学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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ごきぶり

コキブリという生き物をご存知だろう。では、あのツルツルしていそうでカサカサと動く生き物をなぜそう呼ぶのかは、おわかりだろうか。

いくつかを検索するとこうらしい。器をかぶる、つまりかじる、ことから「御器かぶり」と言われ、この紹介時に「か」が誤記でこぼれ落ちたことから、今の名前になったようだ。ごきかぶり→ごきぶり、ということなのだそう。

さて、このごきぶり、何が嫌か、たとえばコウロギやイナゴと比べてどこが違うかと言われると説明が難しい。不衛生? いや、ものの本によると基本的にはそうではなく、病原菌を媒介することは稀とのこと。じゃあ何が、嫌なの? 身長に似合わない速さで動くから? いやいや、急に飛ぶかもしれないのが怖い?

ごきぶりは世界各地で食用の歴史があり、ペットとして買う人もいるらしい。そう考えると、ごきぶりを頭から毛嫌いする必要はないのではと思えてくる。子どもの頃、あんなにやっつけるのに懸命だった自分が、である。

そんなある日、ごきぶりと出会った。以前ならば「容赦なしに‥‥」 だった自分が、ちょっと知識を得たら、「何してんの? はよどっかに行きや」である。こんな話をしたら、ごきぶりの害虫ぶりを主張する人に猛然と反論されたけれど。

この点で、学ぶとは自分の変化を伴ってナンボのものだと思う。自分のものの見方に影響を与え、自身を変えることを余儀なくさせてこそ、学んだと言って良い。けれど、自分が変わることは恐ろしいことでもある。だから、学ぶことへと誘おうとする人は自分の罪深さに自覚的でなければならない。

学ぶのはいいでしょう、嬉しいでしょう、だから大いに学びましょう、なんて言うのは、頭を働かせていないノンビリ者の台詞である。言葉に知らず知らずにうちに与えられた価値観を鵜呑みにしているのだ。

学ぶ、変わるという出来事、それが他者を変えようとすることの恐ろしさに、いかに感受性豊かにあれるか、教員の資質議論は相変わらず賑やかだが、こんな着眼も忘れてはいけないと思う。


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by walk41 | 2016-09-30 23:26 | ことばのこと | Comments(0)

教育労働における「ワーク・ライフ・バランス」

職場における「ワーク・ライフ・バランス」について、話を聞くことがあった。
一回聞いたくらいで評するのは酷かもしれないが、全くつまらない話だった。

なぜなら、①「ワーク・ライフ・バランス」(WLB)の定義は一様ではない、という、現実と定義との関係を本末転倒させた、認識論的に不適切なお喋り、②WLBが叫ばれるようになった背景についての、政府の意図の乱暴な解釈、③無償労働が圧倒的に女性によって担われてきたという、あまりに総論に過ぎ、リアリティに欠けた説明(たとえば、家事労働はともかく、地域ボランティアも女性によって担われてきたという説明は妥当だろうか)。④学部生に説明するかのような、聞く対象におよそ適っていない話、だったから。

さて、この概念を学校を念頭に置いて教育労働について考えてみよう。どれほど、現実を説明する言葉だろうか。まず一つ挙げると次のようだ。

教育労働は、たしかに有償だが、時給や残業といった言葉と縁遠い、(否応無しの、好むと好まないとに関わらずの)ボランティア的な無償労働の側面を強く持っている。対人サービス労働は第三次産業の大きな特徴だが、教職はその中でも児童・生徒というニーズが明らかでない相手と関わり、かつ、教育という範疇に収まらない彼ら彼女ら言動が当たり前に表出される環境下にある。

つまり、教育労働は多分に自分の裁量のもとにあるけれど、それは自分以外の影響が大きいことも意味する。自分だけではどうしようもない部分である。①このくらい教えたらこのくらいまでできるようになるだろうと予想していても、この通りにならない例は山のようにある。そこで授業外の時間を使って教えると、他の業務にシワ寄せがいく。とりわけ、危機管理として「念には念を」と入念な準備、実施、評価を行うので、いっそう時間を要する。自分で何時間働くとあらかじめ宣誓するのは容易ではない。

