学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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地毛は大切?

朝日新聞でいま特集している「学校の変なルール」。その一つである「地毛証明書」に関して、学校にとって悩ましい、けれど傍目には阿呆らしいテーマなので、ここではふざけた思いつきをお許し願いたい。

この記事にこうある。「ある都立高の副校長は『地毛を大切にするように呼びかけているので、証明書が必要だ』と言います。」

なるほど。じゃあ、加齢に伴って髪の毛が減ってきたからとカツラを被ったり、おしゃれにと付け毛をするのもダメだね。地毛は大切だから。もちろん、付け加えるだけじゃないよ。脱毛なんてもってのほか。地毛を大切にしなきゃ。さらに、地毛だけではないからね。地肌も大切にしなければいけないから、化粧もダメだよ。さて、どれだけの教員がこれに耐えられるだろうか。

かくも、教育は「黒を白と言いくるめる」ほどの暴力性を伴う。この点で同記事中、身体に関してあれこれ言うのは人権侵害だと憤る、尾木教育評論家の弁はナンセンスである。評論家とはそんな程度なのだろうが、こんな人の言がなぜ活字になるのか不思議でならない。読者の頭を悪くすることをマスメディアは狙っているのだろうか。

じゃあ、服装はどんなものでもOKなの? 生徒が教員を「〜くん」と呼んでもいいの? そもそも、学校に行きたくなければ理由が何であれ行かなくてもいいの? 残念ながらそうはいかないから悩ましく、どこで線引きをすればいいのか、と当事者は葛藤するのだ。保護者の意に関わらず、子どもを学校に行かせなさいと規定する法律が、すでに人権侵害なのだから。

だから、学校は強面で行くか、それともやんわりと臨むか、はたまたこの中間でやるのかの選択を迫られる。それは、生徒、保護者、「伝統」、教員たちの信念などによって左右されるが、それは「学校らしく」あるための保険のようなものだから、内容や度合いは一様ではない。こうして時々「変なルール」が生まれることになる。関係者が違和感を感じなければそのままだが、変だなと思うと「問題」として現れる。たとえば、宗教関係の作法など、当事者でなければ相当に変でも、「そんなものだ」と了解されているからこそ、続いているのである。

そんな線引きをしなくてもいいじゃないか、は一理ある主張だ。けれど、それは「もし、〜が起こったらどうしよう」と心配する人には届かない。旅行保険をかける人に「まあ、滅多なことで事故や事件には合いませんよ」と言っても仕方ないのと同じである。

なぜ保険をかけようとするのか。それは学校が常に多くの生徒を預かることが初期値に設定されているからに他ならない。小規模校ではルールが少なく、生徒の行動をより制御できる小学校、中学校、高校の順にルールが厳しくなりがちなのは、このためである。学校の基本形ともいうべきものが残る以上、「変なルール」は行き続け、なくなることはない。




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by walk41 | 2017-08-21 10:30 | 身体 | Comments(0)

「言い切れる正しさ」

「言い切れる正しさなんて、臨床にはないのではないか」(朝日新聞、折々のことば、20170820)

学校教育で頻繁に用いられる「実践」という言葉は「臨床」に近い。相手が病人とは限らない点で両者は異なるけれど、「ケースによって違う」「一つのケースでも同じ調子で進む訳ではない」と考えると、同様の意味合いで遣っても構わないだろう。「臨床教育学」なんて言葉を作る人もいるし。

さて、この記事中、鷲田清一はこう記している。「一人ひとりにそれぞれ事情があり、また感謝と訴訟がいつ入れ替わるやもしれない臨床の現場では、言葉は煮え切らず佇むばかり。」こう治療して下さいと了解されていたはずなのに、病状の変化によって言うことが変わるなど、きっと日常茶飯なのだろう。よって、どれ一つとして、「こうやれば上手くいく」とは言えないこと、だから、断言する言葉を発することができず、躊躇せざるを得ない、のが、誠実な態度と導ける。

ひるがえって、学校ではどうだろうか。「~すれば、~となる」と、実践の主体が教員だけかのような大いなる勘違いのもと、「いつでも、どこでも、誰にでも」できる教育方法について大まじめに「研究」する。タイミング、地域事情、個々の子どもによって、さらには、たとえ同じ子どもであっても、不動のものなどありそうもないのに。

あるいは、「あの子は~のタイプだ」「~のように児童・生徒理解ができる」と、言葉というピンで子どもを留めるかのような態度を見せる。はたまた、子どもに対して「前に、~って言ったよね」と状況が変わっていることを度外視して言質を取る。これらは、とても不安定な環境で教育や学習といったことが行われており、「こうだから」と言い切ることがほとんどできないにもかかわらず、機械仕掛けのように教員と子どもが動くかのように妄想する、まさに机上の空論、頭でっかちゆえである。

