学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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評価されたことをどう受け止めるか

久しぶりに芝居を観た。

地元の人がレッスンを受けて芝居に参加するという企画の一つだそうで、いわゆるプロの演劇ではない。それでもなお、酷かった。学芸会のレベルをさして超えるものではないと、私には思われた。それなりのチケット代を払って、である。

入場時にアンケート用紙が配られていたので、辛口もけっこう絡めながら感想を書いた。劇場スタッフに渡したのだが、その後でふと思ったのだ。これって、芝居をした役者さんたちに届くのだろうか、と。

もし、これが劇場スタッフだけに留まるのなら、私の書いたつもりとは大きくずれることになる。他の観客はどんなつもりで感想を書いたのだろうか。自分の声を届けたい人に届かないものを、せっせと書いていたことになる。そんなアホな。

昔、署名活動について似たような話をしたことを思い出した。署名するのは構わないけれど、この結果どうなったかについて自分に知らされることはまずないから署名はしないという人の意見についてだ。

意地悪に考えてみよう。みなさんの意見を募っていますよという格好を取りながら、その実、それが当事者に知らされなかったり、改善や改革に多少なりとも繋がらないのならば、それは事業評価が求められるからそうしているだけ、というアリバイづくりに過ぎない。評価への労力を求める分、えげつないとも言える。

さて、学校教育法には「小学校は、文部科学大臣の定めるところにより当該小学校の教育活動その他の学校運営の状況について評価を行い、その結果に基づき学校運営の改善を図るため必要な措置を講ずることにより、その教育水準の向上に努めなければならない」(第42条)とある。はたして学校に関する評価は設計されたように機能しているだろうか。

学校評価アンケート等はあまねく行われているけれど、それを受け止め、その後にいかに活かせているか、そもそも活かせるような内容として問うているのだろうか、自分の業界についても思わされる。どのように他者の意見を受け止めているか、と。
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by walk41 | 2016-08-31 20:55 | Comments(0)

現実を合理的な結果と見よう

指導主事と話をする。またしても「授業研究」についての話に及んだが、いわゆる現場でされがちな発想の特徴を、私に伝えてくれたように思ったのだ。

授業や生徒指導の課題を設定する際、たとえば「最後まで人の話を聞けない」「自分の意見を言おうとはしない」あるいは「校則を守らない」といった「子どもの現状と課題」といった話から始まる。私のような部外者に、そこで忘れていることがあるのではと思われて仕方がないのは、①そのような状況になっているのは、一つの合理的な結果である、②その状況は子どもによってだけではなく、教員や学校によっても作り出されている、という視点だ。②については、「自己言及」として既に述べているので、以下は①について説明しよう。

これも最近の私の口癖だが、「子どもには子どもなりの理由や都合がある」。だから、彼らの言動を教育-学習の文脈だけでは理解できない背景があり、子どもがそちらをより優先させることにより、教員にとっては不都合なことが生じている、と見るべきではないだろうか。

たとえば、「最後まで人の話を聞けない」のは、「聞けない」のか「聞かない」のか判断が難しい。「だいたい分かったからそれでいい」と考えた、つまり「聞かない」ことを、「聞けない」と勘違いしてしまう。あるいは「校則を守らない」のは、「守らない」のか「守れない」のか、丁寧に考えることが必要だろう。守らないのならば、守らせることができるかもしれないけれど、守れないのならば「そう言われても、結構ムリ」ということもあるからだ。

その上で、そうした現実をもし「好ましくない」と考えるならば、次の手続きが必要になる。その一つは、現実を生み出している背景を分析すること、①生徒個人の特徴なのか、②あるいは、人数や構成員、その場の「空気」といった社会的な条件ゆえなのか、③はたまた、教員の働きかけや教材・教具が関わっているのか、と分類し、最後の変数を操作することで他の変数に優位することができるのか、という見通しを持つことである。

この点で、③にばかり注目が行き、他の変数を見落としていれば大きな問題であるし、また他の変数に目が届いていても、その影響力が③と比べて、どちらが大きいのか小さいのか、つまり③はどれほどの影響力を及ぼしうるかのメドを持たなければならない。