②児童・生徒の後ろには保護者、公立義務学校ならばたいてい地域の人々が学校に関わっている。彼ら彼女らの価値観や意志は学校の教育目標や年度計画に沿っているとは限らず、反することも珍しくない。たとえば、教育課程外の部活動は誰がどう担うのか。学校としてはこのくらいで十分だろうと思っても、もっとやってほしいという声が上がると無視するわけには必ずしもいかない。

こんな問いに対して「話し合いをして納得を得て」と言われてもまあ無意味。こうした話のために時間を割いたことが、何ともワーク・ライフのバランスを失うことになったことが残念だった。


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by walk41 | 2016-09-29 11:47 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

物ごいする人

ドイツでも見ることは決して珍しくありませんが、今回のイタリア訪問でもいっそう感じました。

多くの人々が行き交う通りで、お椀や紙コップの類を傍にあるいは手で差し出して、お金を無心する人が一人ならずいるのです。

たとえば朝9時過ぎ、失礼ながらヨボヨボのおばあさんが、この場を占めるがごとく、歩行者用道と自動車用道の間に膝を落として、ついていた杖を両手に跨るように置き、持ってた紙コップを低く掲げます。自動車用道にはすでにクルマが停められており、そのクルマの車体にちょうど体の三分の一くらいは潜り込むように身を横たえて、物ごいを始めるのです。

間違っても金銭的に豊かな人ではありません。幾らかでもお金が寄せられれば何かの足しになるかもしれません。けれど、こうした老婆に目を向ける人はわずかで、いや嫌でも目に入ってくるので、だからこそ見えないふりをしているのでしょう、私も傍を通る時、息苦しさを感じましたから(道端で拾ったコインを差し出したことは、一度ありました)、そんな中で、なぜこの人はこんなことをしているのだろうと、謎に包まれるのです。この地では、最低限の社会保障制度がないのでしょうか。それともあるのだけれど、字が書けないなどのために制度にアクセスできないためなのでしょうか。はたまた、はなはだ失礼ながら「出勤」や「趣味」の類なのでしょうか。

ご病気か怪我かはわかりませんが、両足が変形して普通には歩けない中年男性が、歩行者用道にドンと足を投げ出して、多くの人とは違う足を敢えて見せながら、無心していた場所も何度も通りました。この男性は夕方、別の目抜通りに場所を移し、今度はヨロヨロと歩いて、すれ違う人にお金を求めていました。まったく不思議です。

一日経ってもおそらく数ユーロも集まらず、しかも哀れみや嫌悪の目を向けられて、およそ快適とは程遠い場所に身を置くという行為を進んでするという、人間の一側面でもあるということの不思議さ。タバコの投げ捨てもある、犬の糞に出合うこともある、何よりクルマの排気ガスで息苦しいような場所にいることに釣り合うような行為でしょうか。私が子どもの頃、梅田界隈で路上生活者を見ることはありましたが、物乞いをする人については記憶にありません。地域差によるのか、時代によるのか、わかりませんが、この行動の謎をすでに誰か解き明かしているのでしょうか。

どなたか教えてくださればと思います。

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by walk41 | 2016-09-28 23:28 | Comments(0)

ごみの回収

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イタリア中部の街中で見かけたもので、これはおもしろいなと思った一つが、写真のようなごみ回収場所です。

イタリア語がさっぱりわからないので間違っているかもしれませんが、このごみ箱の限り、生ゴミ、資源ごみ、生活用品などと分けた上で、レバーを踏んで開いた回収口に入れるというスタイルだと思われます。

このごみ箱(といったよいのかどうかわかりませんが)は、地下空間に繋がっており、見える場所だけがごみのスペースではありません。この鉄板の下がごみを収めるスペースになっているのです。いつ入れてもいいのかしら、わかりませんが、生ゴミのコンテナからはずいぶんと臭ったので、決まった時間という訳ではないかもしれませんね。

