学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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結論とは

授業について、「よろしければ、先生がこの授業における意図(この授業で何をしたいのか)を、端的にわかりやすく提示していただけると嬉しいです」と書いた学生に向けて、「(榊原販)公教育経営を学ぶとはどういうことか」を、別ブログ記事に述べた。

また、こう書くこの君の文中に、「授業内にあまりにも結論が見えず、先生の意図が見えず…」とあるので、「結論」あるいは学校風と言っていいだろうか「まとめ」という言葉について書いてみよう。

たとえば、goo国語辞書によれば、結論の意味に、「論理学で、推論において前提から導き出された判断」とある。たとえば、”教職労働の個業性と分業ー協業性の衝突、交渉、調整”という表現は、学校を観察して見つけられる事実をキーワードで整理した結果、導かれる結論である。”学校では色々なことがある”では何の推論にもなっていなけれど、それとは異なる「事実の類型化、概念の当てはめ、説明の試み」を経て、先の表現のように判断される。これは結論そのものである。

ちなみに、まとめという言葉の理解にも時々、困惑させられる。「このようにも理解、あのようにも解釈できる、という多様な推論ができるような授業研究をしませんか」と学校や研修会で提案すると、「それでまとめになるんでしょうか」と尋ねられる。意地悪に言えば、この教員は「まとめ」という言葉を辞書で引いたことがあるのだろうか。

同じく、gooの国語辞書によれば、「物事の筋道を立てて整える」という説明がある。ある事実をこう見れば、このように考えられる、違うように捉えれば、別のことに気づかされる、というのは、それぞれに筋道をたどっており、いずれも推論である。問題はその推論がデータ的、論理的に妥当かどうかであり、そこにデータ収集や解釈の適切さ、論理的誤謬のなさなどが問われる。これが論文で言えば、議論や考察に相当する。だから、これらの作法(手続き)を経た上で示されているのならば、いくつあろうともまとめとしては十分に要件を備えている。

社会科学の分野ではもちろん、自然科学でも、一つだけの結論が導かれる知見は、そうそうあるものではない(『京都教育大学図書館ニュース』内「私のすすめるこの1冊: 働かないアリに意義がある」〔榊原禎宏]、2017年7月号、を参照ください)。なのに、それを無理して「わかりやすい話」をするというのは不誠実であり、またそれを聞きたがるのは怠け者だ。「わからないものはわからない」「解けない問題は解けないと言わざるを得ない」と述べることも、結論であり、まとめである。

この点で、教員を志望する学生にはいっそう、「わかりやすい授業」とは何かについて悩んでほしいと思う。





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by walk41 | 2017-06-30 10:35 | ことばのこと | Comments(0)

人間相手の仕事

ご縁あって、ある看護師さんとあれこれ話す機会があった。

医療の高度化に伴い、看護の世界でもスタッフの力量向上が求められているのではと尋ねたところ、「そんなに変わりません。人間相手の仕事ですから」と言われたので、「教育の世界も同じだと思うんです」と返した次第だ。

言わずもがな、30万年の歴史を持つともされる人間の基本型が、せいぜい数百年の、いや「文明」の始まりからだと最大限に見積もっても、5000年くらいの「教育」によって影響を受けるという想定がかなり難しい、と私が思う。科学的な物言いではないだろうけれど、「教育」という人間の知恵が人間の経験と遺伝に優位するとはとても思えないのだ。

だから、自分の寿命の限り、あるいは前後二世代ほど、100年足らずの経験をもって、「教育」を評することの愚かさを重々に踏まえた上で、議論をすべきかと思う。なのに、長い間やっているからには、高度化、専門化していかなければならないという頭でっかちが優位するのだろう、実態に合わない話を始めて、「そうではないのでは」と指摘を受けても受け流して、素朴な発展論を疑わない。PDCA論も同様だ。そんな右肩上がりになっていったら、先々、発展する余地がなくて困るだろうに。

対人サービス労働をしている方、そうでない方を含めて、より他業種の人と話を機会を設けられるようにと思う。何となく、当たり前に見えることが、違う業界から見ればそうではないと知ることが、職能開発に対しても重要なことを学べるだろう。

