学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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絆は要らない

読売新聞の編集後記(20170130)を読んだ。自殺で亡くなる人の少ない地域の共通点は何かと探した精神科医の発見を記している。それは「疎にして多」なのだとか。「お付き合いはあいさつ程度で、マイペース。でも、みんな顔見知りで孤立は起きにくい。」

翻って、3.11東日本大震災以降、あるいは大きな災害が起こると強調される「絆」。改めて辞書を引くと、こうある。「1.人と人との断つことのできないつながり。離れがたい結びつき。「夫婦の絆」、2 馬などの動物をつないでおく綱。」(goo国語辞書)

いささか意地悪に取れば、絆とは逃げ出したくても逃げられない綱とも言える。嫌だけれど解き放てない、親子・親戚関係、夫婦関係、友人関係、職場の人間関係…。そこに、諦め、長いものに巻かれろ、お山の大将(小天皇)、いじめという同化と排斥が起こる。絆ってそんなにいいもの?

濃口ー薄口の喩えも遣われるけれど、つまるところ、ほどほどの強さ、弱さが心地よいのだろう。絆を求めすぎると拘束に近づくし、かといって何のつながりもなければ孤立になる。

だから、「つながりが大切」「社会関係資本が有効」と一面だけを述べないこと、「つながらないことも大切」「社会関係資本には負債も含まれる」と合わせて考えること、そんな認識上の力が大切になる。「わかりやすい話」ばかり流されないこと、それは姿勢であると同時に鍛え上げられるべき能力と心得るべきではないだろうか。

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by walk41 | 2017-01-31 08:39 | ことばのこと | Comments(0)

「いじめ担当専門職員」を配置せよ

学校におけるいじめの防止、対応について議論が喧しい。昨年末の会議では、文部科学省の官僚が「部活、教育相談よりも、いじめ対応を最優先してほしい」旨の発言をしたとも聞く。

いじめに限らないが、問題が起こるたびに、しっかりやれ、と檄を飛ばすのは、およそ科学的ではない。従来は手薄だったところに手を掛けなければならない、というのであれば、主に人的資源を新たに投入することは当然だからだ。部活、教育相談をなおざりにしていい、という意味ではなく、部活、教育相談も、そしていじめ問題にも対応せよというのである。

そんなマルチタスクをこなせる人は多くないだろう。世の中で働いている人の60人に1人くらいが教員、という社会的水準に適った話をしてもらわなければ、絵に描いた餅にすぎない。スーパーマンは教職になかなかいないのだ。

ならば、いじめ問題をもっぱら担当するスタッフを「チーム学校」の一員として揃えればいい。授業を持たず、学級担任でもなく、部活も担当せず、進路指導も担わない新たな職員を全校に配置し、朝から夕方まで「いじめはないか」と学校内外を歩きまわるのだ。児童・生徒から「いじめられたと感じた」と訴えがあれば、即、事実を確かめ、校長ほか執行部に連絡をとって対応する。一校に一人配置として、小学校、中学校、高校ほか、初等・中等教育学校の学校数分、およそ36000人の雇用も生み出せる。

常勤職員として設計すれば、時給1500円で、一人あたり年に500万円、合わせて1800億円の予算を計上する。「どんな小さないじめも見逃さない」のであれば、このコストは高いとは言えないだろう。

こんな青写真なしに、もし議論がなされているのならば、今いる教員の多忙をより強めることになる。これは、現有資源のいたずらな消耗であり、事態をより悪化させる。こんな方向をマクロな経営を担当する者が示してよいのだろうか。課題が増えればマンパワーがより必要、現有スタッフがサボっていると認知しているのでなければ、この方向しか残らない。それとも、何かいいアイディアがあるだろうか。







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by walk41 | 2017-01-30 17:25 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「正しい書き順」

もう5年近く前に書いた拙ブログに目を留めて下さった方がおられ、次のようなコメントを頂戴した。

…昨日子供の授業参観で、まさに分数の授業中に書き順の指摘があり、モヤモヤしました。
黒板で分数の計算式を書いてる子が分母、線、分子の順で書くと、担任が書き順が違うと書き直させていて。
正しいのは線、分母、分子の順って教えてるだろう、と全員に書き順を言わせながら空書きさせるほどの徹底ぶりが意味不明で…。

