学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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迷いつつする仕事

学部生に授業、教員研修について話をしながら思う。

教員の業務が規定どおり、つまりオペレーションとして行われるのであれば、やり方とその考え方を伝えれば概ねいい。けれど、その実際の少なくない部分が規定や予定どおりには行かない、さらにはそもそもの規定や予定が適切かどうかが必ずしも明らかではない、という特徴を踏まえて、教員の研修のあり方も考えなければならないな、と。

エクセルの使い方、読まれやすい学級通信の作り方などであれば、その目的や手段が明らかだから、迷いは少ない。やり方として相当部分まで習得できるだろう。

けれど、児童・生徒、保護者、同僚や地域住民などといかにコミュニケーションを取るか、というテーマであれば、オペレーションとして扱える余地は小さい。発声は明瞭に滑舌よく、聴くことを心がけて、いたずらに難しい表現は用いないといった、自分でどうにかできる事柄については、やり方を知れば済む。

けれど、コミュニケーションは相手によって受け止められ方が違う、相手の様子に自分の振る舞いが左右されるといったことが頻繁に起こるものでもあるので、こうすれば上手くできるとはなかなか断言できない。「さっさと言って」とゆっくり話すのを嫌がる人もいれば、言葉少ないのを好む人もいる。経験も相まって世代ごとに好まれる、頻出する表現とそうでない表現も多様だ(「昔取った杵柄」と言って伝わるのは特定の世代だけ)。それらは、ケースバイケース、状況依存、相手次第、相互作用と色々な言い方で語られる、不確実な行為だからである。

この他にも、状況認識、意思決定、リーダーシップなど、教員の職務の多くに関わる事柄がこれに当てはまる。

だから、教員はあるオペレーションにも携わりつつ、わからないなあ、どうかなあと迷いながら業務に臨まざるを得なくなる。裏返せば、迷いのない仕事ぶりは、全能感に満ちた、思考停止の状態とも言える、怖いことである。

だからこう導けるだろう。教員の自己研修、校内研修、集合研修では、オペレーションの部分を知りつつ、他面で、なかなか答えの出ない問いに出合うこと、自分の既存の理解を揺るがし、彷徨うこと、わからなさに耐えること。そんな思考体力とその育成に向けた肯定的態度を養うことが肝要だと。






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by walk41 | 2017-05-31 10:09 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校間転任人事の効用ありか

堺市教育委員会は29日、顧問を務める運動部の女子部員を「指導」と称して裸にさせたとして、市立学校の男性教諭(56)を懲戒免職処分にしたと発表した。市教委は強要容疑での刑事告発を検討しており、教育次長は「深くおわび申し上げる」と謝罪した。

市教委によると、教諭は今月6日の公式戦で負けた女子部員に「先生とエッチできるぐらいの覚悟で試合に臨め」「学校へ帰ったらエッチしような」と発言。7日昼過ぎにこの部員を教室に呼び出し、扉の開いた隣の部屋から裸になるよう迫り、部員は実際に裸になった。教諭はその後、服を着た部員を抱き寄せ、「成人したらエッチしような」と言ったという。(毎日新聞、20170530)
……
こうした事案はごく一部しか報じられない場合があり、推測の余地が大きいのだけれど、次のことは考えていいと思う。

①部活動が学校の名前の下で行われながら、教育課程や学校施設上、その管理が全くと言ってよいほどなされていない。つまり、聖域扱いされる可能性が高い部活動は、学校のリスクマネジメント上の危険因子である。もちろん、部活顧問の過重勤務の上でも同様だ。

②同日の朝日新聞の報道によれば、同教諭は1990年からこの部活動の顧問だったという。ならば、おそらく勤務校もこの27年間替わっていないことになる。小中学校教員の転任率が10数パーセントであることを考えれば、10年を超えて同一校にいるのは長いと言える。

大阪市立桜ノ宮高校での暴行、自殺事件の際も、部活顧問の長期同一校在任が取り沙汰されたが、今回の事案も長く同一校にいることで、全能感のようなものを同教諭が抱いた可能性がある(自ら希望しない限り替わらない、大学教員にも当てはまるだろう)。