にもかかわらず、①現実をより丁寧に掴まえようとしていない、②それを構成している変数(要素)に分解していない、③教育側ができることの具体とその効力についての見通しがない、ということがもしあれば、いかに現実を変えられるというのだろうか。私が見たごく限られた「授業研究」は、上のいずれについても乱雑で、分析と言うよりも印象頼み(ごめんなさいね、思いつきの類)、そして教育側の「手立て」や「工夫」は方略として曖昧あるいは客観性を欠く、ように思われる。

そんな「授業研究」を続けていても授業はまあ変わらないし、何よりも教育側が特段やりたいものにならない点で致命的だと思う(だから、進んで研究主任になろうとする人がまずいないのでは、とは勘ぐり過ぎだろうか)。だから、楽しく、やりがいのある、そして子どもたちに還元されるような研究上の着想と具体化が不可欠と、何度も何度も強調しているのだけれど。

大学と小中学校、同じ学校教育の世界にいるはずなのに、伝え合うこと、わかり合うことは実に難しい。けれど、その努力を続ける、能力を持とうとしければ、教員としていることはできない、と自分を含めて思うから。楽しく、しんどく頑張るしかない。いちおうプロやん、ぶーたれていないでお互いに励もうよ。
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by walk41 | 2016-08-31 15:29 | Comments(2)

長期的統計の意義

9月1日、いろいろな節目でもあるだろうけれど、学校教育の世界では、子どもの自殺がもっとも考えられる日として、「登校は義務じゃない」と注意喚起、電話相談、緊急受け入れなどが準備されているという。

この根拠になるのが、1972-2013年の「18歳以下の日別自殺者数」で、これによると9月1日の自殺者数が突出していることだ。夏休みが終わり、嫌だった人間関係が戻ってくる、勉強にまた向かわなくてはならない、といった圧力から生じる自殺もあるだろう。

もっとも、この日が2学期の初日だという学校はどれくらいなのだろうか。20年も遡れば大方そうだったと思うが、学力向上の掛け声とともに夏休みが短くなっているように見える。私の近くでは、今年度で言えば8/23,24から始まっているところがあり、9月からと聞くと、いいなあと思わされるほどである。ならば、9月1日だけに注目しても仕方ないではないか。でも、それを言い始めると、キャンペーンの効果が弱まってしまうし。

社会現象を捉えようとするときのジレンマはここにも見られる。短い期間の観察、記録では「たまたまそうだっただけ」と批判されるので、長期的に見ようとすると、対象やその環境が変わってしまうことがある。

先日、1988-2013年の170万人の患者を対象に、誕生月によりなりやすい病気があるというアメリカ、コロンビア大学の研究を知ったが、時間の長さと合わせてケースを大量に集めることで、より信憑性のある研究が目指されているのだろう。さりとて、たくさんのケースを扱うにはお金もそれこそ時間もかかる。コンパクトにわかりやすい知見を提出するのは、自然科学も同様だろうが、社会科学についてもなお難しい。

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by walk41 | 2016-08-30 10:32 | 研究のこと | Comments(0)

雄弁は金

図書館でたまたま見つけた『はじめてのフィールドワーク ①アジア・アフリカの哺乳類編』東海大学出版部、2016、を読む。執筆者のおそらく全員が1980年代生まれといういわゆる若手研究者による報告である。

その中に面白い記述があった。松本卓也「キジャナとチンパンジー」にこうある。「‥タンザニアでは黙っている人間が『落ち着きのある人だ』『思慮深い人だ』と思われることはけっしてなく、誰かと会えば挨拶をし、雑談をすることが望ましい。『雄弁は金』なのである。」

今でこそ、コミュニケーション力とおしゃべりなことが価値化される日本の教育界だが、歴史的にはこの間まで「男は黙って」「沈黙は金」と寡黙なことが重んじられてきた。あるいは、ドイツのローテンブルクにある中世犯罪博物館には、おしゃべりの過ぎた女性を辱めるためのマスクが展示されており、女性も雄弁であることが褒められたわけではないことがわかる。

