学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

<   2017年 07月 ( 22 )   > この月の画像一覧

「わかった?」「わかりましたか?」

「わかった?」と教員が児童・生徒に尋ねるシーンは、学校経験のある人ならば容易に思い浮かぶだろう。それほどに馴染みのある言動だけれど、とても不思議な言い回しである。

なぜなら、このように子どもに尋ねることは、彼ら/彼女らがわかっているかどうかを教員はわからない、ということを表明している、つまり、児童・生徒理解、子ども見取り、生徒観念などと日頃から言っているにもかかわらず、子どもを捉える、診断する能力が教員に必ずしもないと、教員自身が述べているのだ。

また、これは全てに当てはまるわけではないが、多くの場合、語調、ニュアンスとしてこの言葉は質問の意味をなしておらず、確認を取る格好になっている点でも特徴的だ。教員は子どもがわかっているかどうかを必ずしも知りたいのではなく、わかっているはずだからね、というメッセージを暗に伝えようとしているのだ。その雰囲気を感じ取る子どもは、実際にどうかは別にして、おおよそはわかったような顔をする。こうして、次の単元に進むという「共同作業」ができる。ここで「わかりません」などと無粋な反応をしようものなら、「空気が読めない奴」の誹りを免れない。

かくして、自身だけでは子どもを理解できない、にもかかわらず、教員たるもの理解できるはず、理解できなければならないという信念が一人歩きをし続ける。また、尋ねているわけではないのに、尋ねたというアリバイづくりによって、あとあと「だって、わかったってあの時に言ってたやん」と抗弁できるカードを教員は手にする。学校の言葉はまことに興味深い。

[PR]
by walk41 | 2017-07-31 05:39 | ことばのこと | Comments(0)

大学教員の驚くべき傲慢さ

学生を転倒させ、指導する男子学生に暴行してけがを負わせたなどとして、広島大学は、50代の男性教授を休職6カ月の懲戒処分にしたと発表した。大学によると教授は3月、学生と口論になった際、足を払って転倒させ、全治3週間のけがを負わせたうえ、顔につばをはきかけた。学生は救急車で病院に搬送され、警察に被害届を出していた。

 この学生には昨年11-12月にも、複数回にわたって「クビにするぞ」としかりつけてプレッシャーを与えるなどし、学生は1週間、大学を欠席。また、ほかの研究室の指導学生に対しても「バカ」「研究室から出ていけ」などの発言を繰り返したという。 教授は「自分の要求するレベルに学生が届かず、感情的になってしまった」と説明しているという。学長は「教員としてあるまじき行為で誠に遺憾。深くおわびする」とするコメントを出した。(毎日新聞、20170728、一部改変)‥‥‥

ときどき、いやそれ以上の頻度で、大学でもバランスが必要ということを忘れている場合がある。たとえば大学教員、自分も含め大学とは学問やそれに関わる業務に携わる者が集う場として、裁量(自由)と責任が認められていることを踏まえて働いているだろうか。この両者のバランスが保たれてこそ、「学問の自由」の意味があるけれど。

ここで、責任を伴わない自由(したい放題が優位すると困ることになる。予定された授業の回数をこなさない、シラバスと実際とがあまりに違っている、講義と銘打ちながら学生にお任せの放ったらかし授業、さらには教員の気分感情に過度に左右された授業なら、学生に対する責任、ひいては納税者に対する責任を果たしているとは言えない。

屋上屋を重ねよう。学生に強く要求することはあってもいい。けれど、これに対比しうる教員足りえているかも繰り返し問うべきだろう。いい加減な授業をした上に、「(代替日に充てられている)土曜日なんて、やらない、やらない」と嘯く、毎回のように遅れて始まる授業、こうしたことを批判した学生がいたにもかかわらず当人は管理職となり、あたかも自身がちゃんと授業をしていたかのような顔をしつつ、そのまま済んでいるような大学、こんな体たらくで権限と責任のバランスが取れていると胸を張れるだろうか。


[PR]
by walk41 | 2017-07-29 07:31 | 大学のこと | Comments(0)

PTA

学生と授業をするのは基本的に楽しい。「内職テロ」や明らかに妨害的なシーンに出合わない限りは。

概ね熱心で好意的な学生たちと話をする。お題は、PTAのあり方についてだ。この団体を巡る怨嗟には事欠かず、学生の保護者の苦労話も多く出される。そこで考えてみよう。たとえば、全員加入を強制するのではなく、やりたい人がやるというボランタリーな性格に改めるという案はどうだろうか。

