学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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調べようとしても、また調べたとしても仕方がないのでは

学会にて研究発表とその後の議論を聴く。

今より若い時は、教育政策について研究したいと、何も知らずに思ったこともあるけれど、歴史的に接近するか、あるいはごく表層的な国際比較ならばともかくも、現在の日本の教育政策が、なぜこのようであるのか、それは何に由来し、またこれからどうなるのか、を明らかにしようとすることは、ほとんど意義のないことではないか、と今や強く思う。

こうしたテーマの議論でまま見られるのは、「私もその委員の一人だったんですが」とか「(キーマンと目される人とは)個人的にも知り合いで」といった、より確かでより新しいと思われるニュースソースへの接近ぶりを根拠に、政策や答申の基調を解釈しようとすることだ。身近にそうした知り合いがいるのは結構だけれど、これって魚の研究をしている人が、「以前から懇意にしている魚がいるんだけれど、その君によれば」とか「私も魚の群に混じったことがあるけれど、そのときの実感としては」という話をしていることと同じである。そんなん、どれほどのもんか、わからへんやん。。

そんなお喋りの中で、政策意図を探ろうとしたり、ある方向性を解釈しようとすることは、はたして研究だろうか。また、仮に推測したとおりだったとして、それは再び似たようなことが現れるのだろうか。たまたまその政治家だったから、行政官だったからではないだろうか。政権が変わったり、担当大臣や役人が変わったらどうなるかわからないという余地が大きいのではないだろうか。

かくも漠然としたことを、議事録の読み込みや当事者へのインタビュー調査をとがんばっても、どれほど明らかになることがあるのか、そしてその知見の意義は何なのか。学会ジャーナルに目を通しても、なかなか頭に内容が入ってこなくなったほどに、まずは自分の不勉強がたたっているとも思うけれど、公教育の政策や行政に関する研究の対象と方法、知見の論理化に、あんまり展望がないんとちゃうかなあ、って思わされている。
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by walk41 | 2016-10-08 15:26 | 研究のこと | Comments(0)

教員の受け持ち時間

学会にて興味深い報告を聴いた。教員の受け持ち時間と業務負担感との相関がそれなりに認められる、という趣旨である。

もちろん、受け持ち時間といっても教科による業務量の違いは容易に想定できる。たとえば、事前・事後の準備がより必要な教科とそれほどでもない教科の違いは、大きいだろう。たとえば、生徒のノートチェックや添削などの機会が多い国語や英語の教員と、授業時間でほぼ教育業務が終わる体育や美術の教員の業務量はどうだろうか。くわえて、一回の授業あたりの生徒数についても考えなくてはいけない。たとえば10数人のクラスと40人に近いクラスでは、授業中もさることながら、授業前後の負担もかなり異なるだろう。持ち時間が多いから業務負担感が強いと言ってよいのだろうか。

とまれ、学校教育のより実際に即した研究発表がなされたことは素晴らしいし、こうした報告を一つのきっかけに、教員の労働の実際について量的バラつきや質的違いを踏まえた丁寧な議論が進められることを願う。授業だけでなく、部活動指導、生徒指導、学校行事、地域行事と、学校段階だけでなく、各学校によって異なる。間違っても、「いま学校では‥」と言うべきではない。

さらに難しいのは、ある業務がその教員に及ぼす負荷やしんどさに幅がある点だ。ある教員は部活動指導が嫌で仕方がないが、別の教員は放課後を心待ちにすらしている。客観的な従事時間と主観的な満足感が負に相関するわけでは必ずしもない。こうした主観というフィルターを通して教育業務がなされていることを踏まえれば、それぞれの教員が持っている意味世界への接近が不可欠になる。

「やらされ仕事」は辛いが、趣味に類する仕事は楽しい。教員がどのように仕事をしているのか、と同時に、彼ら彼女らがどのように受け止めているのか、を知ること。対人サービル労働の一つである教育労働がもつ特性をより明らかにする必要をより感じている。

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by walk41 | 2016-10-08 10:20 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

問題は、叱るか否かではない

朝日新聞の投書欄の下の方に、読者からの投書に対する投書がときどき紹介される。9月下旬に載ったテーマは、「私たちを叱ってほしい」という中学生からの投書に対するものだった。

①叱るより考えさせる、②叱っているように見えていなくても本気で叱っている、あるいは、③生徒同士で注意し合ってはどうか、はたまた、④叱ることのできない教師は失格、さらには、⑤研究者という人物からの、叱られる経験が大切と、バランスを考えているとはいえ、③を除くと、まあお粗末なものと私は読んだ。

何故そう思うか、それは、いずれの立場も、教師が叱ればその意味を持つ行為になると疑っていないからである。こうした姿勢や能力が、いかにものを考えずに教師が仕事をしているかを示す点で、嘆くべきだと思うからだ。

教師が生徒に向かって叱るという行為を起こす。もちろん教師にとっては叱っていることになる。けれど、対する生徒にとってはどうだろうか。自分たちが納得できないことで何か怒っている、家庭でのストレスを自分たちに発散しているだけ、と思われない保証はない。さらに最初の投書の主は、授業中に叱るべきと書いている。授業に集中していた生徒は、教師の叱るという行為をどのように受け止めるだろうか.自分は関係ないのに嫌な雰囲気の場にいさせられる、授業が進まず困る、といった気持ちが起こるのではないだろうか。叱られる生徒も、その内容よりも恥ずかしい思いをさせられたという怒りだけ残るのではないだろうか。叱られるべき生徒にも、その他の生徒にも、叱るという行為が教師の思惑どおりに伝わらないリスクがけっこう伴う。さらには、生徒によって叱れる、叱れないの違いをつけることはないだろうか。えこひいきだと言われるリスクも考慮されているだろうか。