40代と思しき教員が、小学生に向かって「~て教えてるだろう」と言うのもお上品ではないが、「正しい」とされることを疑っていない様子にも落胆させられる。今の流行りに乗れば、批判的、分析的であることを求めるアクティブ・ラーニングにも適っていないよ。

そこで、文部科学省のWebページで、現行の小学校学習指導要領と学習指導要領解説 算数編を眺めるが、どうも「正しい書き順」について述べている箇所が見つからない(見落としているのだろうか)。そこで、教科書会社のガイドをと探すと、東京書籍のページ(https://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/e/sansu.html)に、次のような一文があった。

…これらの表記は,前後の数や記号とのバランスが悪く読みづらいことに加え,「(2+3)が分母なのか」,「(2+2)が分子なのか」といった混乱を生じさせることにもつながります。
 以上のことから,中の線を最初に書く[3]の書き順であれば,[1]や[2]と比べて前後の数や記号などとのバランスを考えやすく,かつ誤解も生じにくいと考え,[3]の書き順を示すことにしました。…

これは、3つの書き順を挙げて、うち2つが適切ではないとし、[3]の書き順、つまり、①中の線、②分母、③分子、の順がよいとするものである。ただし、同ページでは次のようにも書かれている。

…繰り返しになりますが,上記に紹介いたしました筆順のいずれも,正式なルールはありませんので,学級や児童の実態に応じて柔軟な取り扱いをすることが肝要かと考えます。…

以上、「法的拘束力がある」とする学習指導要領、法的拘束力の有無が論点になっていない学習指導要領解説、に示されておらず、教科書会社による説明には「柔軟な取り扱いをすることが肝要かと」とあるようなものが、「正しい」書き順のおおよそである。ならば、「これが正しい」と声を上げるほどのものではない。

けれど、悲しいかな、教員の中には「何が正しいのか、はっきりしてもらわないと困る」「しっかりとした基準・規準を示してほしい」と声が挙がるのだ。「生活科」「総合的な学習の時間」の導入も同じく、自分たちでどうするかをまず考えるところから、なかなか始まらない、なぜだか。

それでもなお、次のような声が聞こえることだろう。「いろいろな答えはあるだろうけれど、基礎・基本がとくに小学校の時は大事ではないのか」と。確かに、基礎・基本は大事だろう、けれど、それは即、正しい、という訳ではない。

基礎・基本で押さえるべきは、「今のところは、一応こういうことになっているけれど、日々、新しいことがわかるし、それはこれまでのことが間違っていたということにもなる。だから、とりあえず、だいたい、こんな感じと思って知っておくこと、できるようになることが大切だよ」と伝えることである。「正しい」をあまりに強調すると、大きくは「聖戦と教えられていたけれど、実は侵略戦争だった」というくらいのショックを与えることにもなりかねない。

ほどほどに、およそその辺りと伝えることに、何か困ることがあるのだろうか。「それでは、ちゃんと評価できない」という方もいるだろうけれど、そこにこそ、「教える-学ぶ」の専門性が問われる。「これでいいんじゃないかな」「それは、ちょっとまずいかな」と判断を下せること、そんな能力を個々の教員がより高めていくことこそ、職務上でも求められることではないだろうか。「~にもあるように」「~先生が言うように」と、虎の威を借りるのではなく。
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by walk41 | 2017-01-29 10:56 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

もうちょっと丁寧に考えてみ

お喋りが乱暴で、自分のことを含めて考えてない人がここにもいはるなあと、すこぶる残念に思う。教育文化総合研究所『教育と文化』第86号、2017、にある一連の発言を読んだ感想だ。

「ゆとり教育」について二人で議論しているのだが、その一人がこんなことを述べている。「教えていいんですよ。ただ。出来なければいけないと強制するのは違うということですよね。学習権とは、権利なので、本人次第ということになるわけです。」、「結局子どもに勉強するように命令しているわけですよね。むしろ、字が読めず計算ができないと生活がとてもむずかしくなって、また、権利も十分に保障されないことが起こるという仕組みになってしまっていることを問題にしなければいけないと思います」、「権利なのだから、本来は「落ちこぼれ」という概念などないはず。」(同上、pp.14-15)

