学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

<   2016年 10月 ( 25 )   > この月の画像一覧

実践

学校では実践という言葉が飛び交う。いわゆる研究絡みになるといっそうである。実践モデル、実践テーマ、実践を通した検証と。

こう聞くから、従来の枠に留まらないで、広く考えて試みましょう、実践とは実験に他ならないのだから、と話すと、子ども相手に実験はできない、と教員の否定的な表情が返ってくることになる。

改めて、実践practice の語源を引いてみると、こんな感じだった。15世紀始め、"practise"は、「実際の応用、適応、活用」として、本来とりわけ医学、また錬金術、教育にも用いられた、と。

当時の医学、ましてや錬金術であれば、いかにアテにならなかったかが想像できる。どうすれば金を作り出せるのかに関わる、実にあれこれの試みなのだから。

これに倣えば、実践は挑戦であり、「必ずそうなる」とはもとより、「〜すれば、〜になるだろう」という表現さえ憚られるものとわかる。なのに、小・中学校では、決して否定されない「仮説ー検証型」がなお健在で、そうはならない最前線では、研究主任などがいたずらに苦労することになる。だから、せっかく授業に関するマネジメントができるというのに、研究主任に進んで就く人がほぼいないのよ。

実践は、実験、実際にそうなるかどうかはわからない。わからないなりに、どうかなあとやるしかない業務である。このことを改めて確認することで、「こわごわ」と実践する態度の大切さも思い起こすことができるだろう。

[PR]
by walk41 | 2016-10-31 10:38 | ことばのこと | Comments(0)

中学生の語彙

文化祭にて、中学生の発表を観る。いずれもよく準備に励んだ力作だ。

劇やスピーチから聞こえる言葉、もちろん普段遣いではないけれど、こうした語彙も持ち得るんだなあと驚かされた。

曰く、「湯船に浸かる」「モノローグに入ってくる」「邪険にしないで」「陽気なペシミスト」「彷彿とさせる」‥

彼ら/彼女らを頼もしく感じるし、求めればたくさん吸収してくれるのだろうなとも思う。

[PR]
by walk41 | 2016-10-28 09:30 | ことばのこと | Comments(0)

PR

中学か高校で教員から聞いたことを、当時確かめもせず、長らくそう思い込んでいた。

PR(広報)について、ある教員から「これはpropagandaの略記だ」と聞き、なるほどそれでPRなのかと思っていた。これが実はpublic relations の略記だと知ったのは、ずいぶん後のことだ。

複数の検索結果を参照するという態度と能力があればよかったのだけれど、当時はそんな技術もまたそれゆえの行為も伴わず、言われた通りと思ったのが、私にはせいぜいだった。ああ格好悪い。

だから今は思う。いい加減なことを言って、先々、元生徒が恥ずかしい、困惑するようなことは避けようということ、また、そのために、直接教えることとは異次元の知識や理解を、教員は持ち得ていなければならないということ。

子どもに関心や意欲というのならば、教員自らが知識欲や理解欲を先に持たなければ。それなくして、いかに彼ら/彼女らに、新しいことを知るのは楽しいよ、と言えるのだろうか。

[PR]
by walk41 | 2016-10-27 22:44 | ことばのこと | Comments(0)

教育実践は誰がすることなの

教育実践とは不思議な言葉だ。なぜって、実際には児童・生徒がやっているのに、授業者がやっているかのように語られる場合が多いと思うから。

たとえば、計算ドリルをする、漢字の書き取りをする、ペア学習をする、いずれも子どもがすることだ。教員が計算ドリル、漢字の書き取りをする様を子どもに見せて、彼ら/彼女らのお手本とするという訳ではない。生徒たちにすごいなあって言わせて、じゃあ君達も僕のようにやってみよう、という訳ではない。もっとも省力化された場合で言えば、「さあ、やろう」「頑張ろうね」と励ます、意地悪に言えば脅すことで、子どもたちに取り組ませることであり、教員自身が為す余地は少ない。こうしたことを自身の実践と言っていいのだろうか。

教育ー学習はつまるところ、子どもの活動に委ねられざるを得ないのだけれど、だからと言って彼ら/彼女らにやらせることをもって、教育活動と見なすのは、あまり上品とは言えない。問われるべきは、教員自身が何をするかということだ。