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by walk41 | 2017-06-29 13:14 | 身体 | Comments(0)

何気ない言葉

大学の授業における教員の口調について、こんな話を聞いた。

ある教員は、学生に向かって「話をしてもらっていいですよ」と言うのだとか。これを聞いたある学生は、なんか嫌だなぁと。

この受け止めは分からなくはない。教員は、なんとなくそう言っているのだろうけれど、聞く側に立てば、話をすることに許可がいるかのような印象を受けるのだろう。この不快が高じて、この授業に出たくないなぁ、参加したくないなぁと思われてしまうと、もったいないことである。

手前味噌になるけれど、私の授業では次のように発問するようにしている。「この点、とても不思議だと思わない?」「ここについて、みんなの意見を聞きたいんだけれど」。研修会や講演では次のように発することもある。「こんな疑問があって、皆さんに答えてもらえればなと」。

多少は演技が入っているけれど、問いに対して自分がわからない、あるいは他の考えも知りたいと思ってることは事実だ。もっとも、この「わからない」ということと「何も伝えていない」ということは雲泥の差だ。

授業が、受講者や学習者のためのものならば、彼ら、彼女らがより発言したくなるような、そしてより聞きたくなるようなデザインに、授業者はより心を砕かなければならないのだと思わされる。

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by walk41 | 2017-06-28 07:56 | 授業のこと | Comments(0)

(榊原版の)公教育経営を学び考えるとはどういうことか

この授業で何を学べばいいのか、教員は何を伝えたいのかをわかりやすく教えてほしい、と学部生から質問があったので、これに答える格好で以下を記してみよう。

私の公教育経営論、実は社会教育や生涯学習などを含まない学校教育経営論なのだけれど、それはマクロ、メゾ(ミドル)、ミクロのレベルに大きく分けられ、おおよそ学校政策・行財政、各校の学校経営、(学校)教育実践の領域に対応する。

授業の目的の第一は、これらの領域に含まれる基本的事項を知らせることだ。ともすれば、いかに授業を準備し、実際に進めるかにもっぱら関心のある学生の場合、学校や教室が、文部科学省-都道府県教育委員会-市町村教育委員会と関わっていること、それぞれが法的・行政的権限と財源を伴って、人的・物的・財的な資源の管理と開発を担っていることを、全くといってよいほど知らない。

たとえば、学習指導要領と教科書検定、教育職員免許法と地方公務員法、教育公務員特例法、学校に置かれる職位と職権についても、まず何も知らない。官僚制と組織、言語・非言語コミュニケーション、集団力学、意思決定、認知と感情についても、ほとんど説明できない。そもそも教育人口はどれくらいで学校はどれほどあるか、地方自治体はいくつ、教員の給与水準は、学校のものの値段は、といった、教育系を専攻したならば常識的であるべきことにすら学生はまだ出合ったことがないのだ。

だから、これらの極く表面的なことを伝え、まずは知っておくようにと話をする。もちろん、これらを授業で網羅することは時間的に不可能だから、私が扱うのは断片だけである(ずっと説明しても退屈だろうし)。あとは自学でやってもらうことにして、ミニワークを授業間にも課してこれを促す。学校教育の用語辞典の類を見て、だいたい意味がわかるようであれば合格だ。

ところで、学生たちは児童・生徒の経験はあっても、学校で働いたことはないからイメージの得られない場合が少なくない。それを補うために学校でのエピソードを紹介したり、映像資料も見せる。学生の経験も掘り起こし、それが教育側にはどのように映るだろうかと問いかけもする。もって学校を見る視点の転換をねらう。

授業の目的の第二は、学校教育の基本的事項が人工物、つまり人間の作り出している所産だから、常に論争的であり、葛藤していることを伝える。自然科学ならば基本的事項を知ること、それらをいかに観察するかに傾斜するのに対して、人文・社会科学では、基本的事項そのものが相対的、暫定的だから、現在は何が論的なのか、さらには論点そのものが転換する(基本的事項そのものが書き換えられる)可能性を提示する必要がある。