この研究所の所長、中央大学教員で池田賢一という人の言だが、頭でっかち(空想的)なんもたいがいにしいや。この研究所、こんな人をヘッドに据えて大丈夫かしら。

確かに、教育という行為が、その対象に暴力的であることは認めなければならない。日本の領土に生まれ落ちたら多くは有無を言わさず日本語を獲得するように仕向けられるし、いわゆる日本的な習慣に馴染むことも余儀なくされる。というのも、赤ちゃんに向かって「世界にはいろいろな言葉があるけれど、君はどの言葉を学びたいかな。あんまりたくさんだと困るんだけれど」とか、「ここでは頭を下げるのが挨拶の基本だけれど、君はハグの方が好きかな」などと、尋ねることはないからだ。当人の意志を顧慮しないで、いわば一方的に与えられるのが、少なくとも最初の頃の社会化であることは間違いない。

問題は、それが暴力的で望ましくないとしても、じゃあこんな他の方法があると主張できるか否かである。赤ちゃんに尋ねる訳にはいかず、というのも尋ねても答えは返ってこないだろうし、そもそも、何語で尋ねるというのか。ある言語を選んだ時点で、強制的であることは避けられない。もっと遡れば、出生、誕生ということさえ、当人の希望を事前にたずねた訳ではない。”I was born"と受身的であることを、誰もが逃れられないのだ。この世に生まれたこと自体が暴力的と言えなくもない。

では、暴力的な性格をなくして、主体本意に考えるとはどういうことだろうか。「権利なので、本人次第」とは、いくつから成り立つことなのか。これについて何の説明もないから、現実離れした話になる。小学校1年生になる頃、6歳くらいなら、権利の行使ができると言うのだろうか。ならば、「14歳に満たない者の行為は、罰しない」(刑法、第41条)について、本人の主体性をないがしろにしていると怒らなければならないね。「男は、18歳に、女は、16歳にならなければ、婚姻をすることができない。」(民法、第731条)も、とんでもないことだ。そんなことは自分で決めればよろしいって。でもそれは、主体性を担保することになるだろうか。

あるいは、こうも突っ込める。「教えていいんですよ」と宣うが、ちゃんと教えたかどうかはどのように確かめるのだろうか。教えを前にした人が「わからない」と反応したとき、それは当人の問題なのか、それとも教えたつもりだが、実はそうではなかった、教えてはいなかったゆえなのかを、どう識別するのだろうか。

実際にはその識別ができない。だから、ちゃんと教えたならば、ちゃんとわかる、できるはず、わかっていないのは多分に教え方に問題がある、というモデルを教育-学習論で採用しているのだ。いい加減な教え方をして、相手がわからない、という状況は容易に想像できるだろうに、この御仁は「わからないのは、本人次第、それも権利の一つだ」と言うのだろう。そんなことを主張してたら、手抜きの授業が横行するよ。だって「わからない」と思うのは、本人の判断の結果なのだから。この人、大学でちゃんと教えているのだろうか。

まだあるよ。「出来なければいけないと強制するのは違う」と、どんな現実を見てものを言っているのだろうか。学校教育法以下には、校長が進級や卒業を認定すると定められているにもかかわらず、それはあくまでも建前のみ。ここまでできなければと強制された例など、どこにあるというのか。強制することがちゃんと機能してたら「分数のできない大学生」など生まれないよ。はあ。

はたまた、権利や主体性についても、現在の意味だけでなく、時間的・空間的な条件に伴う違いなどを理解してこそ、主体的な人間たりうるということを、全く等閑視している。たとえば、「そう僕が思うから、それでいいんだ」という人は、自由な人と見なしてよいのか。あるいは、「みんなが持ってるスマホだから私も持って当たり前」と思うことは、主体的な選択なのか。これらに悩んでこそ、権利の行使主体だと見なすのならば、いわゆる教養が不可欠である。そしてそれは、自分が知らないなあ、わかっていないなあと恥じたり、劣等感を感じる中で、それを克服しようと勉強することでも獲得される。気がついたら、外国語が読めていた、知らないうちに難解な原語や訳語を理解していた、など夢想である。

