学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

<   2017年 04月 ( 21 )   > この月の画像一覧

教員の振る舞い

諏訪哲二『生徒たちには言えないこと-教師の矜持とは何か?』(中公新書ラクレ、2012)に、次の一文がある。

「教師は対生徒という『現実』のなかに生きている。そこでも言葉は多用されるが、言葉以上に目の動きや身体の動きや、ちょっとした生徒とのやりとりや会話、生徒への向き合い方、関係のつくり方が重要なのである。そういうとき、言葉では糊塗し切れない、その教師の本質が出てしまう。つまり、教師は生徒にさらされてしまう。いくら学校の事態をクールに把握していても、教師としてダメな人がいるし、ものすごく狭い人間観や社会観を持っていても、影響力絶大な人もいる。学校の『現実』とはそういうものである。認識がすぐれていることと教師としての『現実』がすぐれていることはつながらない」(34ページ)。

私の今の関心である、非言語の点について言えば、「学校で文書化、言語化されていない部分、されにくい部分については、教員の癖、好み、信念が発現しやすい」と、この文章は述べていると思う。

文書化されたものは建前として繰り返し現れるけれど(今なら、「主体的・対話的な深い学び」が一例だ)、これが児童・生徒に伝わるものではまずないだろう。そもそも教員にどのように伝わるのだろうか。まず、どれだけ学習指導要領を読んでも、伝達講習会に参加しても、最終的に具体化されるのは、教員の行為、振る舞いにおいてだから、そこに各教員による再構成が行われ、その際に「こういうものだろう」という感覚的、感性、情緒的なものが滑り込むから、どの教員も同じように捉える訳ではない。

つぎに、その教員が自身の身体を通じて、つまり、それぞれの身振り、手振り、目の動き、口調、動線、服装や身だしなみなどを通じて、教育行為という動作を表現するのだから、そのいかんは、まさに教員そのものとして、児童・生徒から見られることになる。

そこで、生徒たちに見透かされるような状態、たとえば、自分なりに十分には捉えておらず表層的だった場合、あるいは自分の好みや偏りをもって捉えている場合、全ての生徒によってではないだろうが、いずれもまさに晒されることになる。

この状況に教員は耐えられるだろうか。不安を感じる教員は、建前に終始して自分の本音を見せないように努める。あるいは、自信たっぷりな教員は、「それは違うだろう」という目線をものともせず、雄弁に振る舞う。いずれであれ、各教員の裁量に委ねられざるを得ない。

公教育の最前線で起こっているのは、このように個々に任された業務遂行であり、そこには本人も意識的ない部分を相当に含む。アテのないものだということ、そして、だからこそ、質保証や説明責任という言葉に脅かされて、基準化された官僚的な言動がより求められるようになっている、と導ける。
[PR]
by walk41 | 2017-04-29 12:14 | 身体 | Comments(0)

面接と非言語

学生と非言語におけるメッセージ性について話をする。

そこでは、受信と発信のいずれについても、言語メッセージと比べて、①解釈の幅が広く、しかも時間的・空間的(時代的・地域的)にも異なる場合が多いこと、②その幅の広さは、相手の存在の有無(必ずしも、伝えたいメッセージとは限らない)にも該当すること、を述べた。が、この続きで、大学等の入試での面接の作法についてお喋りがあったのだ。

ある学生は、試験官(もう公務員ではないのに、なぜか「官」である。「スチュワーデス物語」(1983-84、TBS系列)の名残だろうか)のおでこを見て話をするようにと高校で指導を受けたといい、別の学生はしっかり相手の目を見てと、さらに別の学生は首の下辺りを見てと言われたと、バラバラである。

あるいは、試験室に入るときのノックの回数、入室するタイミング、荷物の置き方と、様々に高校で指導されてきたが、「あれって、結果に関係するんでしょうか」と学生に尋ねられる。「うーん、色々かも知れないけれど、直接は関係しないと言えるだろうね」と返すと、ちょっと不思議な顔をされた。そりゃそうだよね、非言語的にも好印象を得ようと頑張ったのに、関係ないなんて言われたら困るもの。

とまれ、大学にやってくるまでに、非言語的な経験を多くしている学生たち。それらを振り返りながら、教員としての言語的・非言語的なメッセージほか自身のそして他者の振る舞いについて考えること、ひいては「よりよい」マネジメントにつながるようになってほしいな。
[PR]
by walk41 | 2017-04-28 00:06 | 身体 | Comments(0)

