学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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恐るべし学校評価

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ドイツのニュースページにリンク先が貼り付けられているあるページは、読者の卒業年度と卒業校を尋ねるもので、自分のことを登録すると、そこに集っている人たちと交流できる仕掛けになっている。

ずいぶんと以前に伺ったことのある、とあるギムナジウムを見る。すると、この学校の卒業生が行ったのだろう、学校に対する評価が自由記述を含めて集計されているのだ。5段階での評価項目は上から次の通り。「授業と教員の質」「学校運営」「施設・設備と教具・教材」「促進・補充的な活動」「学校の雰囲気」の5種類で、これらの平均値として一番上に「総合評価」のスコアが来ることになる。

もっとも新しく書き込まれた自由記述には、記入者の名前のあとに「たいていの教員は(数人の例外は明らかにあったものの)生徒がアビトュア(大学入学資格)を取るかどうかの関心はまったくなかった。私が感じたのは…」と続く。なかなか辛口である。21人が行っている数値評価についても、総合評価が2.5あたりと、決して良好とは言えない。さまざまな年代の人がいるから、いつの時代の学校のことかは特定できないけれど。

これらの評価項目を興味深く見ると同時に、在学中に行われている現在の学校評価を、卒業後へと変更したら、結果がどう変わるかなとも思った次第だ。



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by walk41 | 2017-11-27 23:06 | ドイツのこと | Comments(0)

進展する学校での情報教育(ドイツ語記事)

ドイツ:バーデン=ヴュルテンベルク州ニュース、20171121(ドイツ語記事)

州政府はすべての学校において情報の授業を実施することを決定した。

州政府は情報の授業をさらなる学校へと拡大する。文部省は該当するキーワードを定めた。「情報に関する基本的コンピテンシーは今日、時代に適った普通教育の一部である。それは、古典的な文化技術である読む、書く、計算することをなくすのではなく、補うのである。中等教育段階において、情報の授業を強力に位置づけることで、デジタル化する社会に対応できる」と、文部大臣Susanne Eisenmannは話す。

そのコンセプトは次のようである。2017/18年度、7年生の普通ギムナジウムに情報コースを創設し、引き続く年度にはすべての学校種に拡大する。基幹/職業実科学校と実科学校では2019/20年度から、8年生から10年生の生徒が自主的に履修できる新しい選択科目としての情報を徐々に導入する。普通ギムナジウムにおいては翌年度から、8年生から10年生に対して学習を深めるための新しい特色ある教科として、情報、数学、物理(IMPという合科科目として)が提供されることになる。2019/20年度からこの特色ある教科は「多様な学校(GemeinschaftsschuleGMS)にも導入される。

情報技術教育の段階モデル

「このように情報の授業を拡大することで情報教育は7年生からそれぞれの教育修了段階まで年齢にふさわしく構成される」と文部大臣。すでに5年生に必修となっている基礎コース、メディア教育がこの基盤となる。ギムナジウム上級段階ではすでに教科として設置することができる。この計画により7年生から各々の教育修了段階まで継続的な情報の授業を提供できるようになるのだ。

この計画を実現するためには、合わせておよそ300人の教員が必要となる。現在、教職のための情報の学修は、ギムナジウムと中等教育段階に置かれているが、これに加えて、必要とされる教員を確保できるように、州政府は教員研修を予定している。すなわち、IMPの授業あるいは8年生から10年生向けの選択科目としての情報を担当する教員には、学校を1年間離れての導入学修(Kontaktstudiengang)の機会が提供される。また、7年生に創設される情報を授業する教員には、すでに対応する研修機会が設けられている。

中等教育段階Ⅰに情報の授業が置かれることは、2016年の学習指導要領のもっとも重要な部分を補うものである。ギムナジウムにおいては12時間の学校裁量の時間(同上級クラスを持たないGMSでは8時間)にIMPという合科授業があてられる予定となっている。選択科目としての授業は3時間の学校裁量の時間があてられる予定である。同様に、情報の授業の発展コースとして置かれるIMPは代替重要科目に位置づけることもできる。(http://www.baden-wuerttemberg.de/de/service/presse/pressemitteilung/pid/land-baut-informatikunterricht-an-weiterfuehrenden-schulen-aus/