振り返れば、それなりに大変だったけれど、楽しくもあったなあと思いだしてもらえるように、児童・生徒に臨むこと、これこそ「教える」立場の矜持だろう。ありもしない主体性を勝手に想定して、それを踏まえないからいけない、命令はダメ、ハードルを設けるのはいけない、文字が読めないと不自由な社会こそ問題、とあまりにシンプルに考えるようになるのは何故だろうか。人間って本当に不思議だなあ。
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by walk41 | 2017-01-27 21:53 | 研究のこと | Comments(0)

自己開示の機会としての研修

中学校の管理職の方々に、講演という名前の小さな会を持った。「新鮮だった」「楽しかった」とお褒めの言葉を頂戴したが、私自身に気づくことがあり、勉強になった。

それは、教員研修を自己開示(self disclosure)の機会と捉えることがより大切だということだ。つまり、彼ら/彼女らにより話をさせ、他の教員とやりとりをさせることを通じて、自身を開示させ、遠慮のもとでの、同意、承認、共感、笑い、そしてできれば賞賛される時間を提供することが、おそらくは何よりも、教員を元気づけ、明日からの学校での勤務を応援するものになるだろうということである。

これまで、説教やいたずらな鼓舞が教員をゲンナリさせ、意欲を奪う機会にこそなれ、さあ頑張ろうとはなりにくい点は指摘してきた。けれど、まず経験を語ることのできること、つぎに相対化により気づくこと、さらになるほどと思えるときのお喋りは、顔が上がり、目も明るさを増し、意欲的なムードを醸し出す。そうしたエンパワーメントの機会を研修が提供できるならば、そこで求められるのは、企画者や講師の「問い」に関わる力だ。

ともすれば当たり前に見えがちなことに疑問を投げかける。「このことをどう捉えればいいのだろうか」「これまでの見方は妥当か」と、既存の理解にゆらぎを与える。そして、部分的な自己否定を含みながらも、「そんなことを考えたことがなかった」「目から鱗が落ちた」と感じさせるような、新しい角度からの投げかけ、その方向での上手な道案内、厳しさを伴いながらも楽しげな雰囲気づくり、笑いでの終わり、といった流れが重要ではないだろうか。

いささか我田引水の感もあるが、楽しい研修とは、別に冗談や小ネタを披露することではない。参加者(受講者ではなく)が、自身の身体の解きほぐされるのを感じるような、柔らかく暖かな「空気」を生み出し、そこで自身を見つめ、問い返させること、そんな自己開示へと誘う能力が、研修担当者に求められるように思う。
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by walk41 | 2017-01-27 17:43 | 研修のこと | Comments(0)

いろいろな「いじめ」

いじめ防止対策推進法(2013年)の制定後、以前にも増して、「いじめ」は敏感に追われるべきテーマとなり、重大事案が発生するといじめはなかったかと尋ねることがパターン化されるほどに、頻繁に見聞きする状況になっている。

さて先日の授業にて、教員と生徒との葛藤を取り上げた時に、対教師暴力だけでなく、対生徒へのナイフでの傷害事件がかつてあったことを思いだした。wikipediaを繰ると、1983年の東京、町田市内の中学校でのことである。

今回改めて知ったのだが、加害者となった30代の男性教員は、広島で被爆した経験があり、疲れやすかったこともあって、今風に言えば「やんちゃな」生徒の格好の標的にされていた。逃げる教員が生徒に追いかけられる場面も一度ならずあったらしく、この教員は護身用に果物ナイフを持っていたのだという。事実、生徒を刺したこの事件後、同教員は諭旨退職とはなったものの、正当防衛が認められ、無罪になっている。

この説明の通りならば、事案は間違いなく教員に対する「いじめ」であり、教員の人間としての尊厳を保持するために、抑止されなければならない。昨今、福島原発の事故から避難してきた児童・生徒の名前に「菌」をつけた「いじめ」が厳しく指弾されるように、原子爆弾による被害を受けた人に対して「原爆病」「ゲンバク」「ヒバクシャ」などとからかったのであれば、決して許されることではないだろう。

ところが、上記のいじめ防止対策推進法には、第二条に「この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう」と定義しており、児童・生徒が児童・生徒に対して行う行為のみが対象とされている。つまり、児童・生徒が教員に対して行う「いじめ」は対象ではない、そうした事態が想定されていないのだ。