憲法の長さ

小熊英二「日本国憲法 改正されずにきた訳は」(朝日新聞、20170427)を読んだ。

憲法の特徴に言及しているが、その一つ、「実は日本国憲法は非常に短い。各国憲法を英訳した単語数を比較すると、日本国憲法はインド憲法の29分の1、ドイツ基本法の5分の1に満たず、世界平均の4分の1以下なのである」という指摘を面白く思った。

恥ずかしながら、憲法が長いのか短いのか、他国との比較を考えたことはなかったし、短いことで当然書かれる内容も限られるだろうことも想像しなかった。あんぽんたんである。

もちろん、長さだけで決まるものでもないけれど、形式が内容を規定する部分もある、ということを踏まえて憲法を考えてきたか、と尋ねられれば、「いやあ、実は…」。困ったものだ。

上のような事実をすらっと書けるように研究をすることが必要だし、そもそも何に着眼するのか、視野と焦点が問われる。反省しきりである。
[PR]
by walk41 | 2017-04-27 08:16 | Comments(0)

教育内容の部分と全体

アクティブ・ラーニングに関わる話をうかがう。パフォーマンス課題について、さまざまな知識やスキルを総合して臨むような複雑な課題、と聴いた。

この分野の素人なので、勘違いしているのかもしれないけれど、これは部分と全体、あるいは具体と抽象に関するテーマなのかなと思う。

例として紹介されていた中学校社会科の課題:「時は1900年。あなたは明治時代の新聞社の社員たちであり、社会が大きく変化してきた明治維新を記念する社説を書くことになりました。社説は、同授業を生きる人々(政治家、産業界の人々、文化人、一般の人々)に向けた新聞社からのメッセージです。話し合いの内容や今までの学習を振り返り、今後の改革のあり方について重要だと思うことを提案してください。」

これに臨むには、1900年がどんな時代だったか、たとえば日清戦争と日露戦争の間、義務教育就学率が100%に近づきつつあったこと、社会主義協会が設立。国際的には、パリ万博、義和団の乱などを踏まえて論じなければならない。その時点から、明治維新について述べるのである。相当に難しいと思う。

ところで、複雑な問題に臨むには、個別の事実を知り、かつそれらをつなぎ合わせる筋道が必要だ。そこには解釈が不可欠で、そこに捉えようとする人による違いが生じる。現実はまさに複雑で、変化も一方向に生じる訳では必ずしもない。歴史家は起こったことを自分の筋道に合わせて述べることはできるが、これから何が起こるかを述べることはできない。あくまでも「後知恵」に留まる。

厳密には、一つの事実ですらどうであったのかが明らかではないのに、それらの組み合わせ-しかも、整合的とは限らない事実の-を求めることは、たとえば義務教育段階の児童・生徒にどれくらい可能だろうか。限られた事実をもとに、つたない筋道を述べて、わかった気になってしまいはしないだろうか。これらの検討もなされた上で提案されているとは思うけれど。

また、部分を強調すると全体は見えにくくなる。全体を見ようとすると部分はおざなりにならざるを得ない。部分と全体、具体と抽象の間をわれわれ大人の認識も揺れ動くけれど、経験がより限られる人の場合、鳥の目と虫の目の両方を求めることは、反って混乱を招かないだろうか。

これまでも、いわゆる発達段階に応じて、具体の抽象化と抽象の具体化は促されてきただろうし、物事がより「わかる」とは、ある事実や事象がそれだけでは完結せず、全体の一部、つまり部分でもあるのだと捉えることができる、あるいは全体だと思っていたことが、部分の集積でもあることに気づく、このように「分け方」が変わることでもある。

「総合」とは、多くの事実を要約しようとする発想ゆえの言葉であり、一つの架構に過ぎない、同様に「さまざまな」とは、一つの事実が何かの部分として見なすゆえの言葉である、と言うとき、パフォーマンスとはどういうことなのか。もっと考えてみたい。
[PR]
by walk41 | 2017-04-25 11:49 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

