学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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「自分くらい」が自分の首を絞める(社会的ジレンマ)のだけれど。

本来は医薬品なのに、美容にも有効だからと、多めにさらには家族の分もと処方箋を求める患者が増えているという(朝日新聞、20170831)。保険適用だと自己負担は少なく、市販の類似するものよりも、はるかに安く手に入れることができるからとは、確かに魅力的だ。

ただし、上の新聞記事でも指摘しているが、患者と病院のコスト意識の低さがこの傾向を助長するならば、ただですら医療費は増大しているのにこれを加速させることになり、近い将来、保険適用外の医薬品が増えてしまいかねない。回り回って、前ならば安く手に入った医薬品がそうでなくなることが起こりうる。これが社会的ジレンマと呼ばれる現象だ。

「自分くらいこうしたって、大したことはないだろう」という見立ては、「自分」が限られる規模ならばその通りなのだけれど、それが大量になると、文字どおり「大したこと」になってしまう。たとえば、本来はごみ置き場ではないのに、そこまで行くのは面倒だからと、近くの空き地にごみを放棄する。不適切に捨てる人が少ない間は、誰かが片付けてくれるけれど、たくさんの人がこれをすると、その場所はいつの間にかごみ置き場のようになってしまう。本来ならば必要のなかった回収費用がかさみ、ごみ袋の有料化、さらには回収頻度の低下等へと発展すると、生活に支障が生じる。「ごみを楽に捨てられてラッキー」と思ってしたことが「ごみを捨てることが難しくなる」結果を導く点で、これも社会的ジレンマである。「自分くらい」が少数に留まる場合、問題は顕在化しにくいけれど、この両者が逆転しかねないような事態になると、話はまったく違ってくる。

と同時に、このジレンマについてはおもしろいことにも気づける。というのは、誰もこうした「ルール違反」をしないような事態とは、極度に同調圧力が働いている証だから、ある意味で異常である。そうではなく、「ほどほどに」ルールが守られることこそが重要ではないのだろうか、と。

思い出したのは、ずいぶんと昔の学校調査のことだ。その小学校のPTA総会の保護者の出席率は100%に近く、休むと回りから「どうしたの」と尋ねられるくらいと聴いた。運動会などの行事における保護者の協力も徹底しており、ほとんどの方が参加されるのだとか。この学区地域では、近所のおじさんが勝手に他所の家に上がり込み、冷蔵庫に入っているビールを空けても問題にならないとも伺った。まったく凝集力の強い地域社会である。こうしたところでは、逸脱者は生まれにくい。けれど、だからといって「望ましい」かと問われれば、手放しで喜ぶべき状況でもない。学校が嫌な子ども、家庭教育を大事にしたい保護者、プライバシーを重んじる家族にとっては、息苦しいこと、この上ないだろうからだ。一つの「望ましい」を価値化することは、全体主義的である。

つまり、「みんながルールを守る」のは無理をしすぎている点で問題があり、かといって「多くの人がルールを守らない」のも規範が正統性を持ち得ない点で問題になる。「多くの人がルールを守る」もと、「少ない人がルールを守らない」ことを冷ややかに見る、ときに厳しく指弾することで、「ルールを守らない」方向へと雪崩を打たないようにする、この辺りが「健康な社会」の条件ではないだろうか。



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by walk41 | 2017-08-31 17:00 | Comments(0)

「余計なこと」で経営資源を無駄にしてはいないか

家人から、小学校時代の思い出話を聴く。

高学年だった時の給食の時間、担任だった教師は、牛乳瓶の紙キャップを置くためのザルをどこから持ってきたのか、班ごとに用意する一方、牛乳が滴れることからそこにティッシュを敷くように言ったという。また、誰がティッシュを用意するかは、それぞれの班の「自治」に任せるべく、児童につもりさせていたのだと。