実践に近ければ「机上の空論」を回避できるわけではない。児童・生徒に直に接するところに身を置いていても、自分の知っている言葉で子どもを固定化しようとしたり、そもそも教室が自身の言動によって左右できると思い込むことが、現実的ではないという点で倒錯しており、したがって実践的でもありえない。実践的とは、何かをともかくするという意味ではないだろう。実践的とは、目的に即して合理的に思考、行為することだとすれば、医療の現場と同じく、学校においても「相手に合わせる」「決めつけない」「曖昧さに耐える」といった能力を持ち、発揮することこそが、実践的である。この点で、言葉を費やすのは罪なことだ。

それを顧慮せずに、「計画に即して実践する」「目標を堅持する」「普遍的な教育方法を開発する」といった発想や言動をとるのなら、それらは実践的でなく。合理的でもない。自己満足、あるいは自家撞着である。これこそまさに「机上の空論」を振りかざしていると言うべきだろう。「現場」にいようとも現実離れしていることは大いにある、と心することが大切ではないだろうか。

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by walk41 | 2017-08-21 09:34 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「子どもらしさ」と感情の表出

現職教員の皆さんとの勉強会、とても楽しく過ごす。

その中で、子どもの頃は「箸が転げても可笑しい」と笑うのに、大人になると「何が可笑しいのか」と不機嫌な輩が増えるね、という話から、次のようなモデルを作れるのではないかと盛り上がったのだ。

すなわち、子どもー大人、私的世界ー公的世界というX軸と、笑いの表出(発現)というY軸を設定すれば、負の相関を示すことができるのではないか、この点で「子どもらしい」とは、「わかったつもり」にならない上でも、とても大切ではないか、と。

また、これを敷衍して、いろいろな感情の表出にまで話を広げると、怒りについては子どもらしさや私的世界のいかんに影響されず、いやむしろ、X軸を辿るほど、大人になる、公的になるほどに、怒りが高まる(「キレる40,50代」)のかもしれないとも思わされる。

主体だけに因っているのではなく、文脈によって人の感情の表出が異なるとすれば、自分と周りの世界をどう認知しているかが、このことと大きく関わっていることは明らかだ。恐れを知らない、疑うことを知らない、立場や肩書きを気にしない(そもそも持っていない)人は、どのような感情表出とその前段階の感情発露をしやすいのか。

あるいは、これと反対に、恐れ不安がり、猜疑心に満ち、自分の立場を強調したがる向きは、どんな感情を生みがちで、また表出しがちなのか。

こんな点からも、教員あるいは人間を観察、理解できることを、とても興味深く思う。

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by walk41 | 2017-08-19 16:13 | 身体 | Comments(0)

人一倍

家人が話す。…人一倍ではダメだ、人の二倍、いやもっと頑張らねばいけない、と中学校時代の教員に言われたことに、今なお感謝を述べる高校生の投書があるよ、と。

この文面の限り、二つのことを思う。一つは、人一倍が、人と同じではなく二倍を指す言葉だと教員が伝えていないこと、不正確である。もう一つは、かくも素朴な、あまりに素朴な教員の言葉を真に受けて、有難いとまで思わせる教員とその背後にある学校の光背現象が見られるということである。

自分が中学生時代には、当たり前に聞いた「日本人は農耕民族だが、西欧人は西欧人は狩猟民族だ」と、大学にもなると恥ずかしい発言を教員がしていたことを覚えている。「子ども相手のお気軽な仕事」をしていた教員がいたのだ。それを批判的に(今風には、アクティブ・ラーニング風に)捉える能力もない場合は、「へえ、そうなんだ」と鵜呑みにするしかないではないか。

こうして大人の犠牲になる子どもがまた一人生まれる。子どもを御すのはある意味で容易い。けれど、そこを踏ん張って強権的に振舞わないように自制すること、それができてこそ、自律的と言うべきだろう。

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by walk41 | 2017-08-18 12:45 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

Platoon

1986年アメリカ、「7月4日に生まれて」と同じ、オリバー・ストーン監督による作品。

1960年代後半、カンボジアとの国境に近いベトナムに派兵された若い男たちが、動機はともかくも、戦闘に参加することになった。そこで繰り広げられるのは、「敵」との戦いだけではない。小隊(プラツーン)の中でもいざこざは絶えず、それは民間人射殺をめぐってピークに達し、アメリカ軍同士でありながら、殺す-殺される関係にまで至る。武器を与えられると人はより凶暴になり、入隊以前の面影を感じることも難しくなるようだ。