花桃

恥ずかしながら知りませんでした。こんなきれいな花があるとは。

近所を歩いていたら、白とピンクの色が一つの花に混じって咲いているではありませんか。綺麗やなあと見ていたら、お家の方が教えてくれました。花桃というそうです。

風情も吹き飛んでしまいますが、教育のお喋りってともすれば、個人を一つのキャラクターで捉えようとしませんか。「彼は~な人だ」と。けれど、一つの花に二つの色合いが入り、しかもその出方が同じ木なのにさまざまだということを知ると、およそ一様なものとして人間のことも語れへんよなって思わされます。そんなん当たり前のことやん、と言われたら、仰る通りなんやけど。

とまれ、美しい花を見せてもらい、とてもほっこりしました。ありがとうございました。

b0250023_16423451.jpg

[PR]
by walk41 | 2017-04-22 16:42 | Comments(0)

給料泥棒

ある大学院生から聞いた(念のため、京都教育大学の学生ではない)。

ある授業で大学教員がこういう話をしたそうな。

「学生が授業を取りにくいようにと、原書講読にした。それでも英語ならばまだ取る学生がいると思ったので、ドイツ語にしたけれど、まだ授業を取る学生がいた。来年はラテン語にする。」

呆れる話である。何という体たらく、自分の専門を通じて学生を育てようとする意欲の欠落だろうか。こんな教員にも血税が遣われているという嘆くべき現実。まさに給料泥棒である。残念ながら、立場の弱い学生になす術はない。

大学も中期計画やあれこれの評価を通じて縛られるように、また色々と説明をしなければならなくなっている。けれど、授業は最終的に教員に大幅に委ねられている。だからこそ、とりわけ授業については、強い自律性を担保する必要があるが、それは各教員の良心、誠実さ、熱意に依っている。このことを繰り返し肝に銘じなければいけないと思う。

[PR]
by walk41 | 2017-04-20 11:52 | 授業のこと | Comments(0)

深呼吸をしよう

怒りを抱えている人の身体は、固くこわばっている。腕を組み、目をキッと見開いて、足を踏ん張って、体中に力が入っている。

そんな時もあっていいけれど、あんまりやると身体が悲鳴をあげるよ。身体の力が抜けるように、深呼吸をしてみよう。腕を伸ばし大きく弧を描いて、肺に空気が入るのを感じてみよう。そうすれば、気持ちも少しは変わるんじゃないかな。

認知と感情が身体を形作ることもあるけれど、反対に身体が認知と感情に影響を及ぼすこともある。知らないうちに固まっている身体を解きほぐすこと、すると気持ちやものの見方が変わることを、私たちは既に経験しているのではないだろうか。

[PR]
by walk41 | 2017-04-19 18:35 | 身体 | Comments(0)

全校集会での行動

同じ中学校でも、学校によって様々なことは、みなさんも経験ずみあるいはお聞き及びのことだろう。

この3月まで別の中学校におられ、4月の転任で学校を移った方と話す機会があり、とても面白い話に接した。その趣旨は、前の学校では勢い、生徒指導に力が入っており、いわゆる目力を使って生徒を威圧するような振る舞いをしていたけれど、新しい学校はそんな必要がない様子だ、と。

けれども、気がつけば、全校集会にて自分は生徒の列の前の方に位置して、生徒を見つめるようにしていた。これに対して、他の教員はむしろ後ろに立っていて、生徒の様子をさほど心配してないということが、大きく違うと思わされた、という内容だった。生徒に対してどこに自らを置くか、は決して一様ではないことは、人間の行動がすぐれて環境に左右されていることを示すものではないだろうか。

自身の振る舞いが、勤務する学校によって異なるということ、また、知らないうちに振る舞いがあるパターンを取る、つまり身体化されているということを、大変興味深く思ったのだ。
[PR]
by walk41 | 2017-04-17 21:35 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

事務をつかさどる

このたび学校教育法の一部改正がなされ、第37条14項「事務職員は、事務に従事する」が、「事務をつかさどる」に変わる。その理由として、学校組織マネジメントを機能させるために、総務・財務の専門家である学校事務職員の役割を積極的に規定したことが、文部科学省事務次官名で説明されている。

さて、これからの学校事務職員はどのように変わるだろうか。一つは学校と教育委員会の関係、もう一つは、学校内の分掌のあり方が論点になる。まず前者は、各学校がどれほど経営主体としてありうるように行財政の仕組みが整えられるか、である。