こうした、ある行為の妥当性、さらには効果や効率を度外視して、「叱るべきときは叱らなければならない」と、まま行為は行われる。そこに計画性も評価指標もない。その場で、叱るべき状況だと認識して、叱るという行為を選択する、それがたとえ非合理的(叱ることで期待できる効果が見込めるわけではない、叱るという資源の投入と授業が静まるという得られる利益とのバランスはわからない)であっても行われる点で、教育実践というものは瞬間に大きなことを決めなければならない博打のようでもある。そこにPDCAサイクルなど、ありようもない。

だから、ある教師がなぜ叱るべき状況だと認識するのか、次にいま叱ろうと判断するのか、そして実際に叱るという行動を取るのか、を分析することが重要なのに、そうした面倒くさいことを飛ばして、「まず実践だ」「考えているだけでは机上の空論だ」といった乱暴な発想が幅を利かす。知的退廃である。

投書に戻ろう。議論すべきはもっとメタ的なこと、たとえば、①生徒がうるさいのは、教師の力量が低いからではないか。②静かに聴かなければいけない授業とはアクティブ・ラーニングに適っていないのではないか、③教師は叱っているつもりが、生徒にはどのように届いているか、④ある状況に対して叱るという選択をする教師の価値観やその閾値とはどのようなものか、を考察し、議論することである。

「叱る教師でなければならない」といった、元気の過ぎる一部の教師を煽るような語りは、「よりよい」教育-学習関係上、邪魔に他ならない。生産的な議論とは、事実に対する自身の信念の発露ではなく、それはどんな問題かを拡げ、深める、事実の分解と再構成に向けた姿勢と能力によって進められる、と心すべきだろう。
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by walk41 | 2016-10-07 12:06 | コミュニケーション | Comments(0)

誰もやっていないことを

大隅良典さんという方が、ノーベル医学・生理学賞を受けられた。NHK朝のニュースに出演された同氏が語る。「誰もやっていないことをやるのがサイエンスの本質」と。

いつもの話題で恐縮だが、またも思わされる。「こんな風に授業をしたら、こんな風に子どもがなるだろう」といった、予め見通すことができるような、しかも何より「まあ、そうじゃないの?」と常識に類するようなものしか扱わないのは研究ではない、と。なのに、学校では、校内研究や授業研究と、研究という言葉が振りかざされている。じゃあ、学校業界でいう研究ってどういうこと? 

大隅さんは次のようにも仰っている。…サイエンスは「どこに向かっているか」が分からないのが楽しいところで、そういうのが許される社会的な余裕が必要と思う。「これをやったら必ずいい成果につながる」というのは、サイエンスの分野では難しい…と。基礎研究を軽視する風潮への警鐘であるとともに、わからないことに挑戦する勇気を持つべきとのエールとも私は聞いた。翻って学校業界は、「子ども相手に実験はできない」と、毎日の自分たちの試みが実験の一つでもあることを忘れて、チャレンジを忌避する。なぜだろうか。

新しい授業を創り出そうとしない、予想が覆されることを怖がる教員が、生徒に向かっては「自発的、積極的であれ」と鼓舞する矛盾。かといって、研究という言葉を手放そうともしない「ええかっこしい」。学校教育をどのようにしていきたいのか、これは為政者や行政官にだけに問われることではないだろう。
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by walk41 | 2016-10-04 07:29 | 研究のこと | Comments(0)

専業主婦

世に専業主婦という立場がある。もっぱら主婦に従事している人のことだ。ところが、主婦というのは、どういう仕事かと改めて訊かれると、全く曖昧なことに気づける。

言葉から考えるといささか屋上奥を重ねる感がある。主婦そのものが婦人の仕事にもっぱら従事している人を指すなのだから、その専業っていったい?。専業ではない主婦、いわば兼業主婦という言葉は、市民権を得ているだろうか。

主婦が専業か兼業かに関わって、そもそも家事とは何かという問いが成り立つ。今でもそういう学科があるだろうか。家政という言葉である。家の政(まつりごと)を仕切る立場を指してだろう。

ところが現在、家に関わる出来事は、ことごとく外注(アウトソーシング)されている。食事は外食、中食で間に合うことが多いし、衣服はまず既製品、自分で作る人は圧倒的に少数派だろう、さらには住居。自分で建てる人はゼロに近く、建売住宅でないにしても建材を自分で用意する人は少ない。かくして、家政という言葉はもはや死語に近い。

だとすれば、専業でやらなければならない「主婦」はいないことになり、衣食住については、簡単な掃除、外食と中食除く食事、DIYの日曜大工が残るくらいである。そこに登場するのが、子どもを教育するという仕事で、ここに教育のための家族、「教育家族」が成立する。

ところがこれもまた、塾や習い事に外注している場合も少なくない。はたして、専業主婦(主夫でも同じだが)は、これから何を担う立場ということになるだろうか。


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by walk41 | 2016-10-02 23:20 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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