たしかに、活動規模は縮小されるだろうし、この点で学校も手助けが減る点で困るだろう。ところが、これ以上に問題が起こることに授業の中で気づかされた。それは、PTAが保護者としての代表性を担保できなくなることである。

消極的な人が仮に構成員の多数であっても、全員加入であれば、そこでの決定や活動は会員の総意に基づく、と立論できる。秘密選挙で役員が選ばれているのだから「民意」を受けていることになる。

これに対して、ボランタリーなグループであれば、保護者としてのPTA代表性を主張できなくなる。「やりたい人がやってるんだからいいんじゃないの」とは言えないところがネックだ。

たとえば、このグループが「運動会のスムーズな運営に協力したい。ついては、子どもの撮影は広報の腕章を付けている人以外は認めない」と決めたとしよう。それに異を唱える人は「そんなことを勝手に決めるな」と立腹するだろう。あるいは「卒業を控えた子どもと保護者、お世話になった先生たちと日曜日に昼食会をしたい」と決めても同様だ。「ウチはそこに入っていないから、先生に良く思われないんじゃないか」と邪推されるかもしれない。つまりは、その集まりが代表性を担保できないゆえに起こりうる問題である。

代表性を持ち得ないグループの存在は、学校にとっても困る。偏っているのではないか、一部の利害を優先しているのではないか(今風に言えば、「お友達内閣」がダメなことに通じる)、常に心配しなければならないからだ。かくして、PTAが全員に入ってもらっていなければならないと帰結される。それがどれほど消極的な人に占められていたとしても、代表性を持ちうるからだ。

現状に問題があり、どうしたものかと悩むテーマは多いけれど、じゃあどうすればいいかと舵を切るための妙案がなかなかないことも、また事実である。これを突破できるような大なり小なりの勇気、そして思考体力が要るのだと強く思わされる。

[PR]
by walk41 | 2017-07-28 11:07 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

ドイツ語の長い言葉

ドイツ語は、ひとかたまりの言葉が長い場合が多い、と話題になりやすい。

単語を覚える上でも、この手の話題は楽しく飽きさせない。

今回学んだ一番長い言葉はこれだな。下手な日本語訳だけれど、こんな感じ。

「土地取引認可に関わる権限委任規定」
Grundstücksverkehrsgenehmigungszuständigkeitsübertragungsverordnung

えっ、こんなの面白くないって? ああ残念。


[PR]
by walk41 | 2017-07-26 21:00 | ことばのこと | Comments(0)

学校管理職と担当教科

ある指導主事と話をしていて、面白いことに気づかせてもらえた。

今度開かれる委員会について、新たに委員になられた中学校の校長について、この方の教科は何でしょうね、という話から、どの教科の教員が校長になりやすいかという話になり、この流れで、 2009年に共著論文で発表した「担当教科から見た校長職の採用・配置」の研究を紹介したのだ。

そこでは、保健・体育担当出身の教員が明らかに多く、対して美術や音楽、技術や家庭科出身の校長が少ないことがわかったと述べたところ、このように仰った。

…自分の知っている限りですが、こうした教科は担当時間数が少ないので、複数の学年にまたがって教えることが多く、その結果、学年主任になられないのではないでしょうかと。

なるほど、確かに学年主任を経験しないで教務主任になることは少ないだろうし、教務主任を経ないで主幹教諭や教頭になることも少ないだろうな。そして、この結果、校長になる機会が減っている(良くも悪くも)のだろうなと、いたく納得した。

校長には学校管理職としてリーダーシップが強調され、責任もより問われるようになっている。けれど、担当する教科によってバイアスがかかっていること、つまり、特定の教科を担当する教員は、最初から校長への道が狭まっている可能性について考えてみるべきと思わされた次第だ。

[PR]
by walk41 | 2017-07-25 22:05 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

ホームページ開設のお知らせ

拙ブログをご覧くださっているみなさま、

整理が十分でなかったり、感情が先走ったりと恥ずかしいことですのに、拙い文章をいつもご高覧いただき、ありがとうございます。

この度、家人の多大な助力を得て、ブログも含めたHPを以下に設けました。ご興味のある方には、論文ほか小さな記事を読んでもらえますし、ドイツの学校ほかギャラリーも加えていくつもりです。