③①②にも連なるが、報じられている限り、相手が大人ならばおよそ言い得ないような内容と口調で生徒に接している。こんなふうに「子ども相手のお手軽な仕事」をしていても、それを変だとは思わない、自身をリフレクションすることの難しさが、個業性を強く帯びる教職に見られる。省察や内省、反省とリフレクションは喧伝されもするが、そもそもできるのかという問いが投げかけられるべきである。


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by walk41 | 2017-05-30 17:05 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

横文字

「横文字の案内、なぜ何もかも」(朝日新聞、投書、20170529)を読んだ。

バスの案内を指して、「ノンステップバス」では「ノンストップバス」との違いがわからず、年長者にわかりにくい、横文字の濫用を控えるべきでは、「ここは日本です」と締めくくっている。

言葉も常に変化しているので、この投書主のように言われても仕方ないのだけれど、そのこととは別に。勇み足というか、紋切り型な書きぶりを感じるので、より生産的な投書になってほしい(編集者も採用の際に留意してほしい)と以下を述べる。

①見出しは「案内」となっているが、この主は、「アナウンス」と横文字を記している。自身が外来語を用いているのに、バスの案内はいかがなものか、と苦言を呈するバランス感覚はまずいのではないか。

②「ノンステップバス」は和製英語だから、日本語である。こんなことは、ちょっと調べればわかるだろうに、横文字は外来語と思い込んでしまい、しかもそれを公に語るのはよろしくないのではないか。

③「ノンステップバス」を言い換えるならば、「出入り口の段差をなくして、乗り降りをしやすくしたバス」という感じになるが、こんな長い説明をバスの案内に用いるのは実際的ではないだろう。どう改めたらいいかも合わせて示してもらえると嬉しい。

④そもそも、「バス」という言葉は来外語である。「日本語風」に言うならば、乗り合い自動車ということになるが、これまた長々しい名前ではないだろうか。導入当時、「バス」と聞いて違和感があったかもしれないが、長く使っていると馴染んでいくものなのだから、ノンステップバスも同じと考えてはどうだろうか。テレビやラジオと同じように。
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by walk41 | 2017-05-29 08:00 | ことばのこと | Comments(0)

おこらず、おごらず

信州は駒ヶ根にある、薬草成分を抽出した飲料を製造している会社の工場を偶然に訪れた。予約が必要だったため、残念ながら工場見学はできなかったが、いくつかの資料を見せてもらうことができたのは良かった。

特段、この会社の製品に関係する訳ではないのだけれど、健康法に類する資料の説明に次の一文があったことが印象的だった。「おこらず、おごらず」。

怒ることが健康によろしくないことはもちろん、驕ることもまた同じという説明に、語呂合わせの良さ以上に納得するところがあった。学生にはよく話す。論文を書くには怒りが必要だけど、これは不健康なことでもある、と。

と、わかったようなことを他人様には伝えているのに、自分のことになるとさっぱり駄目だ。研究のこと以外でも怒りを抱くとき、これが不健康の元だとわかってはいないなあ、と。

嬉しいことは幸いと思うべきだろうが、感情の起伏の激しいこと、とりわけ怒りを経ることは著しく自身を消耗する。その時だけでなく、後々も結構ひきずる。しんどさが続く。だから、いたずらな怒りは実にもったいないことである。

この点で、感情のマネジメントとは、感情をいかに操作するかというだけでなく、感情という資源に対するコスト感覚をもって臨むべき、と考えられる。いつもできる自信はないけれど、効果的な資源の投下(と回収)が認知についてだけでなく、感情の面でもできるように努めたく思う。
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by walk41 | 2017-05-28 22:18 | 身体 | Comments(0)

恥ずかしい

ある県で教員研修を担当し、自分が導いたデータ結果を示したのだが、終了後、どうも腑に落ちないなと元データを見直したら、エクセルに誤って入力していたことが判明した。つまり、間違ったデータを挙げていたのだ。