忠生中学校の事件から30年後、「いじめ」という言葉は生き続けているものの、その指すところは決して同じではない。ある意味でわずか30年なのに、人々の忘却とは怖ろしいほどに著しいものである。同事件の教員は、この法律をどんな風に見ているだろうか。
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by walk41 | 2017-01-25 13:40 | ことばのこと | Comments(0)

「すごいね」

大学院生と話す。教員の威信の話になった際、この春から教職に就く彼女らに、どのように見られていると思うかを尋ねたところ、「すごいね」と返ってきたと、同様に話したのだ。

さて、この「すごいね」は、難関を突破したことに対する賞賛の意味ではないらしい。そうではなくて、モンスター保護者もいるとも聞く、部活動などで休日も乏しい、色々な子どもへの対応に追われるといった、いわばブラックな職場に身を投じると決めたことへの驚きだというのだ。ああ、そうなのか。

うち一人の院生は、「憐れむような視線を感じた」とも話した。だから、「すごいね」は、「自分にはとてもできないけれど」という感心を含む同情でもあるのだろう。もちろん、違う見方もあった。こちらは男性の学生だが、自分の故郷では、先生に対する尊敬の度合いは(まだ)高いとも聞いた。地域差も考慮する必要はあるだろう。

職業に貴賎はないという一方、「より良い仕事」と思われることは、リクルートメントの上でも優れて重要なことだ。かたや、あれもこれもと教員に求めつつ、その社会的眼差しが望ましいものではないとするならば、職場はブラック化する。より優秀な人物を教職に誘うための条件が、いっそう求められていると思う。
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by walk41 | 2017-01-24 22:26 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「他人の気持ちを考えなさい」

NHK朝のニュース、ロボット研究者である石黒浩さんの話が興味深かった。

子どもの頃に「他人の気持ちを考えなさい」と大人に言われたとき、他人、気持ち、考える、ってどういうことだろうと疑問に思ったのだと言う。

たとえば、気持ちとはどういうものだろう。それはどう捕まえることができるのだろう。あるいは、考えるってどういうこと、考えていることと考えていないことの違いは何か、ってあなたは答えられるだろうか。

そんな不思議さを大切にして、自分を自分で見たらどう見えるんだろうと、アンドロイドロボットを作ったのだとか。

教育の世界では、「わかりやすい授業」とか「わかる喜び」と、わかることへの慎重さとか、さらに言えば恐れ/畏れといったものが驚くほど軽視されており、さながら「わかる万歳教」の様相を呈しているが、はたしてわかるとはそれほど簡単なことなのだろうか、また、わかることはそれほど良いことなのだろうか。

わかるとは、分けるでもあるから、ある基準(format, frame, schema, reference,paradigmなど)に合わせて分類することだ。「男だから、女だから」「子どもだから、大人だから」「国民だから、外国人だから」「平日だから、日曜だから」「正しいか、間違っているかだから」と、二分法ほか、わかりやすいモデルにしたがって、実は容易には分けられないことをどこかに埋め込むように分類する。だから、わかりやすい説明は、人々を惹きつけ、そして判断を誤らせる。「敵か、味方か」「神か、悪魔か」とこれまでも多くの誤りがなされてきた。

いろいろな世界を見せることは大切だと思う。けれど、そのことが即、わかるにつながらなくてもいいのではないだろうか。「わかったような物言い」とか「わかったふり」といった、否定的な表現もある。わかるとはそんなに即席ではないだろう。「なぜかわからないけれど、とりあえずそうなっているんだ」とか「へえ、なぜこれを「正しい」って決めてるんだろうか」と疑問を抱きながら、世の中を眺めることも優れて重要ではないか、と氏の語りを聴いて思わされた。
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by walk41 | 2017-01-23 09:59 | 研究のこと | Comments(0)

再現性

朝日新聞Webronza で、危機に直面する科学研究の「再現性」を読んだ(20170120)。

「科学研究における「再現性」は、その研究が科学である条件の1つである。論文に書かれていることと同じ材料(対象)を用意し、論文に書かれている方法で実験を実施することを「再現実験」または「追試」という。この再現実験を行って、論文に書かれているものと同じ結果が出なければ、その研究は科学的な価値がないということになる。」(同上、粥川準二) これが再現性を考える際の基本だ。

