学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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おもてなしの極み?

JR大阪環状線の駅、有人改札口の近くにいた時に、こんな光景に出くわした。

改札口を通ろうと乗客が切符を差し出す。受け取って検印した駅員さん、乗客に手渡す前に、手元の紙に切符を押し付けて、スタンプのインクを拭っているではないか。

確かに、スタンプを押してすぐの切符はインクが付きやすい。服について困った人もいるだろう。それがより生じにくいようにとの配慮、これを当たり前かのように振る舞う姿に感嘆させられたのだ。

まだ若い男性職員だった。こんな振る舞いが業務マニュアルに記されているとも思えない(記されているのだろうか)。乗客を思いおそらく自発的にとられている行為、その源泉は何なのだろうか。
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by walk41 | 2016-07-30 17:07 | 身体 | Comments(0)

理解はできないが

いわゆる難しい保護者について、教員と話をしていた時だ。

もう大ベテランの教員が呟いた。「理解はできないが、そういう保護者は現実に存在する。」

何か至言に聞こえたのだ。その通りだなって。残念だけれど、頑張っても自分が理解できないことはある。その諦めというか悟りというか、変な力強さを感じたことだった。
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by walk41 | 2016-07-30 14:05 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

半世紀越しの悲しい記憶

60歳代半ばの女性から話を聞く。彼女が小学校2年生の時のことだ。1960年代初めにあたる。

当時30歳になっていたかどうかくらいの若い女性教師、クラスの女の子を箒で叩いたらしい。そのことが、その親の知るところとなり、学校に連絡があったという。

教室にやってきたこの教師は、叩かれた女の子はそのことを黙っていたのに、クラスメイトだった彼女が、女の子の親に知らせたと思い込み、あろうことか、彼女に廊下で立ってなさいと命じたのだとか。彼女は何もしていないと言ったのに、そのことには全く耳を貸さなかったという。

もう無茶苦茶である。ほうきで叩いたという行為、それを保護者に知らせなかったこと、そしてクラスメイトがそのことを「密告」したと思い込み、廊下に立たせたこと。

この教師は、三歳くらいの自分の子どもを学校に連れてきて、お気に入りの児童に子守をさせていたとも聞いた。もちろん、その児童は授業なし、校内を自由にその子どもと歩いていたそうで、周りから、いいなあと思われていたという。いい加減も極まれり、である。

当時の学校管理職は何をしていたのか。まあ驚くばかりの体たらくで、かつ、それから50年以上も経つのに今なお、彼女を苦しめる酷い行いだった。教育の残酷物語がここにも一つある。
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by walk41 | 2016-07-30 10:40 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

障がい、なんて書き方を止めよう

神奈川県で起きた障害者施設への襲撃とおびただしい殺傷、言葉もない。

この事件を受けて、全国手をつなぐ育成会連合会が声明を出した。その中に次の一文がある。「障害のある人もない人も、私たちは一人ひとりが大切な存在です。障害があるからといって誰かに傷つけられたりすることは、あってはなりません。」

いかがだろう。障害者に直接に関わっている人たちの文章に「障害」とある。わたしは「障碍」が理に適っていると見るけれど、当事者がそう遣うのならばそれでもいいと思う。ここで、「障がい」と書くように求める風潮を省みるに、変な言葉の遣い方だなあ、もっと言えば、あんまり考えずに遣ってるんとちゃうかなあ、さらに言えば、こう遣うことで免罪符を得てる気持ちになってるんとちゃうか、とツッコミを入れたくなる。

障害を障がい、って書き直したからって、何も変わらない。困っている人、苦労している人(これも実は上から目線である)とかに言い換えるというのならまだしも、障がいでは意味するところは何も変わらん。仮に、京都市がきょうと市になったとして、内容的にどう変わるというのか。あくまでもイメージだけである。

そんなことでわかったかのような顔をして、「障害」と記した演者の資料に「障がい」と改めるべきと指弾する、そんな教員のいることを残念に思う。
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by walk41 | 2016-07-28 09:01 | ことばのこと | Comments(0)

学校事務職から学校秘書へ?

学校事務職のみなさんとの研修会、教員中心の学校にあっておそらく支配的な価値(臨機応変、不正確、無限定といった)と、そこで多くは孤軍奮闘する学校事務職との葛藤を述べ、まずはこの状況を知ること、その上で、メタ認知的に問いを立てることが大切ではないかと話す。

ここまではいわば初級編。今回のみなさんの多くは私の話を一度は聞いており、その先を知りたいと事前アンケートにあったので、次のような話題提供をしたのだ。そこで紹介したのが、ドイツの学校秘書(Schulsekretariat)のことである。