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by walk41 | 2017-11-27 12:01 | ドイツのこと | Comments(0)

「主体的・対話的な深い学び」を阻害する事大主義

「大学における教員養成」は今日、うん十年前と大きく姿を変え、教員採用試験対策が主眼の趣すら呈するに至っている。国立大学法人では「ミッションの再定義」に教員採用率の数値目標を掲げることを余儀なくされ、いかに学生を教員へと向かわせるかに四苦八苦せざるを得ない状況だ。

その中で、教員養成教育に小・中学校等の教員経験者を迎えて、授業を担ってもらう部分が増えている。いわゆる現場の話を聴くことは、学生にとって一つのリアリティに接し、なんとなくのイメージに留まる学校理解、あるいは「机上の空論」に陥るのを抑制する点で望ましいことではある。けれど興味深いことに、なぜかこの「現場主義」が、文科省や教育委員会から示されるガイドライン(一つの「机上の空論」なのだが)をバイブルかのように奉ることに繋がり、学生に対して、政策・行政的言説を金科玉条として、無批判・無分析的に扱いがちなことを強く危惧する。

過日も他大学のことだが、教職課程の授業でこんなことがあったと聞いた。指導主事、校長を経て大学の授業を担うある御仁は、「今は、アクティブラーニングとは言いません。何と言うんですか」と学生に尋ね、「主体的で対話的な深い学び」と学生が答えたことに対して、「正しくは、主体的・対話的(ナカグロ)です」と訂正したという。こんなやりとりに時間を使うなんて、何という事大主義だろうか。

「~で」と「・」の違い、内容を捉える上で、そんなことはどちらでもいい、枝葉末節に過ぎることである。なのに、「正しい言い方を知らない学生」を指導する自分という構図に酔うかのような愚かさ、まったくのあんぽんたん。なお、これに従順な学生がいるという状況は、いっそう深刻なことである。

かくも阿呆らしいことがまことしやかに行われる「高等教育」を大いに憂う。と同時に、こうした些末なことが大切にもなるのは、教員採用試験がこうしたおよそ「学び」とは無関係な問題を擁しているからでもある。これからの学校教育がそうした方向を取るのならば、教員採用試験こそ暗記ものから全面的に脱皮して、「主体的・対話的な深い学び」の結実とならなければならない。教育委員会の力量が問われるゆえんだ。



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by walk41 | 2017-11-26 12:29 | 大学のこと | Comments(0)

学びと笑顔

「主体的・対話的な深い学び」という新学習指導要領のキャッチフレーズにも合わせるかのように、学び論はなお盛んである。

もちろん、それぞれの教科や領域に関わる、いわゆる基礎的な理解や技能が学びには不可欠なはずだ。何も知らない、何もできない状態で、おもしろいと思えるのは難しいだろう。

けれど、それらとは相対的に切り離しうる、楽しさや嬉しさがあってこそ、学びにつながることも踏まえるべきだろう。そこには、計画には収まりきらない意外さ、偶発、ハプニングがまま伴う。これだけに頼るのも困ったことだが、「脱線話」のインパクトは相当である。また、多少の演技を含むものの、教員の受容的・共感的な姿勢と態度を通じた、情緒的、親和的な雰囲気が楽しさを後押しすることも言えるだろう。ただし、教員の振る舞いが生徒たちから影響を受ける点で、これまた事前につもりをすることはできない。

これらを合わせると、学びを促すには、計画に依り過ぎない、曖昧さ、大らかさが大切なことがわかる。この点で、準備と計画はどう違うのか、情緒的な振る舞いはいかに客観的な記述に耐えるのか、といったことが次の議論の俎上に載せられる。

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by walk41 | 2017-11-25 15:25 | 身体 | Comments(0)

「させていただく」

この言葉を取り上げた書籍もすでにあるので、目新しいことでは決してない。むしろ、市民権を得て定着してきたのだなあと感じさせられる昨今である。

「役員をさせていただいた」「いい経験をさせていただいた」と、自身がしたことを指してすっかり遣われるようになった「させていただく」。以前ならば、他者の領分に入った失礼を詫びる意味で遣われていたと思う。「あなたの座席を変更させていただいた」というように。自分のことについて使役的な言い方をする必要はないからだ。

