学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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研究とは新しいことを見つけること


幼稚園の研究発表を聴く機会があった。生き物を幼稚園の中に取り入れて、園児の思考に関わるどのようなことが観察されるか、それは獣医師の研究を裏づけるものか、を確かめようとしたものだ。とても興味深く聴いた。勉強になった。

研究スタイルの点で学んだことは、改めてを含めて、新しいことをしてこそ研究と言うべきだということ、これまでやったことのない試みをして初めて、気づかなかったこと、知らなかったことに出会えるかもしれない、と楽しみが生まれる。

そこには、元気と勇気も必要だ。これまでと違うことをするのだから、面倒だと思うだろうし、従来を否定する場合もあるだろうから、ちょっと滅入るかもしれない。けれど、それを敢えてやりたい、やるべきだという危機感や問題意識が伴えば、新しいことに臨むだろう。つまり、自分や回りをモニターしていなければ、疑いを持つことがなければ、革新しようとは思わない。

また、新たなことをやるとは、相当に限定的なものでなければ、それとはっきりしない。ぼんやりと新しいことはできないから。対象や方法の焦点を定めた、期間やメンバーも限る方がよい。「みんなでやること」を第一義的に考えないことだ。もちろん、何をやろうとしているのか、どんなデータが得られているのかは、みんなに知らせて、意見ももらえばいい。そのことと「みんな一緒に」とは別物だ。何かを明らかにするために適切なメンバー、期間を決めればいいのであって、決してその反対ではない。

けれど、多くの場合は、みんなでやることが第一義的なのだろう。この結果、何を明らかにするかがなおざりにされ、そもそも、研究と叫んでいても何も明らかにしようなどと思ってもいないことが起こる。本末転倒が日常化する。子どもたちに、日々成長しようと檄を飛ばす教員が、自分についてはそうしようとしない。なんとも哀しい話である。
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by walk41 | 2016-02-28 18:01 | 研究のこと | Comments(0)

運動能力から学力がつく

東京都を例にした小学生の学力と運動能力の、区ごとの保護者の年収との相関について興味深く読んだ。
http://blogos.com/article/162596/forum/

「勉強はできなくても、スポーツは得意で」なんて言い方は、もはや古い言い回しに過ぎないのかも知れない。学力と同様、運動能力も保護者の収入と正に相関するデータがあるという。

なるほど、収入があれば、栄養にも恵まれ、やる気も高まり、ましてや高層マンションだったりすれば階段の上り下りで体力もつく、だから運動能力も高まる、という構図だろうか。

目の研究書をかじると、運動することで目の位置も動く、つまり視野が変化し、これによって空間認知の能力が発達するとあったように思う。たとえば、ファミコンやiPhoneで狭い画面ばかり見ていると視野は変わらないなあ。空間認知が論理的な認識と関わっているとするならば、運動をしないで、「広く物事を考えよう」とか「相手の立場に立って」などと言われても、ピンとこないのかもしれないね。

これをいささか強引に敷衍すれば、座ったままの教室での勉強を革新してもっと動けるように。立ってしゃがんで寝転がって、廊下も活用して、いろいろな風景をいろいろな速さで目に映す経験がすこぶる大切ではないかとも思わされる。「正しい姿勢で」「きちんと座って」などと、子どもの視野を固定するようなことを言わないで。
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by walk41 | 2016-02-25 09:08 | 身体 | Comments(0)

研究発表会

ある研究発表会で、締めの挨拶をすることがあった。その数日後、一人の教員から「こういう言い方をしたら失礼なんですけれど」と前置きされて、話しかけられたのだ。

何かまずいことを言ったかなと恐々聞くと、「あの話が一日の研究発表会の中で一番良かったです」と言われる。どういうことかと聞いていると、多くの場合、「皆様の忌憚ない意見を伺えて良かった」などと心にもないことを言うか、それとも、上から目線で偉そうに言うか、いずれかだが、私の話はそれらと違い、「ここで提案したことを皆さんの学校でも試みて下さい。そして、それぞれの学校でやってみた結果を、こちらにも教えてください。」と話したからだと言われたのだ。