話好きなことは、自己開示の点で不用心、ひいては軽々しいとも見られる反面、博識、人懐っこいとも受け取られる。こうした人間の基本的な行動の一つが、両方の価値づけを伴ってきたこと、きっとこれからも両者の間を揺れ動くだろうことを、とても面白く思う。




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by walk41 | 2016-08-28 14:46 | ことばのこと | Comments(0)

スキルとパーソナリティ

これからの人材として求められる能力について、スキルやコンピテンシーという言葉を聞く。この議論はなかなか面白いと思う。なぜなら、いずれもその人らしさ、つまりスキルやコンピテンシーはパーソナリティと完全に切り離すことができず、その人となりとして現れる部分を多分に有している一方、スキルやコンピテンシーと聞くと、個人を離れた「やり方」のようにも思われる(僕だけかしら)からだ。はたして、「〜したらいい」というハウツーは、その人のありように関わりなく、ありうるものかしら。

たとえば、笑顔で人と接すると良い、と聞く。そうあるためには自分の心持ちがそれに適っていなければならない。不平不満に溢れている人がこのやり方を聞いたからといって、そうできるだろうか。つくり笑いはできなくないけれど、ぎごちなさは残るし、あとでしっかり疲れることだろう。だってそうしたくないんだから。

あるいは、余裕を持ってことに臨め、と聞いたとする。けれど、近視眼的な自身の大げさには世界観が余裕のなさにつながっているのだから、そうすればいいのか、と思ったからといって、そう行動できる訳ではない。中長期的な意思決定に馴染んでいない身体なのだから、イライラするとか放っておくと落ち着かない、と思ってしまうのだ。

この点で、人に内在する技術という言葉はとても興味ふかい。人格を離れてどれだけの技術が残るのか。結局はその人の身体の使い方とそれを支える意識や気持ち、物の見方に依るのではないか。だとすると、スキルを身につけるとは、方法を知ることを通じて自身が変わっていくという過程を含むということになる。

この点で、「やり方を知りたい」「どうしたらいいのかを言って」とスキルを求める人は、その方向で自身が変わるように、価値観、論理を組み替える覚悟があるということになる。それらが変わって初めて、自分の行為が変わると心すべきではないだろうか。さらに言えば、そう変われそうもないのに、やり方を求めても実りは乏しいだろうとも。

さて、やり方を知りたい御仁、ご自身が変わらなければならないことに耐えられるだろうか。

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by walk41 | 2016-08-26 18:49 | 身体 | Comments(0)

手立て

授業研究という場でよく遣われる、手立て、という言葉。指導の方法や工夫という意味合いで用いられる。でも、教育の一番の変数に迫ろうとしているとは思われない。

そもそも、教育の方法にはどんな領域があるかと考えてみると、教材、教室、教員や児童・生徒を挙げることができる。たとえば、電子教科書は授業をどう変えるか、教室の机の配置を変えたらどうなるか、といった実験が可能だろう。

そして、教員や児童・生徒について。これらは、授業を決定づける第一の変数である。子どもの意欲が高ければ、教員がいなくても学習は進むし、反対も然りだ。さっぱりやる気のない子ども前に、教員は何ができるというのだろう。しかも、この変数を直接に操作することはできない。「子どもには子どもなりの事情や都合がある」のだから。

では、残される教員についてはどうだろうか。ここには実に多くの要素がある。しかも手つかずのままで。さあ分析してみよう。まず表情、どんな顔を見せれば児童の反応を方向づけられるだろうか。顔つきには視線も含まれる。笑顔や柔和な視線を向けることで何が起こるだろうか。あるいは、声の調子、呼びかけ方、方言を遣うかどうか、高さ低さ、話す速さ、抑揚、沈黙のいかん。内容的に見れば、開放的な質問か限定的な質問か、冗談(これもダジャレ、ジョーク、ウイットなどど分けられる)の頻度、ウソを意図的に入れてみる、逆説的な物言い、などと分解できる。