けれど、この言い回しは今や中学生ですら当たり前に見られることに驚かされる。「させる」は使役ではなく、「する」の変形のように意味づけられ、これに「いただく」という謙譲が伴うという感じである。「立候補させていただいた」「発表させていただいた」と同じ調子のオンパレードなのだ。どれほど謙虚な姿勢なんだ、もっと傲慢に、いやせめて「普通」でいいではないか、「立候補を決意した」「訴えた」と言えばいいのに。

世に日本の青年の自己評価が低いことを問題視する立場がある。「自尊感情の低さが自身のなさ、生きる気力の弱さにつながっている」という論調である。けれど、この反対も言えるだろう。かくも自らをへりくだる言葉に馴染むほどに、青年の控えめさ、物腰の低さは「学ぶべき者」として、まことにふさわしいことではないか、と。

学ぶためには、己の小ささや至らなさを知らなければならない。間違っても、今のままで十分、怖いものなどないといった全能感を捨てなければならない。「自分は間違っていない」「自分以外はあんぽんたん」と思っている場合に、学ぶ必要などないからだ。この点で、日頃の言葉遣いは重要である。なぜなら知らず知らずのうちに自身を強く枠づけるから。「私のような者が」「恥ずかしながら申し上げれば」「ぜひ教えてくだされば」という姿勢は、学ぶための前提ですらある。これらを伴うことなく、「何か面白いことをやってみろよ」といったお客さん気分で教室にいられては。学ぶことなど覚束ない。

つまり、学びを促す上で、謙虚すぎる言葉づかいに親しんでいることは望ましいことですらある。こんな言い方が一部とはいえ、若い世代になぜ浸透しているのかはわからないが、「させていただく」表現に違和感を感じない人々が台頭すれば、より平和な世の中になることだろう。たとえ野心的ではないにしても。

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by walk41 | 2017-11-23 16:09 | ことばのこと | Comments(0)

「国立」に地域ニーズ?

国立教員養成大学とその附属学校の改革に関する「有識者会議報告書」(2017.8)が出て以降、関係者は慌ただしさを極めている。この報告書に合わせるように、それぞれの持ち場をいかに変えられるかに呻吟しているからだ。

提言の一つに、「地方の教育ニーズ」をつかみこれに応えていくという方向が示されているが、これにも困らされる。なぜ、国立大学法人という国立大学を前身とする機関が、「国」ではなく「地方」にもっぱら対応しなければならないのだろうか、さっぱりわからない。学校教育を国単位で考えるとともに、同時にそれぞれの条件に応じて創意工夫して取り組むのが、各附属学校の役割と私は考えるが、なぜ「地方限定」あるいは「地方第一」なのだろうか。遠方の人たちに関心を寄せてもらうこと、それぞれの解釈を経て各地で臨んでもらえる一助となることも、「国立」の立派な社会貢献ではないか。

そもそも、「地方」の需要が一枚岩であるはずもなく、すでに多様である。府県を単位にするにせよ、市町村の単位であれ、エリート養成、多文化共生、産業振興、福祉的教育等と、いずれか一つに絞れるはずもない。だから、「地方の教育ニーズ」に応えるとはすなわち、いろいろな課題設定と挑戦があって然るべきと導くのが論理的である。なのにこんな物言いをするなど、グローバル社会にあって「日本vs外国」といった貧困な世界観を示すがごとくではないか。

これら報告書は一度、当事者の手を離れると一人歩きして、言葉だけが大手を振ることになる。論理的に吟味に堪えないような記述をしていることに、当該会議委員はどれほど気づいていただろうか。気づいていたけれど仕方なくこうなったということなのだろうか。いずれにせよ、「有識者会議」に見られる学校政策・行政の劣化のあおりを受けて、最前線の者が振り回されることになる。これは国益の大きな損失である。


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by walk41 | 2017-11-22 09:14 | 大学のこと | Comments(0)