学校秘書の職業像-変化の中の責任ある業務

電話口であっても対人的であっても、学校秘書はたいてい学校と学校外の「お客」すなわち、生徒、保護者、教員、教育職以外の学校スタッフ、官庁、業者、卒業生、近隣住民、街の部局、配達人、スポンサー等の第一のコンタクトポイントである。学校生活に関わる全ての人々が、たとえ一人で働いていてもなお、学校秘書の存在に期待している。緊急時、学校秘書はコンタクトポイントとして連絡が取れなければならない。また、情報と相談の領域においても学校秘書は、サービス能力が直接的に求められるのである。すなわち、統合された有能な学校秘書は、学校の中と外に影響を及ぼす。

こんな文章で自身を語る、Webネットワークのページを見ると、彼の地でSchulsekretariatがどのように働いているか、また何がこれからの課題かを伺い知ることができる。

推測するに、義務教育段階で言えば、ドイツの学校秘書は日本の教頭に近い仕事をしているように見える。電話を取る、来訪客に応じる、いつでも連絡が取れるようにすることといった業務はまさにそうだろう。こんな方向で、学校事務職の近未来を考えられないだろうかとボールを投げた次第。

これに対する皆さんの反応は、意外なものだった。もちろんみんながという訳ではないけれど、こうした方向よりも、狭い意味の事務により傾きたいと手を挙げた人が多かったのだ。そうなのかと研修を終えて戻った部屋で教育委員会の指導主事が言った。「年配の人はともかく、若い事務職の中には、他者とコミュニケーションを取りたがらず、パソコンに向かって仕事をするのがいい、という人がいますね。」私が返した。「だったら、学校事務職は学校にいなくてもいい、外注してもいい、という話になりますね。」「まさにその通りです。」

学校事務という職位の来歴とこれから、当該のみなさんはどんな方向を見据えているのだろうか。
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by walk41 | 2016-07-28 06:52 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

就職率の高さを誇る大学

電車内の広告、大学の宣伝も決して珍しくない。

その一つにこんなものがあった。見出しは「就職率100%の伝統と実績」。いわゆるお嬢様学校を売りにする大学である。

いやあ、これって変やん。お嬢様学校なら就職などする必要はない。いわゆる花嫁修業をしながら「白馬に乗った王子様」を待つ身なのだから。むしろ、就職するとはこうしたアテのないことを示すものと、忌避すらされるはずだ。それが何と逆に、就職率の高さを堂々と誇るとは…。

日本で言えば大正期以降、女性にとって中等教育機関以上で学問を修める、あるいは実学を学ぶとは、あくまでも自身とその家族くらいまでの範疇で楽しむ、活かすものだっただろう。つまり、経済的ツールとして学校に通うことを捉えてはいなかった。それが、どこかに勤めるという就職を肯定的にアピールするようになっているのが現在のさまである。

大学の生き残り戦略として、お嬢様学校であることを示す一方、これと正反対の就職率の高さをも宣伝するという矛盾。何のための大学なのか、みんなよくわからなくなってるんやろうなあ。
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by walk41 | 2016-07-27 09:08 | ことばのこと | Comments(0)

「事務室だより」を出してほしい

学校事務職のみなさんとの研修会。まだまだ長いキャリアを描くだろう人が多くて、元気にあふれ、こちらも元気をもらった。

そんなみなさんと「学校での悲しいとき~」を作ってもらったが、聴くと悲しすぎて、こりゃ笑いごとじゃないよ、と少し怒りすら感じたのだ。

曰く、悲しいとき~、事務室便りを作りますと教員に言ったら、そんなの作っても誰も読まないよ、って言われたとき~。

これって酷くない? せっかく学校内の異業種から発信するというのに、それを聴くつもりがないなんて。しかもそれを公言するなんて。

こんなのもあったよ。割れた窓ガラスが交換、修理されたのを受けて校長が、「管理用務員さんのおかげです」とみんなの前で言ったとのこと。管理用務員さんは割れたガラスの掃除をしたけれど、新しいガラスの発注と調整を担ったのは学校事務職の自分だったのに。少しは学校事務職に心配りもしてほしい、と。

教員もその立場ゆえに言いたいことももちろんあるだろうけれど、お互い大切にしようよ、違う立場であること、同じ学校にいても違う見え方のすることが少なくないことを活かし合って、よい多面的に学校を捉え、学校改善にも繋げていけるように。

子どもには「相手の立場に立って考えなさい」なんてエラそうに言っているのに、この不寛容。私は教員がはたして嫌いなのかもしれない、自分もその端くれだというのにもかかわらず。
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by walk41 | 2016-07-25 20:43 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

傲慢な教師にならないためには

学生のレポートを読んでいる。おおむね真摯に懸命に臨んだものだ。先が楽しみだなあとも思わされる。

教職の授業は学生の被教育経験の振り返りを促すものでもある。このため、彼らの学校体験を随所に見つけることができる。哀しい話も少なくない。

こんな思い出を書いた学生がいる。曰く、小学校3年生の時、クラスメイトが持っていたストラップがなくなったことがあった。当の学生もたまたま同じストラップを持っていたそうだが、そのために、なくなったクラスメイトが自分のそれを指して、自分のものが取られたと騒ぎ出したのだという。