4人ほどの班だが、いつの時代も同じかどうか、多くの男の子はティッシュなど洒落たものを持たないから、勢い女の子がティッシュを出すことになる。さらに、女の子の中でも、いつも携えている子とそうでない子に分かれるから、家人は結構な確率で、ウサギの図柄が入ったような可愛い系のティッシュを提供することになった。毎日のことだから、子どもには結構な負担だったことだろう。今は言う。「そういうものを子どもに出させるのは、おかしいと思う。」

加えて、誰もティッシュを出せなかった時、担任は児童を叱ったとも聴いた。それって本末転倒だろう。ジャムやマーガリンの包装容器と同じように、食器を下げる時に一緒に片づければ済む話じゃないの。なぜそうしなかったのだろうか、うーむ。

こんな儀式があったのはこの学年だけだった、ということは、学校の方針でも何でもなく、学級担任教師の「好み」に過ぎないことを、児童に押し付けたものだったこと、要らない(この教師にとっては必要な)儀式のために、自らの認知的、感情的資源を浪費し、しかも児童に徒らなストレスを与える点でも、無駄なことであった。そんな拙い意思決定をしたのも、担任教師である。

この教師は、他の教員たちと情報や意見の交換しなかったのだろうか、学校管理職はこのことに気づかなかったのか。学校では副校長、主幹・指導教諭と職位が増えて、統制が強まった、教員評価が入って窮屈になったと言う人もいる。けれど、裏を返せば、どれだけ個々の教員が裁量を持ち、言わば好き勝手にしていたのか、今なおそれを謳歌しているのか、を見つめる必要もあるというべきだろう。

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by walk41 | 2017-08-30 07:56 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

裁判官ぶる教師

読売新聞Web上の「発言小町」というコーナーをよく見せてもらっている。そこに、35年前の学級担任だった女性教諭の理不尽ぶりを投稿した主がいた(http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2017/0826/816715.htm?g=01)。


小学校高学年に転校生だった投稿主が、クラスで激しいいじめに遭い、持ち物を壊される、汚されるという被害も受けたことから、保護者が学校に相談したという。


すると、驚くべきことに、学級担任だった教職三年目の女性教師は、クラスみんなの前で、こうした行為をしたのかと尋ね、していませんと声の上がるのを待って、次のように宣ったらしい。


先生はみんなを信じています。いじめなんかする人はこのクラスにはいない。そんな子が一人もいないことを、先生は一番よく知っています。(投稿主に向かって、壊された鉛筆を握りながら)こんなことまでして、あなたの心は本当に醜いですね」


35年と十分な時が流れたにもかかわらず、投稿主は今なおこの季節を迎えると憂鬱になることがあるらしい。気の毒なこと、この上なしである。


学級経営という名前の「自分好みの学級づくり」を志向すると、学級担任は教員ではなく教師になり、マイルール、マイウエイと我流を行き渡らせようとする。学校あっての自分の職務なのに、そんなことお構いなしに、専制君主と化す。これが学級王国である。


ここに、学校のメンバーという組織人であること、また国家以下の公権力が控えていてこそ自分は「上から目線」を取りうる、ということを忘れた恐ろしさが見える。そこに公共性は担保されない。法令遵守(コンプライアンス)も一顧だにされることはない。それが、上のようなおぞましいエピソード生み出す。いじめがあるのかどうかの事実を調べる立場なのに、「いじめる子はいない」と一足飛びに判決まで下しているのだから。弁護士も裁判官も要らない横暴ぶりである。


子どもがまだ小さい、小学校で働く教員に対して強く思う。なぜ自分が「先生然」とできるのか、その由来について知り、考えるべきだと。相手が従ってくれているから「何となく」偉そうに振る舞うのではなく、どうして相手が少なくとも表向き従順なのか、を不思議に思う感性を保ってほしいと。



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by walk41 | 2017-08-29 14:03 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

後手後手かなあ

来年度予算に計上すべく、文部科学省が教員支援策をまとめていると報じられている(朝日新聞、20170828ほか)。先日、年収100万円台で、計画的に進めにくい教員の業務に対する臨機応変な補助をお願いできる人が見つかるだろうかと記したが、他のアイディアにも首をかしげるものがある。多忙な学校現場を何とかしたいと思う、文部科学省の努力は認めるけれど。