学校は言わずもがな近代社会の産物であり、そこには時間的・空間的な条件と価値が色濃く投影されている。それは、「子どもの成長」「高度に発展した社会」イメージに見られるように、社会発展像に呼応した成長・発達論、分類と配列にもとづく秩序志向などを柱にする。そこで論点となる、葛藤するのは、たとえば、教育と学習、学習と学習棄却、認知と感情の操作と「自然」、文化資本と学力、セクシャリティ・ジェンダーと子ども、国民教育とグローバル化、教育水準の維持向上と「教育上の自由」あるいは地域性、人格的行為としての労働と組織人としての業務遂行、教育計画と「失敗」など、枚挙にいとまがない。

学生たちは高校まで「正解」があるはず、と教えられてきているので、論点を知る、何に葛藤しているかを知るという「考える」ことに馴染みが少ない。けれど、「正解」は必ずしもなく(むしろ、ほとんどなく)、曖昧なこと、不確かなこと、そして無常なことを、大学では学ぶ必要がある。「考える」ためのヒントを知り、考え続けるための態度や体力を養うことが必須である。ひょっとしたら、質問の君も「正解」があるとまだ縛られているが故の疑問かもしれない。

考えるヒントを得ることは、「わからない」「どちらとも言えない」と終わるけれど、それは「何もわからない」とは全く異なることを、学生は知らなければならない。学校教育がどのような構図で理解されうるか、そこで論点となるのは何か、それぞれを裏付けるデータや論拠はどのようかを突き合わせ、より「もっともらしい」捉え方ができるようにならなければならない。そこで求められるのが、モデルを構成する力、メタ認知の力、生産的な議論を交わす力などである。思い込み、決めつけ、常識的判断といったものから距離を取り、学校をいかに多面的に捉えられるか、が問われる。

以上、二点を目的に私は授業を行っているけれど、学生はこれについて来てくれているだろうか。学校教育のマクロ、メゾ、ミクロの各レベルに該当する基本的な知識と理解は伴っているだろうか。また、それぞれの領域で考えるべきこと、改められるべきことに関わる議論を組み立てられるだろうか。たとえば、教員と児童・生徒の関係論(ミクロ)、教職の同僚間の協働と個人の裁量、あるいは管理職の権限(メゾ)、外国人児童・生徒と国民教育(マクロ)、それぞれの具体と問題を説明できるだろうか。

このような「問い」を立てるに足るだけの知識と理解が学生に身についているかどうか、が授業者からの評価の眼目になる。質問に答えられただろうか。ならばこの方向で大いに励み学んでほしい。

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by walk41 | 2017-06-27 18:09 | 授業のこと | Comments(0)

考え方の癖(歪み、偏り)

授業の最後に学生に求める感想文を整理して、次の授業レジュメの冒頭にA4一枚程度紹介し、補足あるいはコメントを示している。今回、感想文の中に次のようなものがあった。

…スポーツをする人は寿命が短いという指摘があったが、自分の意見の押し付けはいけない。そういう意見多いに結構だが、ならばスポーツを止めろと言うのか…

うーむ。この手の思考上の癖はよろしくない。この君がではなく、ともすれば「もっともらしさ」をもって通ってしまいかねない、こういう話し振り、書き振りを危惧する。こうした癖を持って教育職に就くならば、なお危険なことである。

なぜそう言えるか。二点あげられるだろう。
その一、事実と意見の区別をつけていないこと。私が授業で話したのは、選手などスポーツを過度にする人の寿命が短いと指摘するデータ、事実であって、「〜と思う」という意見ではない。「朝、お日さまが東から上る(ように見える)」のは事実であり、意見ではない。事実を前にしては、誰もがまずそれを受け止めなければならない。

「ご飯を食べないとお腹が減る」も「木からリンゴの実が落ちる」のも、「それは君の意見だろう。そう思うのは結構だが、それを他者に押し付けてはいけない」と返せば、議論を試みたりわかり合うことは不可能である。