最終場面では、激しい戦闘のあと、負傷した主人公クリスは、敵対していた同じ部隊の先輩兵を撃ち殺し、ヘリコプターで後方に送られるところで映画は終わる。何のための戦いの犠牲なのか、戦争を通して浮き上がってくる人間の醜さとはここまで酷いものか。あるいは、社会的に低位な人ほど、戦争に直接に参加しているという台詞をどう聴くか。戦闘シーンの激しさと同時に、容赦ない殺戮(相手を殺すことに躊躇しない)の模様に打ちのめされてなお、感じ、考えさせられる。

こんな作品を見るに、ドイツのクラウゼヴィッツが『戦争論』(1832年)において、「戦争は政治(外交)の延長である」と述べたとされるけれど、20世紀の戦争については、当てはまらない。少なくとも、政治(外交)のように、それなりの見通しや落としどころ(講和)を伴っておらず、非理性的な恨みつらみ、怨念、執念、意地、プライドといったものが支配的だと知ることができる。

第二次世界大戦にて、アメリカ兵の発砲率があまりに低く、それを改めるために、射撃訓練のスタイルが変えられたとも聞く。人間が人間を殺すということが、本能的に難しそうだという見立てのもと、どのような戦争ならばありうるのかを考えるべき、とも思う。

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by walk41 | 2017-08-16 23:25 | 映画・ドラマ | Comments(0)

〜しか〜ない

日本語学の教科書にはきっと載っているのだと思う。それを調べずに言うのはものぐさの典型だけれど、お許し願いたい。

〜しか〜しない、という表現、「しか」は「だけ」「のみ」と同義だとすれば、後半が否定文になると、前半を排除する意味になると思いきや、前半だけを肯定するという意味になるというのが、とても不思議だ。

彼しか知らない→彼のみ知らない→彼だけが知らない、になってしまい、
彼しか知らない→彼だけが知っている、という意味と正反対になってしまう。

私たちの頭はどのような論理で、「彼しか知らない」を「彼だけが知っている」と翻訳しているのだろうか。論理は関係なく、そういうことなの、とただ暗記しているだけなのだろうか。

もし、後者であれば、「わかる」だから「できる」ではなく、「わからない」から「できる」あるいは「わかる」と「できない」ということになる。さてこれは、教育ー学習の論理に即しているだろうか。

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by walk41 | 2017-08-15 19:34 | ことばのこと | Comments(0)

7月4日に生まれて

ロン・コヴィック氏の実話に基づく作品、トム・クルーズが主演した、1989年のアメリカ映画である。

「正義のための戦争」などないこと、戦争は戦闘から離れれば終わるものではおよそなく、本人と家族ほか周りの人々の生涯に及ぶ影響を与えることを、改めて伝える作品と観た。

観終わってから家人と話したのだが、太平洋戦争末期の日本軍が取った、一連の特別攻撃(特攻)という作戦、すなわち、神風、回天、震洋、桜花といった、飛行機、魚雷、ボートなどによる体当たり作戦は、帰還をつもりする必要がない点で、「きれいな戦争」に一役買うことになっていたねと。なぜって、負傷した兵士を救出し、治療して、できれば故郷に帰すという手間を省くことができたからだ。

帰還してPTSDによる社会問題も起きず、障害者手当を支給する必要もない(遺族年金は払わなければならないけれど)。さらには、反戦論者になる懸念も要らない。もちろん、家族や友人、知人の悲しみは避けられないけれど、生前の美しい姿が脳裏に残されるのに留まる面もある。四肢を失い、アルコールやドラッグに溺れる様子を多くの人に見せるより、戦争遂行者にとって好都合だったとは、言い過ぎだろうか。

とまれ、いま、アメリカと北朝鮮との緊迫した様子が伝えられているけれど、どんな方法であっても、武力行使がなされないことを願うばかりである。

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by walk41 | 2017-08-14 22:54 | 映画・ドラマ | Comments(0)

耐えられる能力

耐えると聞くと、暑さや寒さ、痛みに耐えるとイメージする人もいるだろうけれど、別の耐えるもある。それは、わからなさに耐える、あるいは、わからないという落ち着かなささ、気持ち悪さに耐えるということである。


例えば、他者の話に耳を傾けるという場合、たどたどしい、要領を得ない話ぶり、自分に何が求められているかがわからない状況は、なかなかくたびれる。「つまりは?」「結局のところ?」と声を上げてしまいかねない。そこを耐えられるか、傾聴できるか、は能力だろう。


あるいは、何か我慢できなくなり、感情的な爆発をしかねない時に、一歩引いて、自身をクールダウンさせることができるかどうかも、能力いかんである。「許せない」「我慢ならない」と即断する前に、一呼吸を持てるかどうか、「怒りたくなったら10を数える」という教えも、このことを踏まえてのものだろう。