たとえば、「外部の部活動指導員7100人への補助」に15億円を想定しているという。一人当たり20万円くらいだ。補助率を何割くらいで想定しているのかわからないが、プリント補助などを担うという「スクール・サポート・スタッフ」が3分の1の補助というのに倣うと、部活動指導員に約60万円を支払うつもりをしていることになる。

時給を1500円とすれば、勤務可能な時間は年間で400時間、月あたり33時間ほどになる。月曜日から金曜日までの平日は1時間半、土曜日または日曜日は4時間と考えると、週あたり11.5時間、月に3週間くらいならば担当できるだろうという算段だろうか。ところが、これは直接に生徒に接する時間のみであり、その準備、記録整理など、事前と事後の時間は含まれていない。もちろん、大会ほか対外試合への引率の時間も入っていないだろう。

くわえて、「スクール・サポート・スタッフ」と同じように、そもそも一日あたり2時間あまりという短い時間を、毎日のように工面してくれる人がどれほどいるだろうか。現実的な線で考えている人に対して「無い物ねだり」になり申し訳ないけれど、現状を微修正しようとすると、木に竹を接ぐ格好になり、どうも上手く行かないように思うのだ。後手後手の感を否めない。そうではなくて、部活動を学校の外に持っていく、あるいは、補助ではなく、学校スタッフとして部活動(のみ)担当する新たなポストを設ける、といった抜本的な方向でなければ、

そこではより大胆な、けれどもある意味で当たり前とも言えるアイディアが求められる。教育課程に含まれない部活動に従事するスタッフの費用を、公的に支出するのを多くの人は認めないだろうと踏んで、部活動は私的活動だと明確にするのだ。部活動をもっとやれという熱心な保護者も多いということならば、その費用を当該の保護者に出してもらってはどうだろうか。

年間100万円くらいで来てくれるのならば、部員数で割れば、たとえば一人当たり3万円、あるいは5万円。この水準の費用の負担を保護者や生徒に求めることは、あくまでも個人的には、さほどアンフェアとは思われないのだけれど。「学校ではないけれど学校的な活動をしている」学習塾に充てている私的費用を考えれば、部活動も同様だと主張することが、無茶苦茶だとは言えないだろう。いかがだろうか。




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by walk41 | 2017-08-28 21:46 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

やっぱり「上から目線」であってこその教育

「相手の気持ちをくみ取り、自分で判断して行動できるようになってほしい」と記した、小学校社会科の指導計画を目にする。うーむ、これは社会科の目標なんだろうか、そうだとしても、相手の気持ちなど汲み取ることができるんだろうか、と思いながら、駅に向かった。


すると、60代だろうか、いわゆるむさ苦しいオッサンが、別の客に対応しているにもかかわらず、駅員の袖をはたくように、「京都行きは次、何分や」と訊く。目の前の電光掲示版に示されているのに、である。それでも、駅員は親切に「55分です」と答えたら、このオッサンは次に「いま何分や」と宣う。おいおい、それは人にものを尋ねる時のセリフとちゃうやろ、と心の中でうそぶく。「50分です」と駅員はあくまでも丁寧だ。偉いなあ。


この御仁はまだ終わらない。「55分やな」と駅員に畳み掛ける。ええ加減にせえや、あんた。さすがにというか「そうです」と駅員の声が上がった。そりゃ、腹も立てるだろう。


困ったもんだ、と券売機に向かうオッサンを見たら、改札口を通り際に、持っていた帽子をこちらに向かって振り回し、こっち見るな、と闊歩していった。


さて、こんな人に相手の気持ちを汲み取ることを期待していいだろうか。そもそも、自分の気持ちを汲み取れているだろうか。無理だよね、きっと。


ことほど左様に、教育という世界に長くいると、人を変えること、いささか過激に言えば、操作することに違和感を持たなくなる。そこで抜け落ちるのは、操作できるのかという技術の観点と、操作していいのかという倫理の観点である。このいずれも、できるだろう、そうすべきだと、根拠のない「できる論」と、教育する側の善性を疑わない「べき論」が跋扈する。