これらとは別にごみ回収車も朝早くから回っていましたから、複数の回収方法をとっているということでしょうが、ちょっと新鮮だったので、ご紹介する次第です。イタリア在住の方のブログなどを拝見すると、また地域によって一様ではない感じ。この点は日本も同じですね。有償のごみ袋が要るところと要らないところ、分類の基準が違うこと、集められる頻度も同じではないことなど、それこそ地域事情に応じてということでしょう。

ごみ問題と学校問題を同じにしてはいけないのかもしれませんが、どうして学校教育は全国を念頭に置いた共通化志向が強いのでしょうか。それぞれの事情や主張があって当たり前と考えれば、いまの日本のいわゆる教育問題も、また違って見えてくると思うのですが。
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by walk41 | 2016-09-25 23:57 | Comments(0)

ながら仕事

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イタリア中部にて、すぐれて公的な窓口でのワンシーンを撮らせてもらった。

この担当官はこちらが書類を差し出してしばらく、このおそらく私用と思われるピンク色のカバーを付けたiphoneで話を続けており(固定式の電話はこの部屋に置かれていた)、こちらに対応せず。ようやく席に着いたと思いきや、電話をしたままで書類に目を通すというさまであった。

こうした場面に出くわすと、たとえば、電車がプラットフォームに入ってくるまで直立不動で待っている職員(新幹線などでの掃除スタッフも同様だ)、美術館などでじっと座って来館者と作品の様子を見ているスタッフ、はたまた、「もうすぐパスポートの有効期限が切れますから、早い目に更新して下さい」と帰国時に言ってくれる審査官など、職務にひたすらな様の方が特異なのかもしれない、とすら思わされる。

仕事に就くとは、従事するとはどういうことか、についての地域間の違いは、たとえば、労働時間の換算、「ワーク・ライフ・バランス」やいわゆる過労死などのテーマにも連なるだろう。

当たり前に見えることがどこでもそうという訳ではない、というこれまた当たり前のことに、改めて気づかされる。
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by walk41 | 2016-09-25 07:57 | Comments(0)

懸命に仕事をするということ

地方公務員法
(服務の根本基準)第三〇条 すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。

一観光客として見る限り、公務員あるいはそれに準じるであろう人の働きぶりを、イタリア中部の街で眺めると、こんな基準は立てられていないのかもしれないと思わされる。たとえば有名どころの美術館や博物館。やってきた人に作品を適切に鑑賞してもらうためにやらなければならない仕事がある。セキュリティ、チケット管理、そして作品の展示室での管理、これらいずれも(自分の見方が偏っているかもしれないけれど)、すこぶるルーズである。

まず職務に懸命とはおよそ思われない。同僚とお喋りに熱心で来館者に注意を払っていない。作品を監視する場所では、iPhoneに懸命で来館者を見ていない。何かの弾みでアラーム音が鳴った時に顔を上げる程度で、まあそこにいるという体を超えるものではない。まだ上手く言えないので申し訳ないのだが、「ちゃんと仕事をしてます」モードではないのだ。

これに関連すると思われるけれど、おもてなし心、hospitality を見出すことが難しい。ようこそ、どうぞご覧ください、いかがですか、といった自信に裏付けられた謙虚さと配慮がまず感じられないということだ。マネジメント論などでは、これを支えるのが使命感(mission)と説明をするのだけれど、使命感が少なくとも来館者への奉仕にあるのではない、と感じさせられる。随分と昔、パリのルーブル美術館に行った時も強く感じたけれど、来館者に関わる喜びを大切にしようとは思われていないのだろうか。

職務専念義務やいわゆるサービス精神がどこでもある(あるべきだとされている)わけではない、面白いなあと思わされたことだ。

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by walk41 | 2016-09-24 21:17 | Comments(0)

学校側で予め手を決められない

高校教員と話をする。いわゆる困難校に近い学校に、長らく勤務をしている方だ。

「今年の生徒はこれまでと違うなあ」と職員間で話になったらしい。きくと「学校をさぼったらあかんやんか」と教員に怒られて、素直に謝る生徒、その生徒を指して「それは、あかんやんなあ」と同意する生徒がたくさんいるというのだ。これまでは、それがいけないことだとは、少なくとも態度上は示されては来なかったらしい。