各学校による人的・物的・財的条件の権限と責任をどこまで広げることができるか。たとえば、学校でスタッフを採用、雇用、離職させられるか、どこまで予算項目を減らして、各学校の裁量で購入、管理、処分できるか。これらが大きく広くなれば、事務量は激増する。内外への情報提供とその管理、法的適合性の担保、計画と判断、事後処理と構想、検討、決断もより必要になる。小中学校で一般的な一校一人体制ではきっと難しいだろう。すると、教員と事務職員とだけでなく、事務職員間、事務職員と保護者・地域住民等とのコミュニケーションのあり方も問われる。

こうした学校の経営環境をどのように設計するか、そもそもできるのか。各学校が担いうる経営条件、たとえば数年で替わってしまう校長が発揮しうるリーダーシップとは何か。また、50歳を越えて初めて校長という教職キャリアの設計は妥当か。あるいは、児童・生徒が基本的に徒歩で通学することを想定した学校配置で、ありうる学校規模はどの程度か。これらから、組織マネジメントを要する組織として学校を措定できるか、が導かれるだろう。

私の今の見立てでは、義務教育段階では各学校はそれほど大きくならないし、教職員の数も数十人までに留まる。くわえて、校長を始め教職員の学校間移動(転任)が定期的に行われ、学校としての蓄積が困難といった仕掛けが維持されるとすれば、各学校に求められる事務業務も大きく変わらないだろう。その上で、学校経営に参画する学校事務職員像をどのように描けばいいのか。これは学校事務職員に限らない、教職員にも同じように問われることである。

[PR]
by walk41 | 2017-04-17 09:27 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

コストだけを考えるわけではないという難しさ

中島隆信『子どもをナメるな-賢い消費者をつくる教育』(ちくま新書、2007)を斜め読みした。「モラルを損得で教える」ほか、経済活動としても世の中が成り立っていることを伝えながら、情報の収集と判断に優れた人間を育てることが、よりよい社会を作ることにつながると論じている。

設定した枠の中で選択させるという方法(制約付き最大化)が、より意欲を高めるというのは説得的だが、いじめに関する指導を損得で、すなわちコストがかかりすぎて不経済と教えればよい、という説明はいただけない。なぜなら、そこでは①子どもが学級あるいは学校という場を離脱不可能と捉えるか否か、②人間は非合理的な行動をまま取るのではないか、の吟味を経ずに話が進められているからだ。

まず①について、子どもが、その学級で生きていくことが不可欠で、それ以外の場はないと観念するとする。そうなると、いじめをすることが「居心地の悪さ」(p.83)につながるという教えは意味を持つかもしれない。けれど、まあ一年くらいのつきあい、あるいはたとえ同じ学級にいても(利害)関係の薄い奴と思えば、いじめは横行する。

大人だって同じだろう、一つしかない地球に住んでいて爆弾をぶっ放すなど最大の環境破壊なのに、「自国を守るため」には仕方ない選択だと、いまアメリカ合州国と北朝鮮がにらみ合っているではないか。ごみの分別ルールを守らなければ、回り回って市民税アップになるとわかっていても「まあいいかな」といい加減なことをしがちなのも同じである。全体で見れば自身の損になるのに、そう振る舞うわけではないという社会的ジレンマは、至る所で観察される。

もう一つ②については、コストよりも大切なものを人は掲げる場合もあるという点だ。名誉や伝統といったメンツはその最たるもので、こだわるほどに心象は肥大化される。過度なナショナリズムが愚かなのは明らかであるにもかかわらず、そのためには人を死に追いやっても責められないことも起こりうる。健康オタクが「健康のためには死んでもいい」と懸命にるならば、それは本末転倒だがそうした行為も散見される。

コスト意識を持たせて、それに準拠した行動を取ることの意義を述べるのは大切だが、それだけで行動するほど合理的でもないのが人間ということだろうか。
[PR]
by walk41 | 2017-04-16 10:22 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
nation
at 2017-10-17 12:45
好みの幅広さ
at 2017-10-15 12:43
スクールソーシャルワーカー
at 2017-10-14 10:59
「奏を功する」
at 2017-10-12 20:20
付いた力は自分ではわからない
at 2017-10-11 23:31
まずは良かった
at 2017-10-09 19:14
Fiasko/fiasco
at 2017-10-08 10:40
青か緑か
at 2017-10-06 09:39
丁寧な言葉遣い
at 2017-10-05 10:26
目標を実現することが即、教育..
at 2017-10-02 22:05
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