指導目標や指導計画など、相手の子どもにとっては、どうでもいいことである(もちろん、先の御仁のような人ほか、大人にとっても)。子どもに関わることなのに、当の子どもには知らせず、ましてや相談もせず、勝手につもりをすることが暴力的でなくて、何だというのだろうか。


「上から目線」を保たなければ教育はまったくやりにくい。けれど、それが罪深いことでもあるという自覚と対応する言動を伴わなければ、恐ろしいことである。この両者を持ち得てこそ教育に携わることができる。このための指向性、思考と行為に関わる体力が必須な所以である。


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by walk41 | 2017-08-27 11:28 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

リフレクションは仕掛けられるか

新聞の投書欄を読んでいて、あれ、見覚えのある名前だと思い当たった。ゼミは違うけれど卒業生だ。

もう小学校教員になって5年目くらいだろうか。初任期をおおよそ過ぎ、「一人前」に仕事をできるようになっていることだろう。

彼女は記している。「五年日記」をつけており三年目になるが、子どもとのやりとりで、ともすれば「やりがい」のあり過ぎる慌しい日々を送る中、以前の日記を読み返すと、今とは違う受け止めをしていることに気づかされる、と。読み返すことで、また頑張ろうと元気をもらえるのだろう。

大変だろうが、まずは元気に過ごしている様子を知るに嬉しく思うと同時に、こうも考える。こうした振り返りのできる教員は、たとえば日記というツールを通して、リフレクションできる仕掛けを自ら設定しているのではないだろうか。

教員の職能成長・職能発達にとって、リフレクションの重要性が指摘されて久しく、実習を終えた学生の振り返り、校内研修での話し合い、集合研修での自己省察と、何でもリフレクション状態にまで陥っている(ゼミ修了生の嵯峨根早紀(2017)「教員の力量向上における『reflection』議論の分析ー1990年以降の小学校教員を対象にした文献を中心にして」を参照)。そこで問われるべきは、この言葉が濫用されているという点もさることながら、それがどのようなものであれ、「振り返りの機会を設定すれば、反省的思考が促される」と想定することが誤りではないだろうか。

上の彼女のように、自分の様子を観察し、周りとの関わりを記述する姿勢や能力を持っている教員こそが、リフレクションの機会を得ているのであり、そうした場やチャンネルを本人以外が設けても、はたして有意義だろうか。「研修に来てほしい教員は来ず、来なくてもいい教員が研修に来てくれる」とボヤいた研修担当の指導主事の言葉を思い返すと、職能成長はつまるところ、その人に相当程度まで依るのであって、周りから研修や修養と持ちかけても、きっとダメなのだろうなあと思わされる。

と同時に、その人の内的な指向性にまで迫るような問いかけがあれば、リフレクションが促されるかもしれない、と考えるならば、それを担う講師や主任あるいは管理職が、自身を開示して問題を挟み、相手と対峙する必要があるとも感じる。はたして、そんな能力や覚悟は当事者にあるだろうか。

教職が人格的な行為であり、その人ならではの性格を色濃く帯びていることを踏まえれば、通り一遍の質問や、マニュアル化された手順で、相手が変わることが期待できるはずもない。やり方や手法として研修や講習が設計されること自体が拙い、とも知るべきではないだろうか。

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by walk41 | 2017-08-26 12:47 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

どこまで分業できるか

教員の長時間労働を改善するため、文部科学省は教員の事務作業を代行する「スクール・サポート・スタッフ」を全国の公立小中学校に配置する新制度の導入を決めた。…(中略) 文科省によると、サポート・スタッフは都道府県教委がパートタイムの非常勤職員として雇用し、来年度は全国約3万校ある公立小中学校のうち規模の大きい3600校に配置する。文科省はその人件費の3分の1を補助する。担当する業務は児童生徒に配るプリントのコピーなどの授業準備のほか、校内掲示物の作成、行事や会議の準備・片づけ、調査統計のデータ入力などを想定している。(読売新聞、20170825)
……
スクール・サポート・スタッフ」の配置に、都道府県教育委員会に14億9000万円の補助を予定ということだから、一人あたり41万円ほど。これが三分の一ということは、年間123万円ほどで雇うことになる。時給を仮に1000円とすると、年間労働時間は1230時間、月あたり100時間くらい、週に23時間程度だろうか