すると、教員の対応も変わってくる。もちろん、教員と生徒の人間関係にも影響があることだろう。「結局、入学してくる生徒によって違ってくる、ってことです」と先の教員は話していたけれど、その通りだろう。どんな生徒が入学してくるかについて、高校側だけで決めることができないという、ある意味で当たり前のことがここでも確かめられるという話だ。相手がわからないのに、「こんな風に進めますって」言うのは無茶、無理って思うでしょう。なんで、自分の首を絞めるようなことをわざわざ言わなあかんの。

なのに、教育委員会あるいは教育センターの一部あるいは(少なくとも、そんなポーズをとる)その賛同者たちは、「年度ごとに各学校で学校の現状を正確に捉えて、これにふさわしい教育計画を立てる」とか「そのためには、PDCAサイクルを適切に回す」と、今なお懸命に主張される。けれど、これらは学校の実際にほとんど合っていない。意地悪に言えば、現実味がない分、「(そうはなっていないけれど)だからこそ、そうしなければならない」といっそう声高に叫ばれるのだろう。

この先生からは大切な指摘もあったよ。それは、「PDCAサイクル論は、右肩あがりの成長を前提にしている」ということ。正鵠を射ていると思う。日本の経済も人口もそうだけれど、いつまでもそんなベクトルが続くはずがない。となれば、こんなサイクル論を喧伝する輩は、過去の日本に対する強いノスタルジーを持った、懐古主義者ということか。いやはや。もっと近未来を見据えた、地に足の着いた議論をしようよ。

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by walk41 | 2016-09-17 13:34 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

義眼

映画「ワルキューレ」(2008)を観た。実在したドイツ将校、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐ほかが企てた、1944年7月のヒトラー暗殺計画を描いたものだ。

いささか着眼が違うのだろうが、私には次のシーンが興味深かった。それは、戦闘で左目を失った同大佐が、普段は黒の眼帯をしているのだが、ヒトラーに面会するあるいは彼が出席する会議では、眼帯を外し、代わりに義眼を取り出してはめていたところだ。

ここに、眼帯で現れることは、目上の人間の前では失礼だという基準のあったことがうかがえる。今で言えば、就職活動で面接に臨む際、黒サングラスを掛けて、あるいは、たとえ風邪を引いていてもマスクをして現れる人がまずいないことと同様だろう。

自分の身体を「普通」に見せることが礼儀という、人間の社会が作り出す、曖昧だけれど、なぜか拘束力を持ってしまう、つまり「自ら進んで従う」(自主的に)ように方向づけるマナー(形式)は、いつの時代も健在なようだ。
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by walk41 | 2016-09-17 10:03 | 身体 | Comments(0)

研究授業

なーんだ。その言葉が何を指すか決めずに進んだがゆえの不幸なのか。

小・中学校を中心に、指定研究なども含めて校内で行われる「校内研究」の途中あるいは「まとめ」(研究発表会)には、必ずといってよいほど、研究授業や公開授業といった時間が設けられる。さて、これらは何を意味しているのだろうか。

たとえば、演奏や演劇といった舞台は、それまでの練習の成果を見せるもので、観客は一回きりかもしれない最高の出来映えを期待してくるものである。「普段どおり」のとか「素のままで」を観たいのでは決してない。定期会員などへのサービスとして、いわば舞台裏を見せる、公開練習といった場合もあるが、それは文字通り練習であって、本番ではない。本番は観客に見せるために行うのであって、観客がいないときと同じようにやられては、観客はたまったものではない。「払った金を返せ」という話だ。

では、研究発表会として行われる授業とは、どういうものだろうか。すると、それがとても不思議なことに気づけるだろう。そう。あの授業は、授業者と児童・生徒以外の人がその場にいて、観ようとしているのにもかかわらず、あたかも彼ら、彼女らがそこにいないかのように、まるで参会者は透明人間かのように扱われている。授業者によっては、「どうぞ机の間を回って下さい」と参会者を促す場合もあるが、それとて、普段の授業という訳にはなかなか行かない。要するに、研究授業というものの位置づけが、まったく中途半端なのだ。