ところが、STAP細胞はじめ、報告された研究を追試しても、再現されない場合が少なくないという。心理学もその対象になっているが、「2015年8月、270人もの研究者からなるチームは、2008年に有力なジャーナル(学術雑誌)で発表された心理学分野の論文100本で報告された研究の再現を試みたところ、同じ結果が得られたのは36パーセントに過ぎなかったと報告した。ただしこの結果には別の心理学者らから反論があった。」(同上)とのこと。仮に3分の1程度の再現性を指して、アテがないと言ってよいかどうかも意見の分かれるところだろうが、「こうだ」と確信するのに十分とは決して見なせない。

翻って、教育学は心理学以上に研究条件を統制できないから、知見そのものを整えることすら覚束ない。私が「~すれば、~になる」と授業について言えない(生徒指導についても同様だ)、だから、既存の多くの校内研究はナンセンスだと吠え続けているのも、教育や学習に関わる出来事を、規則的、ましてや法則的と捉えようとすることに、もともと無理があるからに他ならない。

その分野で適用することは無理なのに、そうある「べき」、そうで「なければならない」と、当為論、説教や鼓舞が跋扈するから、素直な人は「そうなんだ。なのにそうならないのは、自分の力量が低いせいだ。もっと励まなければ」と大いなる勘違いをする。不幸なことである。

教育や学習に関わる事実は、その反対だ。そもそも再現されない、事実の仕掛けや由来を説明できないから、実際にもそうならない(この意味では、「再現されないという再現性はある」とも言える)のに、これを逆立ちして捉える、すなわち、説明できるはず、なのに説明できない、それは自分がいけないから、と自責の念にかられてしまう。そんなアホなこと、やめとき。もったない。

だから、なんとか大学教授とか国立なんとか研究所所員とかの肩書きで、しかも相手が反論できない講話や講義という条件のもとに、説教やいたずらな励ましを行うのは、不誠実であり、倫理にもとる(M.Weber『職業としての学問』)。ホンマにあんた、ものを考えて喋ってるか、って突っ込まなければならない。

折しも、文部科学省が組織的に天下りを行っており、前高等教育局長が早稲田大学教授に就任したほか、数十件の違法行為を行っていたと明るみになっている。なんとかの通知とかなんとかが求められている、と「べき論」を繰り返す中で、自分がエライと思うようになると、こうした過ちを犯しやすいとは暴論だろうか。

科学とは事実を明確に普遍的なものとして説明すること、だから、教育学は科学ではない。では、そこでの学問的営為とは何か。私は、解釈学として、多面的な捉え方を「新しい発見」として発表し、従来とは異なる見方によって、教育と学習に関わる人々を「楽にする」「楽しくする」ことだと考える。その目指すところは、「そうか、必ずしも今まで思ってたように考えなくてもいいんや」、「そんな見方ができるんやったら、こんなこともやってみれるなあ」と、当事者を元気づけ、新しい実践へと誘うことである。説教を聞いて、元気になる人は少ない。それぞれに宿っている力をより引き出すために、価値観、論理を組み直して、多様な行為ができるように勇気づけること、そうした責務が人文・社会系学問の担いうることではないだろうか。
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by walk41 | 2017-01-21 10:33 | 研究のこと | Comments(0)

給食のカレーライス

ある学校に伺った際、お昼を前後したので給食を頂戴することになった。出されたのは、カレーライス、人気定番のメニューだろう。

さて、ご馳走になろうとすると、随行してくれていた指導主事が、カレーのルーが入っている器にご飯を入れはじめた。おそらく普通は、ご飯の器にカレーのルーを注ぐかと思うので、なぜそうするのですかと尋ねると、次のような答えが返ってきたのだ。

「この頃は食洗機もあるので、あまり気にしなくてもいいんですが、こうすると、カレーのルーの汚れが1つの食器だけで済みますよね。手で洗う場合には、負担が減るかなと。」

なるほど。ご飯の器にルーを注ぐと、もともとルーが入っていた器とあわせて、2つの食器が強い目に汚れることになる。これは、食器を洗う人の負担をより増やすことになるから、できれば避けたいという配慮のゆえなんだなあ。

とくに目立つことではないけれど、何げなく優しさが含まれている所作って格好いいなと思わされた次第だ。
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by walk41 | 2017-01-20 21:23 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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