この10年間に教員の勤務時間が増大しているという「教員勤務実態調査」の結果を受けてのアイディアだけれど、二つのことを考えなければならない。

①上のような報酬で業務に適う人が得られるかどうか。「これを40部印刷しておいてください」と大学の非常勤先などで、予め授業レジュメを渡しておけばやってもらえるような業務ならば、イメージは湧く。けれど、行事や会議の少なくとも準備となると、内容をよく理解しておかなければならない。それなりの学歴や経験も必要だろう。そうした人を、年間100万円代で見つけることができるだろうか。

ちなみに、入学式・卒業式や文化祭などの準備は、一時的であれ多くの頭数が必要になるから、学校あたり一人ふたりの「SSS」(スクール・サポート・スタッフ)がいても、それほど助かるわけではない。それは、教育実習中の学生に手伝ってもらうというイメージを超えないのだ。

②①とも関わるが、業務が固定的であって、そこに人が付くというよりも、流動的な業務を人が追いかけるという趣きが強い学校の業務(榊原「学校組織構造のメタファー」『京都教育大学紀要』113、2008)は、その性格ゆえに個人の裁量に委ねられる部分が多く、「どうやってほしいかを説明するのに、かえって時間がかかる」と反応されかねない。

「学級便り」の印刷を例にすれば、それがいつ出来上がるかを明言できず、SSSにいつ頼むかを事前に決めることができない。反対に「頼みたい時に、いない」ことが起こるし、複数の教員から頼まれるであろうSSSも、仕事をしにくいだろう。

仕事(業務)は歴史的に個人完結型であり、それが生産規模の拡大に伴って分業化されてきた。そこでは、個人で完結する場合よりも合理的であるために業務の単純化、明瞭化が不可欠である。ところが、学校での業務の多くはこれと反対の方向にある、つまり、個人でやる方が早い、適切だからこそ、個業的な性格を色濃く持っていると解すべきではないだろうか。だとすると、一つの仕事を多くで分担するよりも、仕事の単位を小さくして、それぞれが担うという方が合理的ということになる。

だから、教員数を増やして学級や授業、あるいはいわゆる校務分掌の単位を小さくすれば負担は減るが、業務の単位を変更しないで、サブ的な人を増やすのは、部分的に助かるものの、やりとりに割かれる労力や気遣いなど、負担はかえって増大する面もある。教員間ですら、ティームティーチングは不評なのだから。

以上、教育労働の多くは個人完結的だと捉え、業務の単位を小さくする(教員数を増やす)ことの意義を踏まえつつ、それができない場合は、分業により適した業務をサブ的な人に担ってもらうという、二段構えの発想が必要ではないだろうか。

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by walk41 | 2017-08-25 10:12 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

怖い自動販売機

朝日新聞デジタル、中村江里子「パリからあなたへ 自販機で買う時は『無駄なお金を使うかもしれない?!』という覚悟を」(20170822)を面白く読みました。パリの自動販売機事情を紹介しています。

その中に、コインしか使えない、商品が出てこないこともあるので、出てくるとホッとする、お釣りが無事に返って来たことはあまりない、という行で、南ドイツでも似たようなものだなぁと思い出しました。

私は飲み物やお菓子の自販機をまず利用しないので、わからないのですが、 電車の切符を買う時に同じようなことを感じます。私の知る限り、お札は使えても20ユーロまで、50ユーロ以上は受け付けません。しかも、お札はなかなか飲み込まれず、戻ってくることもしばしば。うまく機械に入ってくれただけで「やった」と小躍りします。クレジットカードも受け付けるとありますが、読み込まれないことが多いです。しかもクレジットカードを使えたとしても、金額にもよるのでしょうが手数料を自動的に取られます。