はたまた、手足の動きについても盛りだくさんだ。手振り、指を折る、拍手する、歩き方、動線の長さと順序、腰をかがめる、はたまたジャンプする。

板書との付き合い方もあるね。何も書かない。端から真ん中へと書いていく、フリップだけにする。ほら、いろんな手立てがありうるでしょう。

こんな風に授業者である教員を分節化すること、それなしでは教員が変わることは期待できず、心がけ、精神論に留まる。そんな「授業研究」にどんな意味があるというのだろうか。

もっともっと分析能力を教員が身につけること、大学はそのためにあると思うのだけれど。


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by walk41 | 2016-08-24 15:04 | 身体 | Comments(0)

やっぱりミスかな

学校事務職員の研修会、担当者の事前の連絡では「7名」と聞いていたので、ずいぶんと小ぶりな会だなあ、ゼミみたいでいいかも、と思いながらやってきた。

ところが当日、講師控室までの会場を通ると、どう見てもたくさんの受講者が見える。あれっと思い、尋ねると「あー、それは私のミスです。70数名です」と言われた。つもりがガラッと変わったよ。

まあいいけれど、受講者数が一桁違うというのは、連絡ミスと言っていいかと思う。これが株式の取引とかだったら大変だものね。自戒も込めて、より丁寧でありたいなあと思ったことだ。

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by walk41 | 2016-08-22 10:10 | Comments(0)

感情の起伏のある研修、そして授業を

8月は教員研修の書き入れ時、教育センター等の幾つかから呼ばれて、受講者の皆さんと時間を共にする。

その中で強く感じさせられるのは、内容とその論理もさることながら、それらが受講者である教員の考えや経験と接点を持ち、彼らの同意、納得、疑問、反論などと合わせて、驚き、落ち込み、不満、喜び、意欲といった情緒や感情を伴ってこそ、おそらく実りのある研修になるということだ。

研修の目的は、これを一つのきっかけに教員が変わることだけれど、それには情報だけでは全く足りず、論理だけでも十分ではない。そこに彼らの気持ちの変化を引き起こすこと、彼らの肌感覚ともいうべき実感に伝わるように、研修担当者が心を砕かなければならない。

とりわけ普通教育のゴールは見えにくいだけでなく、個々の教育活動が授業等の担当者の人格と強く結びついているから、それを変えるとは、彼らに「何となく」であれ宿っている価値観、論理、行為(実践)という流れを問い返すことに他ならない。そこには、各教員なりの合理性や正当性が伴っているから、話したから、伝わったから、説得的だから、変えられるだろうと考えるのは無理だ。大人が話を聞いているふりをする、わかった格好を取ることは全く簡単なのだから。

そこに残されるのが、彼らが後にも思い起こせるような記憶の頼りとしての情感だと思う。研修や授業においても、相手への関わりをより分節化、分解して捉えようとすること、それには一般化された話ではなく、ケースに接するエピソードを対応させることだ。情景が思い浮かぶような、気持ちと合わさった経験を通すこと、これなしには自律性の高い仕事が求められる教員の業務の、何も変わることはないと心すべきではないだろうか。




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by walk41 | 2016-08-18 17:05 | 身体 | Comments(0)

模範遺族

広島市現代美術館で「1945年±5年」という企画展を観た。敗戦を戦後する5年間に何が描かれたかというモチーフだ。

印象深い作品に出会ったが、その一つが模範遺族として表彰された家の夫人画だった。自宅で描かれたのだろう、戦死した兵士の母親だろうか、目は明らかに逸らされており、間違っても、堂々たる遺族の雰囲気を湛えてはいない。筆者は、表彰されることの困惑といっそうの寂しさを表現したかったのかもしれない。

くわえて当時の、模範遺族という言葉、家族を亡くしてなお、模範的に生きなければならないと求められた世相のえげつなさを一つ示す言葉と、私は感じた。

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by walk41 | 2016-08-18 11:52 | ことばのこと | Comments(0)

こんなベンチの寄贈もいいね

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広島の平和公園にて。

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by walk41 | 2016-08-17 09:16 | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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