紅葉に心洗われます

ここ数日で一気に冬模様、寒くなりましたが、みなさん、お元気に過ごされていますか。

京都は残り少ない紅葉を楽しみにと、いつも以上の多くの観光客を迎えていますが、本キャンパスにも見所があります。

何かと慌ただしい時間が流れがちですが、しばし立ち止まり、紅葉の見事さに飲まれました。みなさんにもご覧いただきたいシーンです。

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by walk41 | 2017-11-20 13:03 | 身体 | Comments(0)

「~以外は不可」

学校の文書を読んでいると、「~以外は不可」という表現にまま出合う。論理的には、「~は可」と等価だと思うのだが、この両者は学校ではちょっと違うのではないか、とは家人の弁だ。

たとえば、「水とお茶以外は不可」という表現は、「水とお茶は可」と同じ意味かと思う。けれど、学校においては次のように解釈されるのではないかという見立てだ。すなわち、「水とお茶は可」とは、他の飲み物はどうなのかという質問に答えなければならない。これは大変な面倒だ。ジュースはどうなんですか、コーヒーはどうなんですか、と。この徒労を避けるために「~以外は不可」とした方がよいという考え方が成り立つ。

だったら、「~のみ可」としたらいいのではと思うが、邪推をすれば、「不可」というおっかなさ、強い感じをアピールしたいのではないかと思う。だって、「~はいいよ」よりも「~はいけない」と言う方が、偉そうでしょう。いわゆる上から目線になっているもの。

論理的には等価であっても、感情的にはそうではないという両者間にズレがあるとすれば、このケースはそのことを説明するのに適っているかもしれない。「静かにしましょう」よりも「話を止めてください」、「~は持ってきていい」よりも「~以外は持ってきてはいけない」の方がより暴力的な感じがするのではないか、という問いである。

その一方、肯定的に表現する方が協力を得やすいという報告もなされている。「トイレを汚すな」ではなく「トイレをきれいにつかってくれてありがとう」はその一例だ。「~はできない」ではなく、「~だったらできる」という言い換えも可能だろう。「不」や「非」といった強い言葉を避けて、より受容的さらには共感的な言葉を用いることが、人を元気づけるという経験も今後さらに広がっていくことだろう。

学校が基本的に人に強いる装置としてあるのだから、それを和らげ、覆い隠す工夫は意味がある。にもかかわらず「~以外は不可」(大阪府の高校生が起こした裁判に即せば、「黒髪以外は不可」となる。「黒髪は可」「黒髪のみ可」よりも、いっそう暴力的に聞こえることだろう)という表現が今なお少なくないとすれば、学校が人間の生理や情動にまだまだ適ったものになっていないことを一つ示すものである。

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by walk41 | 2017-11-16 22:43 | ことばのこと | Comments(0)

そんな構図ではない

髪「黒染め強要」、人権侵害か指導か、波紋を呼ぶ(読売新聞、20171114)を読んだ。

人権侵害と批判する立場と、強要は問題だが一定の指導は必要とする立場、この両者の対立が見られるという書きぶりだが、そんな構図は論理的ではない。

侵害と表現するとおどろおどろしいが、人権が制約されることは学校が存立する上での基本条件である。労働の対価を受け取るわけでもないのに、ほぼ毎日決まった時間に行かなければならない、好みかどうかを尋ねられることもなく制服を着用しなければならない、授業がつまらないからといって教室から出て行く訳にもいかない、意に反して教員から呼び捨てされても、呼び捨てで返すこともできない。これらは、いずれも「一人前」ならば許されない人権問題である。

ところが、教育されるべき存在すなわち子どもだという視線を浴びると、「教育的配慮」や「指導の必要」といった言葉で人権が制約される。「しつけ」を理由とした家庭等での児童虐待はその著しい例であり、学校でも「行きすぎた指導」がまま見られる。「指導」は人権保障に抵触するけれど、それを押して子どもを保護・管理することがより大切と、社会的に承認しているからこそ生じる問題だと確認したい。