その二、授業で述べたのは(ある限られた)事実だが、仮に意見だったとしても、それを過度に推量して「〜と言うのか」とあたかも相手がそのように述べたかのように扱うこと。このやり方は、アンフェア、不誠実である。相手が言っていないことを指して、「じゃあ、こういうことを(引き続き)言いたいんだ」と持っていくのはズルい。

たとえば、学級の場面でイメージしてみよう。学園祭で学級劇をやることに対して、「僕は劇をやりたくない。そんなの意味がないと思うから」と意見を述べた生徒に対して、「じゃあ君は、そんな意味がない学級劇を止めろというのか」と迫る構図である。そんなことは言っていない。自分はやりたくないと言っているだけだ。

あるいは、学級でいじめ問題が起こったとき、ある生徒が「いじめた側にももっともな理由があるんじゃないかな」と学級会で意見を出したら、「じゃあ君は、いじめを認めるってことだな」と脅す如くである。いずれも針小棒大と言うべきか、意見をすり替えてしまう。

こうしたやりとりが「なんとなく」行われているとすれば、まったく恐ろしいことである。自分を含めて発想、思考上の癖により気づき、修正、革新できるように努めること、「コミュニケーション力」の向上は、こんな点からも問われる。



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by walk41 | 2017-06-26 11:55 | 身体 | Comments(0)

人格で仕事をするけれど/していいと思ってはいけない

元中学生の話を聴く。

部活動の顧問の教員は、納得する結果が出なかったり、練習が不十分と思った時には、中学生に向かって「歯を食いしばれ」と命じて、顔を殴り、その勢いでよろけて後ろに下がった生徒を追うように再度殴ったという。その結果、生徒がグランドの端から端まで、よろめき、下がるまで、殴られ続けたのを見たと。

ウン十年も前の話ではない。世はすでに体罰許さずというモードになっていたはずだ。なのに、こんな状況があったとは。

部活動は教育課程に含まれない、聖域でもある。その危険性は重々承知のはずだ。にもかかわらず、そこでプチ君主のように振る舞って、自身に疑問を持つことがおそらくなかっただろう教員の話に触れるに、何と怖ろしいことかと思わされる。

教職は人格的な行為が多く、これを避けることはできないけれど、そのことと、人格的に振る舞ってよいということとは同義ではない。教員はあくまでも学校あっての職である。自身の行為の源泉が人格に由来するかのようなとんでもない勘違いをすると、上のような暴挙が起こりうる。

重ねて言う。教員は国家、教育委員会、学校が背光現象として位置してこそ、成立する立場だということを忘れてはいけない。「子ども相手の仕事」(残念ながら、昨今では大学生、さらには大学院生との関係においてもこう言えるだろう)をしてはいないか、学問の自由、教育の自由を組織的あるいは自律的に行使しているか、が納税者に対する説明責任として問われる。
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by walk41 | 2017-06-24 21:17 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

生徒それぞれのカリキュラム

学生たちと、教育課程や「カリキュラム・マネジメント」について話をする。

すると、学生の中には学習塾でアルバイトをしている君がいて、聞くと中学生で同じ教科なのに、4種類ほどの塾作成の教科書のほか、市販の教科書も含め、生徒によって遣い分けているとのことだった。なるほど、「みんな一緒に」「学びの共同体」といった教育神話が強い学校と違って、塾は柔軟だなあと思わされた。個に応じた指導になってるやん。

考えれば、カリキュラムが学校として一つだということは、学習より教育に傾斜した、一斉教授を前提にしている。そこでは、どんな教育をするかという入力(input)にもっぱら注意が向けられており、結果どんな力がつくかという出力(output,outcome)は二の次になるので、生徒の多様性や異質性を等閑視したモデルができあがる。

言わずもがなと言ってよいだろう、教員が一斉にあることを説明しても、その理解の程度、活用の様子は相当に異なる。ある期間の後に、同様の結果に至ったとしても、そこまでの過程は一様ではないし、そもそも同様の結果に至る可能性がどれほど低いかを顧慮すべきである。「みんなが同じところまでわかる、できるようになる」「教え合いなど、助け合うことを通して、同じくらいのスピードで目標に達する」のが、かなり現実離れしていることを認めてはどうだろうか。