間違っても参観者にヨイショしたわけではないし、奇をてらったわけでもない。授業を見たからといって、法則的なことが学べるわけではないし、もとより、そのクラスだからこそできることが大半なのだから、直接に使えることがあるはずもない。常日頃、そのように思っているから、先のような話になったのだけれど。

みんな、無理してるんかな。再現性のないシロモノを相手にしているのに、わかったようなことを言わなあかん、って思ってしまうのは。だから、結果的に嘘つきになる。学ぶことはおおよそ主観の違いに起因するのだから、どのように見ているのかを相対化することで、多様な解釈を促すように議論を進めること、これこそが研究発表会でも大事な態度やと思うんやけれど。
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by walk41 | 2016-02-24 20:46 | 研究のこと | Comments(0)

部活動

 兵庫県教育委員会は23日、姫路市立中学校の男性教諭(58)が、いじめを受けて骨折した生徒について「病院では階段から転んだことにしておけ」とうその説明をするよう指示したなどとして、教諭を停職6カ月の懲戒処分とし、発表した。教諭は県教委の調べに「医師に言うと警察に通報されるかもしれないと思った」と話しているという。

 県教委によると、この教諭が顧問だった部活動で昨年7月、練習中に1年生の男子生徒が上級生2人からひざ蹴りを受けるなどして胸部を骨折。教諭は副顧問にうその説明をするよう指示し、生徒は病院で指示通りの説明をしたという。

 その後、上級生2人は他の1年生2人にも複数回暴行していたことが判明。校長は上級生のうち、主力選手の3年生を8月の近畿中学校総合体育大会に出場させないよう指示したが、教諭は出場させたという。

 教諭は「出場させないことが望ましいとは割り切れなかった」と説明。県教委は「いじめを許さない姿勢が読み取れず、非常に大きな問題だ」としている。(朝日新聞、20160223)

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この報道の趣旨は、いじめられたことによる怪我を自分で転んだと「指導」した教員の凄さにあるが、別の面でも凄いなと思わされる。それは、問題のある生徒の出場を取りやめるようにと指示した校長の意に、部活動顧問の教諭が従わなかったという点だ。

学校という「誰が上司かわからない」組織ゆえにこんなことが起こるのか、それとも、部活動という教育課程に含まれない活動が公然と行われているがゆえなのか、この記事だけではわからないけれど、両方に跨っている可能性も含めて、議論に値する事例だと思う。

校長の判断が優位しない組織を助長する部活動というシロモノ、以前からどう扱うかは問題になっているけれど、大きく変わったとは思われない。「誰が面倒を見るのか」が常にネックになるからだろうし、全国大会に至るチャンネルが強固なのも厄介である(オリンピックにもつながっているだろうし)。

しかし、部活動で使うお金の管理、過度な「先輩ー後輩」関係、もちろん教員の過重労働と、部活動がこのままでいいはずがない。一体どこから手をつけたらいいのだろうか。
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by walk41 | 2016-02-23 21:59 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「避けること」の何が問題なのか

小学校に勤める人から聞いた。ある若手教員は、低学年の子どもたちにこう叫んだそうだ。「どんな理由があっても、仲間はずれにすることは決して許しません」と。

伝聞の限りでは、ある児童がどうも鼻水を垂らしたまま、近づいてくるために、周りが嫌がって避けようとするらしい。これって、きわめて素直な反応じゃないかしら。

当の児童からすれば、みんなが逃げていくのだからいじめに遭っているとも思わなくないだろうけれど、だったら、その様相を何とかしてよと思うのは人情だろう。自分の服に鼻水がついても構わないというウルトラ大らかな子どもならば別格だけれど、その子どもも他のみんなからきっと避けられるよ。