再度、計算をしなおしたところ、(自分で言っても仕方ないけれど)論旨を変えなければいけないほどの致命的な間違いはなかった。とは言うものの、修正の必要があることに変わりはなく、担当の指導主事にその旨と新たなデータ結果を送った次第だ。ああ恥ずかしい。修正されたデータが、研修に参加した人に学校ルートで届けられますように。申し訳ないこと、この上ない。

それなりに丁寧にデータを扱っているつもりだけれど、「新しい結果じゃないか」と小躍りしてしまうと、データ確認を怠ることを(またもか)学んだ。だから、複数でデータ確認をすることが大切とも改めて思わされた。とくに数量的データは一度、発表されると一人歩きする。関心を持つ人に、「へえ、そうなんだ」と思わせたいと「功名心」が頭をもたげると、ミスも起こりやすいだろう。

丁寧に、慎重に。今更こんなことを記すなんて、あんぽんたんだが、自戒としたい。
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by walk41 | 2017-05-28 15:06 | 研究のこと | Comments(0)

教科書通りにはいかない

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教育史の教科書的には、1905年、日露戦争あたりで日本では義務教育学校への就学がほぼ果たされた、というのが一般的に理解だ。

けれど、写真のような「子守教育所」の様子(旧開智学校所蔵)からすれば、1910年頃に至ってなお、子どもが(たぶん自分のきょうだいではなく)赤ちゃんをおんぶし、試験まで子どもを抱きながら受けている、ということに驚かされる。この様子は、教科書でどのように説明されるだろうか。

これも学校就学というのなら、今のイメージとは大きく異なるだろう。一般化して理解する上で、個々のケースに即することは難しいが、そのための想像力はより必要だと思わされる。



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by walk41 | 2017-05-26 21:18 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

やっぱり変わって来たんだね

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長野県松本市の旧開智学校にて、明治期の学校の挙手を説明するボードから。

今と比べると、手のひらを前にする、肘を直立させることが違うね。現在の多くは、手のひらを横に、肘は伸ばす、だと思うから。

これまた長い時間の中で、なぜかはともかくも変わって来たこと、だから、こうあるべきといま声高に言ったとしても、やがて変わって行くものなのだと諦める、踏まえることが大切だと気づける。



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by walk41 | 2017-05-24 22:03 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

ゴミを拾う人

出勤途中に、ある男性を見た。その方は、金属バサミとコンビニ袋を携えて、信号を待ちながら、周りに捨てられている吸い殻等のゴミを拾っていらっしゃった。

驚いて車の窓を開け、お礼を述べた。歩行者用の信号が青に替わり、男性は歩き始めたが、その横断中にも金属バサミを伸ばしてはゴミを拾っておられるではないか。思わず、車に気をつけてくださいねと声をかけたら、男性は会釈をして歩いて行った。見ると次の信号でも同じことをされている。

格好から見て、散歩がてらのことのようだが、ゼッケンをつけたり、ハッピを来たりするわけでもなく、お一人で黙々となさっている姿に、感じるものがあった。

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by walk41 | 2017-05-21 09:26 | Comments(0)

文字通り暴力的

仙台市の中学校での「いじめ自殺」に関連して、「授業の終わりのあいさつ時に生徒が寝ていたため、50代の男性教師が拳で後頭部をたたいた。1月には授業中に生徒が騒いだとして、50代の女性教諭が長さ15センチほどの粘着テープで口を10~15分程度塞いだという。」(朝日新聞、20170520)と報じられている。

二人の教諭、いずれも50歳代のおそらく大ベテランが、学校教育法違反でもある行為をなぜしたのかについては、また伝えられるかもしれないけれど、このことに、学校教育の暴力的な性格が現れていると思う。

なぜなら、終わりのあいさつ時や授業中の「望ましい」振る舞いが予めつもりされ、それに沿わないと、たたくや口を塞ぐという有形力の行使つまり暴力を振るうことが、疑問視されないからだ。