また、お釣りが戻ってくることはなかなかないのです、これは本当の話。「トラブルがあればこちらに連絡を」と電話番号が書いてありますが、そんな気になるはずもなく、諦めることになります。ドイツ人の友人に愚痴を言うと、「みんな、時間を急いているし、そのままになることが多い」と返ってきました。こんないい加減なことが日常なんて、絶句ものです。

ミュンヘン駅構内のコインロッカーで、往生したことも思い出されます。1時間いくらだったか、預けたのはいいのですが、2時間ほどして戻って来たら、表示されていたのは6時間ほど預けた金額に。びっくりしましたが、取り出さない訳にはいきません。けれど、20ユーロ弱と大量の小銭を持ち合わせず、近くのキオスクに両替を頼んだら、規則で何ユーロ以上は小銭に替えられないと言われ、お店をハシゴすることになりました。電車の時間は迫ってくるし、結構なストレッサーでした。

何気なく利用している自動販売機ゆえか、その素晴らしさになかなか気づけないのですが、日本のそれは大したものだと思います。一万円札までがたいてい使える、クレジットカードも問題ない、お釣りが出ないなんて想像できない、(コインロッカーに対しても)ICOCAカードなども使える、災害時には無料で配られる設定のものもあると、嬉しい意味で驚かされます。関係する方々のアイディアと努力に深謝です。

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by walk41 | 2017-08-24 10:20 | ドイツのこと | Comments(0)

非言語に見られる自己認知と自己主張

youtubeを見ていると、道路上のトラブルを特集したものに出くわす。

怖いモノ見たさで覗くと、交通法規無視で暴走するクルマ、接触しかけたのか怒りでクルマのドアを激しく蹴るライダー、合流地点で入れる入れないのバトルを繰り広げた後、あろうことか自分のクルマを相手にぶつける輩と、驚くシーンが満載である。

こうした映像を見ていて思う。実寸よりは大きいけれど、クルマは自己主張のツールでもあり、その前提として自己認知が伺われる点で、「クルマとドライバーのありよう」を考えるのは一興だろうと。

たとえば、クルマに自身を投影させたい向きにとって、その大きさ、デザイン、色、性能、これらに伴う価格は、自己願望の投影である。この点で、借金をしてまでクルマを買うのは、「実物大以上の自分を求めているから」と解するのは、意地悪だろうか。所謂いかついクルマで「これに乗ってる俺って…」と思うのは、クルマという非言語を通して自分の強さ、大きさ、金持ちさをアピールすることでもある。お金を出せば選べるナンバープレートの番号に拘る人もいる。過日、ルール無視いっぱいの二台のワゴン車と遭遇したが、同じ数字のプレートナンバーだった。「お友達」なことを確かめたいのだろう。また、「・893」のナンバープレートを付けて無茶な横入りをした上、自分の前には決して入れなかったクルマを見たとは、家人の談だ。

ちなみに、サングラスは相手に自分の目を見られずに、相手を見ることができるツールである。「目は口ほどにものを言う」がゆえに、目力がないと自覚していれば目を閉ざすしかない。もちろん、目を開けない訳にはいかないから、サングラスを遣う(光に弱い方などは別にして)。相手の目を見ることができない相手は、非言語上のメッセージのやりとりができないから、不利になる。シールドいっぱいのクルマは、このサングラスと同じ理屈で見えないことによる不安を回りにかき立てる。まことに迷惑な話である。





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by walk41 | 2017-08-23 11:41 | 身体 | Comments(0)

お店の名前

広島市を訪れる。

お好み焼きを食べながら、同席くださった方からこんな話を聞いた。

お好み焼き屋さんに女性の名前が多いのは、被曝後、連絡が取れなくなった家族や知人に、自分がここにいると知らせるために店の名前を付けたから、と聞きますよ。

そんなこともあったのか。一瞬にして町が崩壊、おびただしい方が亡くなったことに加えて、生き残った人も衣食住を失い、人々の繋がりも失った。

その痕跡がこうして残されていることを知り、言葉を失った。

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by walk41 | 2017-08-22 09:11 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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