どうも、いじめという言葉でいろいろな事象を括ってしまうことに問題がありそうだ。自分が小学生の時もあったいじめ、いじめをした側も、された側も両方を経験したなあ。

昔を思い出しながら、いじめた理由を考えると、動作が遅い、牛乳瓶の底のような眼鏡を掛けている、(いつも同じ服だったように、衛生的でなかったのだろう)変な臭いがする、そして、聴覚障碍で発声が違う、転校生で珍しい苗字、すぐにキレて暴れる、といった、「うまく説明できないけど、みんなとちょっと変わっている」ことが最大公約数になるように思う。

ひるがえって、たとえば障碍を理由に差別されることはもちろん問題だろう。車いすでも乗れるようなバスや電車のバリアフリーが広がり、肢体不自由な方が公共交通にアクセスできるようになることはとても大切だ。講演会に手話通訳者がついたり、目の不自由な人に触れる展示物がある博物館も魅力的だ。障碍者の雇用率を数値目標づけることもいいと思う。

あるいは、電車の中で奇声を上げたり、なれなれしく近寄って来る人を不思議に、さらには嫌にあるいは恐怖を感じることは、差別とは言えないだろう。もちろん、クラスメイトとはいえ、鼻水がつくかのような格好で迫られて、そこから離れることも同様である。

変わっている=異者を忌避するのは、安全に生きようとする人間の一つの判断である。何を好んで嫌悪する場に身を置きたがるだろうか。その際、①避けられる当人が、避けられる理由を理解できないとき、②避けられる理由が、当人には変えようのないとき、③避けるという消極的な排除に留まらず、攻撃するという積極的な排除に至るとき、は、問題ある排除になるように思う。

だから、排除は条件つきで認められる/認められないと議論を整理すべきだろう。よって、「どんな理由があれ」なんて言う教育者は、ものを考えていないし、こうした押しつけという暴力を行使しているに過ぎない、あんぽんたんである。

また考えてみたい。
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by walk41 | 2016-02-22 16:01 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「みんなでやる」風土ゆえ?

ポッピーママさんからコメントを頂戴した。「校内研修」なるものが外国にもあるのかと。

残念ながら、私はドイツの初等・中等教育についてしか(それも、連邦制を採る国ゆえ、どこでもそうかは判じられないけれど)わからないけれど、この限りではこうした仕組みはないといっていいと思う。

校内研修の実質は「授業研究」(lesson study)、これは日本ならではのものだと、海外に発信する向きもあるから、私たちがイメージする「校内研修」は珍しい類なのかもしれない。

私が思うにこの仕組みは、内容的にどうこうというよりも、形式として行われることに意味があると、当事者には捉えられてきたのだろう。つまり、一つのテーマを決めるまで、みんなで(これが肝である)お喋りをすること、回を散々に重ねたあとに、「でも本当の学力って何だろう」といったドンデン返しも経験すること、こうしてようやく指導案の検討に入り、ああだこうだとまたみんなで話をして、「指導案に縛られてはいけない。けれど、指導案を踏まえなければならない」と一休さんのとんち話のような話をして、やっと授業が行われ、授業観察や授業参観と銘打ちながら、生徒たちをぐるりと取り巻いて授業に干渉して、最後の話し合いでもまたまたみんなで思い思いの好きなことを話して、時間切れになるのを待ち構える、こうした一連のスタイルが学校にとって重要と考えられているのだ。

何をやっているのか、という内容はほとんど問題にならない。どんなテーマであっても、教育に関わることなのだから、それでOKだ。それよりも、みんなで、時間をともにすること、それなりのドラマを経験することが、みんなで盛り上がるための不可欠な条件であり、このために何かをしなければならないのだ、やりたいわけではないのだけれど。

かくして、内容は飛んでしまったままの校内研修、授業研究ができ上がる。先行事例の検討も、その継承や批判もなく、毎年、何をしたらいいんかなあと研究主任は頭を悩ませる。やりたい内容がないのだから、仕方がない。仮説の設定や実証、検証とおどろおどろしい言葉を用いながら、授業後、何も明らかになることはない。前半の勢いはどこに行ったのか。出てくる感想は、これまでの苦労がしのばれる、お疲れさま、だけである。指導主事ですら。