私の分野から「よりよい」学校教育についての議論と実践が広がりまた深まりますよう、いっそうのご懇意をお願いいたします。

榊原禎宏HP: https://walk411.wixsite.com/yoshihirosakakibara


[PR]
by walk41 | 2017-07-24 10:28 | Comments(0)

かぶる

この間、学期末の学生のレポートを読んでいる。

前から気になっているのだけれど、「かぶる/被る」という言葉の遣い方に強い違和感を覚えており、この表現がレポートの中にも出てくるので、なぜ気になるのだろうかと考えてみた。

私の授業では、学生のレポートをクラスメイトである他の学生がコメントする(紙上対話、「赤ペン先生」と呼んでいる)スタイルを取っており、最終レポートでしっかりそれができるように、授業間にミニワークと称する小さな課題にて「赤ペン先生」の経験を重ねている(2回生向けの授業では、今期5回行った)。そこに記される、「私の考えと被っていて…」という表現が、とても気になるのだ。

そこで「かぶる」を引くと、従来の意味といっていいだろう、頭や顔などにそれを覆うものを載せる。また、全体をすっぽり覆う。「帽子を―・る」「面を―・る」「毛布を―・って寝る」「雪を―・った山」のほか、写真で、現像過程の失敗、露出過度やフィルムの欠陥などのため、フィルムや印画紙の画面が曇ってぼやける。「この写真は―・っている」。あるいは、すでにある色や音などの上に、さらに他の物が加わる。「日陰の撮影でやや青の―・った画像になる」「会話の音に電車の通過する音が―・る」、「一方の発言と、もう一方の発言が重なる。「同時にしゃべりだして言葉が―・る」」(goo辞書)という説明が見つかる。

ところが、「意見がかぶる」「考えがかぶる」は、これらと違うのではないか。その理由を考えたところ、次のような感じかなと今は思う。

①辞書に載る意味での「かぶる」は、色や音、発言あるいはフィルムといった具体物の重複である。客観的にダブっており、それにより色や音などが変質する。

②これに対して考えが「かぶる」とは、同様の考え、近い考えを指しており、抽象的な話である。よって、それらが「かぶる」ことがあっても、互いに影響を及ぼすことはない。独立したままである。

何ら意識していた訳ではないけれど、こんな点で自分勝手に言葉の線引きをしているのかもしれない。だから、私は違和感を拭えないのだ。

もちろん、これまでも書き散らしているように、言葉は時代によって移り変わるから、昔を懐かしんでも仕方がないことは承知している。ただ、移り変わりの過渡期だからなのだろうか、頻繁に聞こえるように思われ、より鬱陶しさを感じるのかもしれない。まさに、言語は思考を支配する、違和感のある言語に触れると落ち着かない、といった辺りか。

[PR]
by walk41 | 2017-07-23 17:13 | ことばのこと | Comments(0)

生きる力を奪う人

ある院生から大学院の様子を聞く(京都教育大学の学生ではない。念のため。)

その君の指導教員の対応が恐ろしくまた貧しく、大学院生活を続けるかどうかを悩むほどだという。授業に15分から30分ほど遅れてくるのは茶飯で、この間は、授業前日の深夜、Lineで「休講にします」と連絡があったらしい。それを読むことなく大学に来た学生は当然のことながら脱力する。その後、その教員と会った際も「ごめんねぇ」と説明なく済まされたとのこと。なぜ休講だったのかの説明がないままに。前日の夜に「疲れたから、明日の授業は休講にしよう」と決め込んだということか。

ゼミの様子も同様で、無断で遅れて来ては、学生が用意したレジュメとはおそらく関係しないだろうお喋りに時間を費やすそうだ。論文指導の時間は文字通り、論理に関わる話をしなければならないのに、「私は感性の人だから」「ネガティヴなことは考えず、楽しくやりましょう」と嘯くとも聞いた。授業回数の半分を学生の自己紹介に使ったり、シラバスとは全く違う卒論の紹介やこれからの論文構想について話して、と進めるような教員も別にいるとのこと。どこかの教科書にある目次を写したかのようなシラバスと実際の授業とが違っていることは「臨機応変な対応」とは異次元であり、二重帳簿そのものだ。

さて、先の教員に戻ると、授業回数を確保するために土曜日にも当てられている授業について学生が尋ねると、「やらない、やらない。土曜日なんて」と返したという。おぞましき「教授」である。