ならば、目指すべきは「学校としてのカリキュラム」ではおよそなく、「生徒それぞれのカリキュラム」なことは明らかだ。なぜなら、学校や教員の願いやつもりはさておき、①児童・生徒の個別性(特別支援を要する場合を含めて)を無視することができない、②しかも集合的(学校ではなぜか「集団的」という言い方が好きだ)であることを志向する程に、偶発性・蓋然性が高まる(どうなるかわからない)な傾向が強まる。このため、クラスを単位にいかに計画やつもりをしても、その通りに進むことはあり得ない。③くわえて、意外な出来事が教育的に価値あるものと観念されている(「~君がおもしろい発言をしてね、良かったよ」)。これらが、クラスやさらにはクラスを越えた規模でのカリキュラムのマネジメントと整合するはずはない。

教育課程は各学校で編成する、としても、その具体は集合的であることが難しく(学校行事などは別扱いと言っていいだろう)、目標、内容と方法はできるだけ多様、個々に根ざすことが望ましい。すると、そこでの教員ほかスタッフの働き方も違うように見えてくる。教員は一斉の教授者というよりも、生徒一人ひとりの学習伴走者である。授業時間は学習時間を基本とし、教員は彼ら/彼女らを見守り、診断、評価する能力がより問われる。教授しながら評価することはほとんど無理なので、教授者が診断能力を身につける機会は乏しかっただろうから、これは大きな課題である。

よって、教員は公開授業や研究授業などでスーツを着て現れ、教壇に立つスターではなく、横や後ろに静かに控えるサポーターとなる。一人ひとりにとってのカリキュラムという考え方が、教員像と学校像を変えることになる。
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by walk41 | 2017-06-22 15:14 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

授業者のことが含まれない「授業研究」

大学院生たちと、教材研究と授業研究について話す。

そこで改めて気づかされた。「授業研究といっても、授業者のことはほぼ研究されていないやん」って。

どういうことかって? 授業は授業者、児童・生徒、教具・教材のほか、教室空間とその時間的条件から構成される。そして、「いい授業」とは、これらがより望ましい状況にあることと措定する。

教室の広さや時間割の単位、教材の内容などを明日から変えることは難しいから、埒の外に置くとしよう。変えようのありそうなものとして残されるのは、授業者、児童・生徒となる。

ところが、児童・生徒には「彼ら/彼女なりの都合がある」から、授業に肯定的とは限らず(授業者が嫌い、教科が苦手、夜更かしをして眠たい、など)また、生徒たち自身も予想できないような偶然の出来事(昨晩に見たテレビ番組の評価がクラスメイトと違ったことでケンカ、体操着をうっかり忘れたことで頭がいっぱい、休み時間に転けて擦りむいた傷がうずく、など)に影響を受けて、教室の状況は形づくられる。その正確なことは、ほとんど予測不能である。教員がよく口にする、児童・生徒の「見とり」とは言っても、その妥当性を担保できない。つまり、彼ら/彼女らのことは、操作の対象とすることが困難と考えるべきである。

こうしたことから、最後に残るのは授業者となる。そのいでたちや醸し出される雰囲気は、児童・生徒に受容されやすいだろうか。基本的に楽しげで明るく、開放的な空気を誘っているだろうか。あるいは、話すことばは明瞭で、遅からず早からずだろうか。アクセントやリズムにメリハリがあり、聞き手を飽きさせないだろうか。さらには、黒板の前にばかりいないで、小まめに教室内を動き、ときに児童・生徒に近づき、離れと彼ら/彼女らの視線をよく動かしているだろうか。

授業の進め方と言えば、発問、資料の種類とその提示、一人/ペア/小グループ/クラス全体での活動の指示、板書計画などだが、そこに、授業者の「人となり」はほとんど含まれていない。発問に限っても、その前後の生徒とのやりとりはどのようになされているのか(相づち、うなづき、視線、冗談、膝をかがめる、など)を抜きに、その適切さを論じてどれほど意味があるだろうか。ラポールが成立していれば、ときに一言も発せず、「目力」だけで生徒の発言を促すこともできることを考えれば、言語的な働きかけはむしろ限定的で、それ以外の要素が生徒への刺激になると見るべきでもある。