突然の様子に驚いていたこの君の側にやってきた担任教師は、「他者のものを取っちゃダメでしょ。○○ちゃんに謝って返しなさい」と言ったのだ。自分がクラスメイトのものを取ったと思われたことに、ショックで涙が溢れ嗚咽からうまく言葉の出なかった様子に、「泣いちゃうってことは、後ろめたいことがあるんでしょう」と追い打ちをかける言葉も投げたのだとか。

この様子にこの君は初めて教師に失望し、一気にこの教師が嫌いになったと。結局、ストラップがなくなったと騒いだクラスメイトの鞄から出てきて、教師は謝ったものの、年を重ねるごとに薄れる記憶の中にあって、この出来事は今なお鮮明に覚えている、と。

短い時間で意思決定をしなければならない(あるいは、しなければならないと思い込む)教師がやってしまいかねない失敗をどうようにして回避するか。状況と自身の認知に関するメタ化ができること、多くの選択肢を用意できること、起こりうるリスクを想定して可能なfail-safeを設けること、と考えられるが、なかなか難しい。

ならば、こうは考えよう。自分が偉い人だとか、正義の使者などとは間違っても思わないこと、謙虚に敢えて振る舞うこと。これまた容易ではないかもしれないけれど。

だから私は、自分で自分のことを「先生」などと決して言うな、と繰り返すのだ。一向に聞き届けてもらえないのだが。
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by walk41 | 2016-07-20 18:15 | 身体 | Comments(0)

「お手紙」

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教室では言語だけでなく非言語にもあふれている。それらは非意図的に表出される場合もあるが、少なからず意図的である。教員が怒ったような顔を見せる、沈黙(間)をとる、腰をかがめて生徒と目線を合わせるといった、教員による行動に加えて、生徒がする行動も教室を性格づける。

その一つが授業中に密かに生徒間で回る「お手紙」である。教員に見えないように回るこれは、おそらく「授業、早く終わらへんかな」とか「今日の放課後何する?」いった、教育側にとっては否定的なものだ。それでも彼らの友人関係や教室でのある意味生き残りの戦略の一つとして、「お手紙」は意味を持っている(榊原禎宏・ 森脇正博・西村府子「教室における意図的な非言語メッセージ-正統化や勘違いとしてのコミュニケーション-」『教育実践研究紀要』16号 pp. 127 ~ 136 ,京都教育大学附属教育実践センター機構教育支援センター,2016年3月)。

ちょうど同じ現象を南西ドイツの6年生のクラスで見た。男の子と女の子が二人でやっているのだが、なかなかワイルドである。手紙を書く、その紙を丸める、相手に投げる、手紙を拡げ、返事をする、この繰り返しである。教員ももう諦めているのか、なぜか止めなさいとは言わない。

あーあ、こうしたことに対する教員の苦悩は、きっとどこでも同じだろうね。
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by walk41 | 2016-07-18 13:15 | 身体 | Comments(0)

政治的中立性って

何十回とドイツを訪れているのに、恥ずかしながら知らないことが山のようにあり(あれ、それって当たり前のことか)、より勉強しなければって来るたびに思わされる(「優等生」だなあ、えへん)。

今回のその一つは、教員と議員とをいかに兼ねられるかということについて。これまでは、教員が勤務する学校のある自治体では、政治的中立性との兼ね合いで議員になれない、他の街ならばなれると理解していたが、それが不正確だったということ。

正しくは、任用関係にある自治体の議員には教員(他の公務員も同じだろう)は就くことができない、というものだ。つまり、ドイツでは特別支援学校の一部などを除き、多くの学校の設置者はおおよそ市町村だが、教員については州公務員の立場が多く、ましてや校長は間違いなくそうなので、市町村とは任用関係にない。すなわち、市町村立の学校の校長や教員はその町の議員でもありうるということだ。

友人に尋ねると、知り合いの一人は実科学校の校長だが、彼はその町のキリスト教民主同盟(CDU)の議員だという。法学的には問題がないそうだが、自分としては納得できないと彼女は不満げだった。

議員になるには立候補して選挙活動もして、当選したらもちろん議会ほか町で活動する。そんな人が、その町の学校の校長や教員だということが当たり前の世界、不思議だなあ。18歳選挙権になって、高校でも政治的中立性を確保せよと、やたらに煩い国もあるけれど、そんなもの大したことじゃない、もっと政党色をそれぞれに出してこそ民主主義だろうと思わされる話だった。いやはや。
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by walk41 | 2016-07-17 08:57 | ドイツのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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