研究授業というものが、「普段着の授業を見せる」という位置づけならば、参会者はちょうど電信柱かのように(街中に立っているけれど、その存在を意識することはほとんどない、という意味で)授業を観なければならない。テレビドラマで観るような警察の取調室が、中からは外が見えないが外からは中が見える、マジックミラーのような部屋で授業するのも一案だろう。

あるいは、これと反対に、研究授業が、これまでの授業者と児童・生徒との練習、葛藤や衝突といった苦労の賜物だというのならば、大いに参会者に見せるべく演出すればよい。なぜ、普段の授業のようなスタイルを取る必要があるだろうか。学芸会や文化祭あるいは体育実演会のようなショー(見せ物)として時間と場を設計するのが望ましい。観た人は、それが普段だとは思わないけれど、ここまでできるんだ、すごいんだということを知り、感じたいのである。いつもこんな発表ができるなど思っておらず(再現性を期待していない)、本番で最高の力が発揮されることを期待しているのだ。

このように整理すると、研究授業の類が「いったい、どんな場なのか」について検討を欠いたままに、「何となく」やっている可能性が示唆される。観に来て下さいと宣伝をしているのに、行ったら、自分たちが観ていないかのような授業をするって、いったいどういうことだろうか、と。

これまでも何度となく、現職教員のみなさんに問いかけている。忙しいというのならば、こんな訳のわからないものをスクラップ、あるいは大幅に変えて新しい風を学校に呼び込みませんかと。なのに、「そう思う」といった応答、あるいは「何を言ってるんだ」という批判のいずれも、なかなか聞こえてこない。

いわずもがな、話は校内研究に留まらない。無批判な、分析を欠いた活動のルーチン化は、学校の他の領域でも見出せることだろう。大幅な世代交代が学校でも進行中なのに、それをチャンスと捉えて新しい学校づくりをいかに志向するかが、大いに問われていると思うのだけれど。
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by walk41 | 2016-09-14 18:27 | ことばのこと | Comments(1)

うさぎ狩り今昔

大阪は天神橋筋の「大阪くらしの今昔展示室」に、昭和20~40年代の「懐かしい遠出の思い出」として、一枚の写真が展示されている。そこに、小学生も参加したウサギ狩りの様子がはっきりと写っているのだ。

そこで、ウサギ狩りをキーワードに検索すると、昔の記憶を語っている人のページが散見される。ウサギ汁を食べた、「棒に四足をくくられた獲物が高々と掲げられると、子どもたちは「エイ、エイ、オー!」と勝どきの声を上げるのでした」といった記述もある。なかなか逞しい。

さて、時代は変わって現在。こんなページに出合った。熊本大学附属小学校の学校行事である。「今年も附属小学校の伝統ある行事『うさぎ狩り』が行われました。網隊と勢子隊に分かれ、先生、児童、保護者が参加し、うさぎ狩りを成功させようと、熱い思いを込めてこの日を迎えました。」(2014.12)とある(http://kumamoto-fuzokusho.com/?p=4436)。ほう、今でもウサギ狩りが行われているのか、と読み進む。

ところがあにはからんや、ページはこう終わっていた。「今年の結果は残念ながらうさぎを保護することはできませんでしたが来年に向けての思いを、後輩たちにしっかり引継いでいけたことと思います。」えー、ウサギ狩りって、ウサギを保護する(一体なにから??)ことだったのかー。

ウサギ狩りって「狩り」なんだから、「保護」とはちゃうやろ、と突っ込んでも仕方がない。ウサギを捕らえて食べる、あるいは増やして食べるために掴まえる、という話とまったく違うことはよくわかった。

学校で扱われる「命を大切に」や「命の教育」というものが、いかに時代に左右される、まあいい加減なものか、一例を見た次第だ。
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by walk41 | 2016-09-13 16:32 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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