疑問視する? なぜ? 当然のことでしょう、と思う方に尋ねたい。ある会社の終業のあいさつ時に、そこに見学に来ていた、あるいはたまたま傍にいた人が、そこで寝ていたからと言って、たたかれることがあるだろうか。あるいは、公開授業を見に来ていた人が騒いだ場合、その人の口を塞ぐだろうか。いずれも「困ってます」オーラを出して出てくれることを祈るか、それではことが進まない場合は、そこからご退席を願うかだろう。相手にそこに留まることを求めるための暴力を振るうことはない。

それは、生徒かどうかの違いでしょうと、きっと返事が返ってくるよね。その通り。仙台のケースは、名目上は生徒だったけれど、実質的にそうだった訳ではない。その生徒にとって、終わりのあいさつや授業は、学校側からの押しつけに過ぎず、自分が関わるべき場とは考えられていなかったから、それ以上に意味のある行為として、寝る、騒ぐ(何をしたのだろうか)を選んだということ。こう見れば、生徒の行動はまったく合理的である。

「自分が関わろうという気持ちにならなかったのは、生徒の問題でしょう」と重ねて尋ねる人がいれば、答えよう。気持ちという内的な事柄を含めて、人を操作しようとする発想そのものが暴力的だということ。その是非はここでは問わないけれど、「相手が嫌だと思っても、起こす、静かにさせる」ことが当然のことと扱われることが、まさに暴力的ということだ。大人相手だったら、そんな失礼なことまあしないでしょう。

保護者に対する義務教育であっても、実際には児童・生徒が学校に来なければならない義務教育段階では、児童や生徒になりたいかどうかが本人に確かめられることもなく、いわば突然にあるクラスに放り込まれ、見知らぬ人から授業を受ける。それが、何となくではあれ、自然に近いような感じで進めば幸いなのだけど、いつもそうなる訳ではない。

この点で、望ましい教育とは巧妙に隠された暴力を通じて、社会的に期待されていな知識、技術、態度を養うように方向づけすることである。暴力性が露骨にならないような配慮や仕掛けがいかに用意できるか。それが、学校や教員の「専門性」の内実ではないだろうか。
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by walk41 | 2017-05-21 07:31 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「内職」テロリズム

大人数の講義にて、4人を単位にグループを組み、毎回の授業レジュメをもとに、発問を通じた授業者と学生、あるいはグループ内の学生を中心とした話し合い、あるいはミニワークのコメント交換といったことをしている。

けれど、そんな忙しい授業の中でも、いわゆる内職をする学生がたまにいる。当該授業の課題が多いためだろうか。そんな学生がいるなあと、グループで話をしている際、教室を回って気づけば、やんわりと指摘するのだが、今回は少し違った。咎められたことを恥じるどころか、申し訳なさそうな顔もせず、言われたことに対する不満を満面に浮かべたのであった(そもそも、非礼なことをしている点で受講資格なしということを、まったく了解していないのだ)。

しかもその後も、ふくれっ面の調子が続くと、ひ弱な授業者は影響を受けるので、話す調子も狂ってくる。そのことにどれくらいの学生が気づいたことだろうか。

アルバイトのおふざけで店が閉店に追い込まれる「バイトテロ」に擬えれば、この場合は「『内職』テロ」である。学生としての振る舞いをまだ学んでいないのに学生然とすると、こういうことが起こりうる。

その学生にもきっと言い分があるのだろう。他の授業でこうしても何も言われないのに、なぜこの授業では注意されなければならないのだ。心外だと。残念ながら、この手はお呼びではない。まだ学ぶ準備が整っていないのだから。

この立論がおかしいという人は、どこからでもいいから、別のことをやりながら、授業で懸命に考えるべき課題にしっかりと臨める、という人を連れて来てほしい。稀に見る秀才ならば、授業に来なくても認めるが、私を含め圧倒的多数は凡人のはずだ。それが地道に悩まずして何が学生だというのか。不貞腐れる暇などないよ。顔を洗って出直しなさい。

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by walk41 | 2017-05-16 15:45 | 大学のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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