だから私は提案する。子どもたちがよく注目し、集中し、あるいは楽しく、はたまた葛藤し、といった活動が活発になるように、授業者はどんなことをするのか。どんな準備をして授業に臨むのか、授業中は何をするのか、そして授業のあとで何を振り返り、評価するのか。そこで問われる教員の動き方、眼差しの注ぎ方、コンパクトな説明の仕方、和やかでかつ緊張感を保つような教室空間と時間をいかにマネジメントするのか。そうした事柄が、教員の実践として問われるし、当の教員も自身のありようとして語ることができるのではないだろうかと。

[PR]
by walk41 | 2016-10-26 21:33 | ことばのこと | Comments(0)

「理想の教師」

学生による授業の感想に、次のようなものがあった。

‥これまでの授業は、教育を語るといつも「理想の教師とは‥」といった夢のある話ばかりだったので、ひと・もの・かねという現実的な視点で見るという発想は、経営に興味のある私にとってとてもおもしろかったです。‥

夢を語ることも大切だろう。けれど、それが現実的な基盤に立脚していないとすれば、夢想、さらには妄想となりかねない。「一糸乱れず組織人として行動する」「いじめは決して許さない」「子どもの学びを適切に見とる」と、言ってもいいけれど、そうならないとダメとまで行ってしまうと、これは無理難題という暴力性を帯びる。そんなんムリやん。

真面目な学生の中には、こうしたムリを「そうでなければならない」と考える君も出てくる。自分をいたずらに苦しめるムリを背負い込むのだ。もっと行きすぎると、この信念を生徒に押し付ける場合もありうる。「クラスの一員として恥ずかしくないのか」「いじめを傍観視するな」「一人ぼっちにさせないようにクラスメイトに声をかけよう」と、子どもたちに「そんな、殺生な」と呟かせる。多少はいいけれど、ちゃんとそうするのは難しいのだ。

労働に就くと、放っておいても仕事に対する信念が生まれる。その上で、対人サービス労働は、相手や状況によって答が多様だから、確固たる信念などは持たない方がむしろいいくらいなのだ。だから、最前線の経験をまだ持たない教員のタマゴには、信念へと煽るような授業ではなく、信念以前に学校がどんな風であるか、また学校に関わる信念がいかに形作られているかを、分析的に扱う授業がより大切と考える。

もちろん、教員養成大学でありながら、どんな授業をするのかの思惑がかくも授業者間で違う、といった現実も踏まえて、教員養成の高度化論も組み立ててほしいしね。


[PR]
by walk41 | 2016-10-25 13:48 | 授業のこと | Comments(0)

溶かす

「闇金ウシジマくん」をwebにて、漫画一巻(無料で読めたので(^^;)とシリーズドラマで見た。銀行はおろか、サラ金からさえ借金のできない人々の物語だ。

そこに、賭博で大損する男の話が出てくるが、50万円負けたことを「50万円を溶かした」と言うのだ。スッカラカンになったから「スった」と言うのはわかるけれど、「溶かした」は、形は無くなったけれどそこにある状態だと思うので、失ったわけではない。砂糖や塩をお湯に溶かしたように。

なのに、「溶かした」という言葉がその世界では市民権を得ているという辺りに、ギャンブルで財を失う人の特徴が伺えるかも、と思った次第だ。

[PR]
by walk41 | 2016-10-23 10:49 | ことばのこと | Comments(0)

教育言語学の構想

事実は言葉を導くけれど、言葉が事実を作り出しもする。

事実が客観的であればあるほど、言葉は厳密に、つまり正確かどうかが確かめられる、と同時に、その意味に即していかに事実があるのかが議論される。これらは自然科学に属する作法である。

これに対して、事実が客観的とは言い切れない、むしろ主観的ですらある場合、言葉は曖昧に遣われ、その言葉がいかに解釈されているかが議論される。これらは人文・社会科学に属した作法だ。