「地毛証明書」発行や「黒染め強要」、あるいは「給食強要」といったことは、「それはあまりに極端な」という反応を引き起こすから注目されるけれど、極端ではない人権の制約はあまねく見られるといってよい。それが、やんわりと大げさでなく行われているから、「仕方ないや」と諦められている、ときに主体的に従い、表面化しないだけである。

そもそも、保護者に対して子どもを学校に通わせるように求める学校教育法じたいが、保護者の養育権と葛藤している。かといって、正面切って「学校にやりません」と保護者が異議申し立てをした際、明らかな児童虐待が疑われるのでなければ、学校・教育委員会が罰則規定を行使するまでに対立するといったことは避ける。不登校生徒宅を家庭訪問した教員が「卒業式くらい来いよ」という台詞が美談として扱われがちなように、法的には適切でも、「そこまで求められない」と今度は学校側が「仕方ないや」と諦めることになる。

だから、「行きすぎた指導」から逃れたいのならば、限られた戦術としてあり得るのは「学校から逃げ出す」ことである(なお、間違ってもこれは「学びからの逃走」ではない。人は学びから逃げ出す生き物ではない)。それは全面的でなくても構わない。学校で味わいたい部分もあるだろうから、部分的にサボタージュする、本音はともかく従順なふりをする、「阿呆らしい」と頭の中で呟く。賢くたくましく「生きる力」を身につけることが大切である。

もっとも、今回の「黒染め強要」に対して、この策は意味を持たない。文部科学大臣なり知事、あるいは判決といった「外圧」をもって、社会的承認の水準を修正するほかない。学校もこれで大義名分を得ることができる。「そうしたい訳ではないけれど、上から言われるから仕方がない」と安堵もすることだろう。

学校におけるおせっかい、もっと自由=自己責任に委ねればいいと思うんだけどなあ。


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by walk41 | 2017-11-14 09:52 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

求めている次元が違う

佐賀県教委は今月から、県内の公立中学校で、毎月第3日曜日を部活動の一斉休養日とする取り組みを始める。

 生徒が部活動以外の多様な体験をできるようにするとともに、教員の負担軽減につなげることが狙い。適切な休養を確保しつつ成果を上げる、効果的な指導への転換も促す。(読売新聞、20171112)

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「働き方改革」とも見なされるけれど、これで「改善」とは、学校を変えることの何と難しいことだろうか、とため息が出る。月に一度だけ、しかも日曜日を一斉休養日とするとは。


日曜日は「キリスト教の安息日に由来し、官公庁・学校・一般企業で休日とする。」(goo辞書)と、文字通り休みの日である。無い物ねだりをすれば、休みの日は「多様な経験をできるようにする」ではなく、休みなの、何もしてはいけないの。これを休養日と命名するとは、現在いかに休みがないか、休みを理解していないかを告白するというものだろう。


月あたり土曜日または日曜日が8、9日あるとすれば、これで一日休みになり残る7、8日間は変わらず部活動を行う学校が少なくないということだろうか。いわゆる文化系部活動など、土日なしの部もあるだろうから一部かもしれないけれど、月あたり30日近く出勤する教員のいることが恒常化していること、他に形容詞が思いつかないが、すごいことではないだろうか。


この点は「隣の芝生」になるけれど、ドイツではたとえば、週あたりの勤務が28時間(ここで1時間は45分間を意味する)ならば、これを超えて働く教員はまずいないと思う(授業準備、生徒のノートの添削、試験問題作成、会議、保護者との面談などがあるので、この時間数で週40時間相当の労働と見なされている)。もちろん、これ以上の時間を働くことはできなくはないけれど、そうする人が実際にいないと思われるのだ(この点、もっとちゃんと確かめないといけないと、条件つきで)。もっとも、自宅で仕事をすることについてはわからず、教員組合などが過重勤務だと主張する部分は残るけれど。


その一方、学力向上、学校評価と情報公開、地域社会との連携、キャリア教育と、多くの課題が学校には降りてくる。仕事をするにはマンパワーが必要、一人あたりの上限があるのだから、数を増やすしかない、こんな論理がなぜ通らないのか、摩訶不思議なことこの上ない。ああ。






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by walk41 | 2017-11-12 18:36 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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