この文脈で言えば、我慢強くあるとは、できるだけ耳を傾けること、状況を見据えること、敢えて判断を保留して、沈黙や静止状態を維持すること、と具体化できる。すぐに反応、行動しない、けれど多面的に観察、考察している、そんな逞しさ、したたかさを自分も持ちたいと思う。



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by walk41 | 2017-08-13 16:29 | 身体 | Comments(0)

negative capability

否定的能力、否定的なものに対する能力とも訳されると聞く、この言葉を最近知った。

今からちょうど200年前に、イギリスの詩人、ジョン・キーツが22歳のとき、以下のように二人の弟に送った手紙の一節にあるそうで、生涯に一度しか用いなかった言葉だという。誰が見つけてくれたのか、面白い発想に基づく言葉だと思う。

..I mean Negative Capability, that is when man is capable of being in uncertainties, Mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact & reason. (人が、事実や理由を得ようといらいらすることなしに、不確実性、不可思議、疑惑のなかにいることのできる力、それを私はNegative Capabilityというのだと思います。)[https://www.lifeworks.co.jp/labo/2015_09_071001.html より拝借。]

このような言葉を知ると、いろいろと発想に広がりを持てる。たとえば、「すぐにわかるとは、否定的能力が低いという点で問題ではないか」とか「確実か不確実かをそれなりに見分けられる能力があってのことだろうな」とか、教育-学習の議論にも密接するテーマだ。

逆転の発想という点では、赤瀬川原平が造語した「老人力」にも通じるだろう。記憶力が落ちるのは、つまらないことを覚えておかないという能力が高まること、早く歩けなくなるのは、ゆっくりと世界を眺める楽しさを知るからこそ、と捉え直せば、老いることの何を嘆く必要があるだろうか、という話である。

啓蒙、啓発の時代が直前に迫っていただろう200年前のイギリスにおいて、不確実なこと、不可思議なことって、どんなことだったんだろう。





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by walk41 | 2017-08-13 12:45 | ことばのこと | Comments(0)

悲しいとき〜

教員研修にて久しぶりに、「いつもここから」の「悲しいとき〜」を皆さんに作ってもらった。ご紹介したい。

悲しいとき〜
◯スピード違反をして警察に捕まり、「教師は子どもにはルールを守るように教えるのに、自分は守らへんねんな」と嫌味を言われたとき〜

◯出張の時にワイシャツを忘れ、ポロシャツにネクタイを付けて行ったとき〜

◯クラスの子どもに「先生は明日、出張です。替わりに◯◯先生が来てくれます」と話したら、子どもたちが拍手をして喜んだとき〜

◯出張先の学校の玄関で、後ろの方に「どうぞお遣い下さい」とスリッパを揃えて言ったら、「ここの校長です」と返されたとき〜

◯クリーニングに出したばかりの布団で、児童におねしょをされたとき〜(養護教諭)

◯鉄棒の練習を手伝っていたら、顔にキックをくらったとき〜

◯子どもと一緒に鬼ごっこをしていたら、足がもつれて手のひらを怪我、「大丈夫?」と心配されながら子どもたちに保健室に連れていかれたとき〜

◯人権啓発懇談会の準備を、前日の23時までやったのに、誰も学校に来なかったとき〜

◯カレーの給食だと気づかずに、白いシャツを着て行き、汚してしまったとき〜

◯授業内容に絡めた冗談を言ったのに、誰一人気づいてくれず、その冗談をなかったことにして授業を進めたとき〜

◯喫煙者の自分が、タバコの害を子どもに話しているとき〜

◯研究授業の事後研究会で「子どもたちがよく頑張っていました」という意見が多かったとき〜

◯クラスの子どもに「先生って、何の仕事してるの?」と尋ねられたとき〜

◯新年度、学級担任が発表された次の瞬間、子どもたちにため息をつかれたとき〜

◯研究主任をまあまあ頑張っていたのに、周りの人は副主任を主任だと思っていたことを知ったとき〜

◯リップクリームを塗って行ったら、子どもに「先生、バターめちゃ食べたやろー。油ついてんで」と言われたとき〜

◯「先生!」と呼ばれ抱きつかれまでしたのに、人違いだったとき〜

◯生徒に「先生の身体のために痩せて」と頼まれたとき〜

…いかがだろうか。教員の皆さんが懸命に仕事をされ、それゆえの「悲しい時」のあることが伺える。こんな失敗ほかエピソードを笑いあえる関係が、学校でも多くあることを願う。



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by walk41 | 2017-08-12 13:43 | 笑いのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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