だからこそ…」と言う人もいるけれど、それはあまりに幼い。むしろ、若人ゆえ大局を知ることができなかったかもしれない、とは言えるだろう。

若人の健気さ、一途さに感じるところは多いが、かといって、このことを戦争の物語に充てることはできない。日本政府は、あるいは天皇は、どこまで戦争をするつもりだったのか。どんな和平を構想していたのか。

ハワイ、香港、シンガポール、マレーシアと勝っていた時に、「じゃあ、もっとやろうか」と思ったいい加減さ、およそ勝ち目はないのに、努力賞のような特攻を命じた愚かさ、戦後に活躍すべき人をまさに犬死させて、頑張ったと自己満足している様には、怒りを隠し得ない。彼らの人生と社会貢献を考えるに、なんと酷いことを命じたのかと腹綿の煮え返る思いがする。

だから思う。①決して攻めないこと、②攻められないように努力すること、③もし攻められても武器を取らないこと。そんなあ、と思われるかもしれないが、非戦というのはこういうことだと今は思う。決して武器をとってはいけない、すべての武器を楽器へと。
[PR]
by walk41 | 2016-01-15 18:28 | Comments(0)

観察と判断

教育という労働においては、状況の認知→判断→行為(実践)という段階を踏むけれど、ここで判断というところの捉え方が人によってずいぶんと違うんだなあと思わされることがあった。

小学校などでよくなされている、トイレスリッパを揃えることについて、私などは「なぜ児童はそろえないのかな」とか「なぜ教員は揃えさせたがるのかな」と考えて、「だから揃えないんだ」とか「だから揃えさせようとするんだ」という判断を下すとイメージするのだけれど、大学院生たちと話していて、いわゆる現場感覚では、「揃っていなければ揃えるように指導する」さらには、「上履きを脱ぐときもきちっと揃えさせる」といった判断がなされがちなことに気づかされたのだ。

つまり、前者での判断とは、状況をどう解釈すればよいかに関わる、もっともらしい解釈であり、後者では、望ましくない状況ならば是正する、望ましければ褒めるという確固たる価値観を発現させること、すなわち、そこでの状況の認知とは、判決を下すための材料と位置づけられている。前者は、状況を合理的なものと捉えて、それが生じないように、あるいはより生じるためにはどうすればよいかを考えるのに対して、後者は状況が望ましいか、望ましくないかを判断して、状況を本人の意識や主体性の問題に帰結させようとする。望ましいかそうでないかの基準は揺らぐことなく。

ところが、何が望ましいかそうではないかは、真面目に考えるとけっこう難しいことである。トイレのスリッパについて言えば、そもそも下足から上履きへと履き替えさせているから、トイレで新たに下足扱いのスリッパを履かなければならないのであって、上履きを設けないという発想をすれば、このスリッパ問題も解消する。現に、京都市の古い学校では、上履きのない学校があり、土足が基本になっている。図書室やコンピュータ室などを出入りする際にはそれこそスリッパを履くという仕掛けである。

こうした状況を変えることで行動を変えるという発想をしないで、状況を放置したまま児童の意識を変えるという無理を求めるから、みんながしんどくなる。こんな話も聞いた。電車通学をしている児童がいるこの学校では、他の乗客に迷惑になるからという理由で、電車の中ではお喋りをしないと決めているそうだ。電車で友達と会って話をしないなど、およそ合理的な行動ではない。むしろ、静かに話をするよい機会と捉えればよいのに、「他者に迷惑を掛けない」という価値基準が絶対視されて、無理を強いることになっているのだ。

その学校の管理職は「電車では、折り紙を折ってはいけません」とも宣ったそうな。通勤・通学ラッシュで身動きも取れない状況ならば誰もそんなことはしない。折り紙ができるだろうと考えるからそうするまでのことであって、そこで隣の人に自分の肘があたったならば、その人がやんわりとたしなめるか、やがて自分で気づくだろう。こうした経験の機会を奪うような「指導」とはいったい何なのか。何のために、教員は血道を上げているのか。学校とはまことに不思議な場所である。
[PR]
by walk41 | 2016-01-13 10:34 | 身体 | Comments(0)

卒業生から年賀状が届く。楽しく読ませてもらう。

卒業生の一人からのメッセージ、「ゼミで経験したことが、自分の芯になっています」

「こんな風にやったらうまく学級経営できるよ」とか「教師たるもの、こうでなくてはいけない」といったお喋りとは、正反対の側にあるゼミを経験して、いま小学校教諭として働いている卒業生から、このように思われていることが、とても嬉しい。

理論と実践の往還、統合などと言う人がいるけれど、教育の理論というのはそれほどあるものではない。そうではなく、見えないことが多い教育や学習という出来事に対して、知らず知らずのうちに滑り込む、論者の価値観、眼差し、そして理屈を見抜き、そのいい加減さや、思いこみのようなものを赤裸々にできる力をもって、自分なりに実践という試みをこわごわできること、これが教育の論理(理論ではない)と実践との関係をより適切に示している。

理論を学んでそれを実践に応用するといったモデルで教育や学習の事実を説明できる余地は決して大きくない。可能なのは、論理を相対化して新鮮な実践ができるように自分をマネジメントできるように、論理が一つのたたき台になること。その論理を分解し、再構成することを通じて、臨機応変に状況適応的に実践できるように、間接的に応援することである。

この点で、教育学研究者と呼ばれるべき人間は、聖書を提示することではなく、もちろん、お調子者に担がれて預言者めくことでもない(講演や研修などで、自分をエライ人間と思い振る舞うのは、その病に罹っている証である)。

彼らの役割は、世につれあれこれ登場する、教育と学習に関わる論理を見抜くための道具を提示し、一緒に分析の作業に勤しむことである。このことを通じて、これまでとは違う教育や学習を構想すること、あるいは今は注目されていない過去の経験や遠い地の論理と実践を掘り起こし、あるいは発見することである。これらが多くは児童生徒に面する最前線で働く教職員を励まし、勇気づけることができるだろう。

大学もそうした役割の一端を担う場所である。そこで働く人間が「自分の役割は何か」について勘違いしないこと、それが彼らの、私の第一ハードルである。
[PR]
by walk41 | 2016-01-10 09:11 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
nation
at 2017-10-17 12:45
好みの幅広さ
at 2017-10-15 12:43
スクールソーシャルワーカー
at 2017-10-14 10:59
「奏を功する」
at 2017-10-12 20:20
付いた力は自分ではわからない
at 2017-10-11 23:31
まずは良かった
at 2017-10-09 19:14
Fiasko/fiasco
at 2017-10-08 10:40
青か緑か
at 2017-10-06 09:39
丁寧な言葉遣い
at 2017-10-05 10:26
目標を実現することが即、教育..
at 2017-10-02 22:05
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