学生を論理的に鍛えずに、何が論文指導なのか。「名目上の時間だから」と話すとも聞く。自らが所属する組織に対する、入学する学生に対する不誠実さ、さらに公的資金を使っている点で納税者に対して給料泥棒といってよい。

こんな人と時間を過ごすことで、関係する学生はいたく生きる力を奪われることだろう。論文への展望が開けず、その「問題教員」と会わなければいけないと思うだけで滅入るような精神的ダメージを受けつつ、学生を続けなければならないという理不尽を与えられるのだから。いったい何の罰ゲームなのだ。

先の拙ブログで「なるほど」と記したが、生きる力は学校教育業界では教育を通じて獲得するべき/できるものと措定されがちだ。けれど、実は自らの生きる力は他者によって促され、また潰される。自分だけで生きる力を得ることは難しい。だから、自分の生きる力がより高まるように、自身の周りの環境を整えるべきだが、それでも叶わないことは少なくない。

この君のように、不本意に不幸な環境に置かれた場合、ほとんど為す技は残されていない。大学の自治や教育の自由は、厳しい自律性に支えられる。それに耐えることのできない「教員」をどうすればいいのか。おまけにそういう教員はまま、自分を客観視できない。「いい教員」だと思っていたりするのだから。

これに対しては、情けないことであるが、学長や学部長、あるいは校長でも答えられない。難問である。どうすれば、「学校教育の質保証」は成り立つのだろうか。

[PR]
by walk41 | 2017-07-21 22:25 | 身体 | Comments(0)

生きる力

家人と話をしていて、身内ぼめながら、とても感心することがあった。

曰く「生きる力とか言うけれど、誰かのために頑張ると思えれば、その人が生きる力を与えてくれているってことでは?」。

鋭いです。教育議論はともすれば、自分が持つべき力という前提でおしゃべりをしがちだけれど、他者のために、他者を励みに、生きる力を得るという立論は、実にしっくりくるではないか。

コミュニケーション力ほか、「〜力」は今なお興隆しているけれど、こうした言葉の遣い方のそもそもの前提をどれだけ問うているだろうか。自分でできることなど、たかが知れている、他者によってこそ力が引き出され、自身が生きる力を結果的に得ているという実際により注目するのも大切ではないだろうか。

だとすれば、生きる力を持つとは、自身のあり方もさることながら、自分の周りに自らのやりがい、生きがい、喜びをいわば用意すること、そうであって初めて、自身が生かされる、と導ける。個人単位で「学力」を測ることの愚かさ、周りがあってこそ自分が存在するということに気づかない幼さを反省することができる。



[PR]
by walk41 | 2017-07-19 23:27 | ことばのこと | Comments(0)

教員の有給休暇

ドイツにてフィールドにさせてもらっている学校があり、今度また伺うので日程等の打ち合わせを電子メールでしている。

日程が決まったメールの末尾にこうあった。「いい夏休みを。こちらは3週間、クロアチアで過ごします。」

今さらながらだが、年度変わり目の期間(ドイツの学校は9月から新年度)について、こんなお知らせができる校長って。

ちなみに彼は、第1学年から第10学年までの生徒、しかもキャンパスが二つに分かれている学校の校長である。在籍する生徒は数百人、教員も50人は下らない。こんな学校の校長がかくも長きの(日本標準で)休みを公然と取るなどと考えられるだろうか。

そんな話を大学院生にしていたら、こう返ってきた。「知り合いの高校の管理職の先生の話ですが、こういう立場になったら、外国はおろか長期の旅行も諦めなければいけない、と聞きました。」

さもありなん。そんな勤務状態で、斬新なアイディアや思い切った意思決定などできるのかしらん。教員の職能成長と唱導するのならば、グローバル時代に外国経験の一つもできるように。ところで、これって誰に言えばいいのかな。

[PR]
by walk41 | 2017-07-18 22:14 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
nation
at 2017-10-17 12:45
好みの幅広さ
at 2017-10-15 12:43
スクールソーシャルワーカー
at 2017-10-14 10:59
「奏を功する」
at 2017-10-12 20:20
付いた力は自分ではわからない
at 2017-10-11 23:31
まずは良かった
at 2017-10-09 19:14
Fiasko/fiasco
at 2017-10-08 10:40
青か緑か
at 2017-10-06 09:39
丁寧な言葉遣い
at 2017-10-05 10:26
目標を実現することが即、教育..
at 2017-10-02 22:05
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