こうした風土を維持するために、校内研修という場は使われている。これでは、まずは生徒たちに、そして納税者に受ける顔がないだろうと、私は思うのだ。
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by walk41 | 2016-02-21 19:14 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

子どものために

原語はおろか、邦訳でも読めないと思うので、『超訳 ニーチェの言葉』(白取春彦訳)を読んでいる。訳者が述べているように、その分析の鋭さはとても魅力的だ。「ツァラトゥストラはかく語りき」の中に、次のような一文があるという。

…どれほど良いことに見えても、「〜のために」行うことは、卑しく貪欲なことだ。

誰々のためであろうとも、何々のためであろうとも、それが失敗したと思えるときには相手、もしくは事情や何かのせいにする心が生まれるし、うまくいったと思えるときには自分の手柄だとする慢心が生まれるからだ。

つまり、本当は自分のためにだけ行っているのだ。

けれど、純粋に能動的な愛から行われるときには、「〜のために」という言葉も考えも出てくることはない。…

もちろん、この見方への異論はあるだろう。その上でなお、何となく遣っている言葉を疑ってみる手掛かりとして、これを読むことは大切かと思う。たとえば、教員として慢心してはいないか、うまく「実践」できなかったとき、誰かや何かのせいにしてはいないかと。
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by walk41 | 2016-02-21 18:48 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

自分へのチャレンジ

ご縁があって、講演会の講師の方とお話することがあった。

これからお話いただくテーマに関わって、直前の応対をしていた際、次のように仰ったのだ。

「このテーマは、私もまだわからないことが多いのです。だから、今回の機会は、自分へのチャレンジであり、また聴いてくださる皆さんのチャレンジでもあるのです。」

お歳を察するに、70歳は優に越えられている方かと思う。その上で、今なお新しいことに挑戦しようされる姿勢、自分にまだ課題があるという認識に、大いに感じるものがあった。学びたいと思わされた。
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by walk41 | 2016-02-19 15:23 | 身体 | Comments(0)

重ね言葉

「なぜ多い? 外来語と「重ね言葉」」(読売新聞、20160215)を楽しく読んだ。

確かに、キャラバン隊、アンケート調査と、同じ意味を繰り返す言葉だけれど、しっかり馴染んでいるなあ。

この一方、興味深いのは、カタカナを介さない場合、この重ね言葉は、忌むべき表現として批判の対象になるということだ。たとえば、「今の現状」「後で後悔」は、使うのはよろしくないと見なされるだろう。

加えて、カタカナが入っているけれど、上のような漢語的なつながりではない場合も、ダメだしされやすい。「これが一番ベストです」といった表現ね。

つまるところ、言葉のルールもあるようでない話。何が正しい表現なのか、一概には言えないということに落ち着きそうだ。だから、一概には言えないということを楽しんだらいいと思うんだな。
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by walk41 | 2016-02-15 16:05 | ことばのこと | Comments(0)

気遣い

電車で大学生と思しき女の子、二人が立っている。二人ともスマートフォンと懸命にお見合い中だ。見る人が見れば、「せっかく二人でいるのに、画面ばかり見て、コミュニケーションが成り立っていない、現代の嘆かわしい風潮だ」と宣うことだろう。

ところが、彼女たちの目の前には座席が一人分空いている。相手のことが眼中にないのなら、さっさと座るだろうに、二人とも立ったままなのだ。自分だけが座ったら悪いなという、相手に対する気遣い、つまりあなたのことを考えているよとメッセージを送りあっている。

スマートフォンをいじりながら、相手への配慮も忘れない。彼らはむしろ高度なコミュニケーション能力を持っていると評すべきではないだろうか。
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by walk41 | 2016-02-14 18:01 | 身体 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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