ところが、授業研究において、授業者がどうであるか、何を変えればより望ましいかが論じられることはまずない。人格的行為でもある授業でその筋の話をするのは不可侵であり、マナー違反ということを、同僚あるいは教職業界人はあまねく知っているからである。

そんなことに言及しようものなら、返す刀で自分のことも言われる、そんな怖ろしいことを招く必要はさらさらなく、相互に不干渉であること、これでこそ同僚性が保たれる、「みんな仲良しだよね。あなたのことも指摘しないから、私のことも言わないでね。自律性が大事だもんね」と、悪しき蜜月関係が築かれる。なあなあの、ズブズブの世界がこうして出来上がる。もし、意を決して発言してしまったのなら、相手からの冷ややかな視線、無視の態度を覚悟しなければならない。「子どものために良かれ」と思ったことが、とんでもない仕返しを招くこともある。

かくして、授業研究と銘打っていても、ある意味で一番重要な要素、授業者について研究されることはない。「誰がやってもうまくできる授業」という、ありもしない夢想に依拠し、やりがいのない、研究主任に誰もなりたくない校内研修、授業研究がまた再生産される。
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by walk41 | 2017-06-21 08:07 | 授業のこと | Comments(0)

挙手

学生たちに話す。教室にあって、あるいは教室以外でも「生徒には生徒なりの都合がある」って思わない? って。

そこでグループで話し合ってもらうと、こんな話が出てきた。ある女子学生「手を挙げすぎたら、クラスメイトに目をつけられるかなあ。目立ちすぎると、いじめられるかなあ。」ある男子学生、「みんなが手を挙げないので、自分が頑張って挙げないといけない、と思ってよく挙手をしていました。」

なるほど、友人関係を慮って挙手を控えたり、反対に、教員を応援するつもりで挙手に励んだりとあるんだなあ。

けれど、授業論に回収されると、「生徒の意欲がよく現れた授業でした」とか「もっと挙手があるとよかったですね」と、「事後研究会」などと大仰な名前のもと、教育側の的外れな話が繰り広げられることになる。子どもを観る、みとり、と言っているのに、この体たらくである。生徒にはもっと考えなければいけない色々な事情があるだろうことが等閑視されがちだ。

現職教員のみなさん、目の前の児童・生徒にたずねてみてください。どうして手を挙げるの、また挙げないの? って。
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by walk41 | 2017-06-20 10:51 | 身体 | Comments(0)

参加者による

現職の教育関係者への研修でおおよそ一日を過ごす。

新たな教員免許状を取得するための機会なこと、そのための費用を(サポートもあるかもしれないけれど)自分で払っている、ということが初期条件であっても、みなさんの熱心さ、懸命さは十分に余りあると思わされた。

何かを得ようと思っておられるからだろう。講師の一言一句とは大げさにしても、ちょっとした小話にもうなずき、笑ってもらえる。こちらが冗談で言おうものならば、けっこうな反応をしてくれる。授業の間に教室を回り様子をうかがうと、こちらが配ったレジュメ(ハンドアウト)にしっかりと書き込みをされている方、あるいは、それには手を付けず、持参したルーズリーフに逐一書き込んでいる方も多く見られた。いずれも、過言ではなくびっしりと記されている。すごいなあ、こんなに一所懸命に授業に臨んでくださるなんて。

こうした数時間を経て「今回はこれで終わりです」と述べた次の瞬間、参加者から拍手が起こった。また、退室の際も多くの人が講師に声を掛けて下さり、快く次回を迎えることができると思う。

かくも、参加者、学習者、被教育者の様子が、研修や授業に決定的ともいうべき位置を占めているということ、これを踏まえてどのような「授業論」(学習論ではなく)を構成しうるかを考えるべきだろうと強く、重ねて強く思わされた。「授業は授業者ではなく学習者が相当に決める」という命題が成り立つのではないか、とすら感じさせられる時間だった。
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by walk41 | 2017-06-18 21:23 | 授業のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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