後者のひとつである、教育という領域は、それ自体はっきりと輪郭を描けず、主張者にお任せな部分が多い。たとえば、いじめという問題は教育の領域で扱えるのかどうかわからない。にもかかわらなず、教育を通じていじめをなくそうという考えが生まれ、試みられる(社会の問題は、教育のありようから生じていると見なす教育主義)。これは、教育の領域が曖昧なゆえである。これは、日食現象が解明されていなかった大昔、祈りをもってこの時間を耐えた人々がいたように、今となってはそうしても仕方なかったことを効果あるかのように振る舞うがごとくだ。

あるいは、学力が教育といかに関わっているかも、よくわからないままに学力向上が叫ばれる。学力そのものが定義困難なことに加えて、それは遺伝にもとづくのか、あるいは後天的ではあっても教育の経験によるのか、それとも学習の結果なのかの説明は難しい。こうした事態も、学力という事実が曖昧にしか存在しないにもかかわらず、いかに学力を向上させるのかと話が進められるために生じている。

このように、教育についての議論は、多分に主観的に捉えられている事実とその構成要素や要因を解きほぐし、再解釈することで、いたずらに苦しんでいる、あるいは無意味に喜んでいる当事者にそう考えなくていいんだよ、教育に関わる言葉があたかも実在するかのように捉えるために起こっている「不幸」なんだよ、とも伝えることができる。

たとえば、①いじめは許されないこと、なのに自分のクラスで起こっている。これは担任である自分の力量の問題だ。②生徒の理解度はうなずきからわかる。多くの生徒がうなづいていたさっきの授業では、学びの共同体が成立している。③運動会での組み体操は、子どもたちに達成感を味あわせることができる。多くの保護者もそう思っているから、怪我人が出ようとも注意して続ければいい。これらはいずれも観念の所産である。いじめ、わかる、達成感、どれも客観的に捉えられないのに、あたかも事実かのように見なすことで、だから、許されない、こうすればいい、止めるわけにはいかない、と意思決定がなされがちだ。

こうした事実とそれに関わる判断と行為が倒錯している状態に、教育という領域のお喋りがあるならば、問うべきは「何となく」「それっぽくない」と遣われている言葉を分析し、その効用と限界を明らかにすることだろう。これが、教育領域を対象にした言語学を、遅ればせながら始めてみようかなと思う理由だ。

教員養成の高度化、チーム学校、アクティブラーニング、と造語が続く現在、こんな言葉の海で溺れてしまわないように、「もともと、そんなものはないんだよ」と言えるような作業が大切だろうと、いっそう思わされている。


[PR]
by walk41 | 2016-10-23 10:04 | 研究のこと | Comments(0)

お辞儀して校門をくぐる

土曜日のお昼前、九州のある国立大学法人附属小学校の前を通りかかった。

中堅と思しき女性ー首から名札を掛けているので、おそらくこの学校の職員だろうー、が、校門をくぐる際に、一礼した。前に誰かがいるのかなとも思ったがそうではなく、おそらくは校舎に対して頭を下げたのだ。

学校は重要な知識その他を身につける聖なる場所、と思ってこその振る舞いだとすれば、この地では学校の聖性が息づいているのかもしれない。

見えないけれど、あるはずだと思うことによってこそ可能なこうした振る舞い、公開授業際の教室の出入りに際しても観察できるけれど、とても興味深い。

[PR]
by walk41 | 2016-10-22 14:02 | 身体 | Comments(0)

股のぞき

今年のイグノーベル賞、股のぞきの効果を明らかにした日本の研究者が「知覚賞」を受賞した。面白い研究だと思う。すでに戦前、これに着目した人がいたというが、戦時下、いかに役に立つかが問われたこともあって、あまり知られることなく終わったらしい(朝日新聞、20161021)。

京都で股のぞきと言えば、天橋立。傘松公園の展望台で、股のぞきをして風景を楽しむのは有名だけれど、その時に風景がどのように見えるかについて、逆さまではない時と比較するという発想は、おそらく多くの人になかったのではないかと思う。自分もそこで股のぞきをしたことがあるけれど、自身の知覚を気に留めることなどなかったもの。

見慣れていることだけれど実はそうではないという、研究の着眼は、何かの役に立つかという発想よりも、ただ面白そうだから、ではないだろうか。そこで有用性や効果などを考えているとは、私には思いにくい。

こうした遊び心を伴ってこそ、研究が進むならば、学校での「研究」そして学校に関する研究も、真面目だけではダメと導ける。楽しさ、可笑しさ面白さが、学校教育の領域でも、より求められると考える所以だ。

[PR]
by walk41 | 2016-10-21 14:33 | 研究のこと | Comments(0)

なぜ尋ねないのか

教育論はけっこう不思議なことに彩られている。その一つが、実践という名の行為の結果を、行為を働きかけられた相手に尋ねるのではなく、行為者が見とるという無茶、失礼を承知で言えば茶番を当然のことと見なしていることだ。

第一次産業・第二次産業では、行為の結果が採れた魚の量や使いやすい機械の出来栄えで評価される。自分が頑張ったからいいはずだとか、自分なんていやいや未だ未だ、と言おうが言うまいが、結果を眼前にすると、そうしたコメントは脇へと追いやられる。つまり、結果が第一義で、それ以外の意見や感想は参考程度に過ぎない。

これに対して第三次産業は、対人サービス労働を基本にするので、その業務の妥当性は、顧客の満足から導かれる。教育業務は、第三次産業の一部であるけれど、そもそも児童・生徒を顧客と捉えられるかどうかの時点で論争的、すなわち分からないので、その結果や業務の妥当性については、いわば宙ぶらりんにならざるをえない。

そこでは、第一次・第二次産業のように行為の結果を行為者が全面的に受け止めることができず、かといって、多くの第三次産業に当てはまるように、顧客の満足に評価の拠り所を求めることもできないので、(ここからは私の予想だけれど)なぜか、行為者の評価に委ねて構わないという恣意が強まってしまったのではないだろうか。

かくして、教育労働は、自身が導いた結果によって評価される訳ではなく、また、働きかけた相手に評価を委ねている訳でもない。ちょうどエアポケットのように、結果からも、また相手からも評価されない、なので自分で評価するという構図に収まっているのではないだろうか。

このように整理できるならば、授業をする、これを見る、その後お喋りをするという一連の流れがなぜそうなっているのかを説明できるだろう。授業をした結果がどうなのかを、生徒の様子から正確に把握することは難しい。彼らの出来栄えをどれだけ授業に帰属させられるか、見当がつかないからだ。

とはいえ、彼らの満足や充足感に授業の結果の根拠を見つけることも困難だ。授業で彼らは顧客というよりも、当事者として、より言うならば身内のメンバーとしての役割を求められているからだ。素朴に、授業者である教員を応援したいからそんな様子だったことも十二分にあり得る。「先生に協力したい」と。この反対に(少数だろうが)たとえ「授業を邪魔してやろう」と思われても、授業者にはどうしようもない。どうしようもないことを、授業者の力量や能力として扱われても困る。かくして、関係者の構図が説明されないままに、まあ訳のわからない「授業研究」がまかり通る。

ではどうしたらいいのか。せめて、生徒にきいてほしい。アンケートという名前の紙を介してではなく、聴き取りとして。彼らが授業で何を見つけ、何を感じたのか、なぜあのように振る舞ったのかを、やりとりを通じて尋ねてほしい。それさえも、十分とは言えない、当の生徒すら自分にとってこの授業は何だったのかを掌握できる訳でもないので。

それでも、当の生徒にお構いなしに「あの子は学んでいた」と勝手なラベリングをして悦に入っているよりはましだろう。本人に問いかけることなく、その傍でその人のことをとやかくいう振る舞いが、大人同士ならば失礼千万だということが、なぜか子どもについては適用されない理不尽を、少しでも回避すべきだから。

[PR]
by walk41 | 2016-10-20 17:11 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
名前
at 2017-12-14 10:49
児童がほかの教職員と出会う
at 2017-12-13 06:32
マンションポエム
at 2017-12-11 14:44
鉛筆で遊ぶ
at 2017-12-10 07:39
除籍の不細工さ
at 2017-12-07 18:34
変化にかかる時間の意義
at 2017-12-07 10:09
question, prob..
at 2017-12-06 14:30
「お疲れさまです」
at 2017-12-05 14:30
非標本誤差
at 2017-12-02 20:58
大学の授業の作法
at 2017-12-01 18:45
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