学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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孫文

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香港の孫中山紀念館を訪れた。今も中国国民党総理である孫文(1866ー1925)が医者になるために学んだ地であることから、2006年に開館した資料館だ。1914年に富豪が贅を尽くして建てた、瀟洒な屋敷が使われている。今は高層ビルに囲まれて残念なことだが。

孫文の思想と行動に対する評価は一様ではないが、とりわけ西洋帝国主義からの中国の独立、中国の統一、日中友好にもとづく「大アジア主義」を求めたことは明瞭で、そうした孫文にとって、中国の人々の「民度」を高めることも強い願いだったはずだ。

ところが、この記念館に来るのに乗ったタクシーの運転手は、運転中にラジオをかけ、家族とだろうかスマートフォンで長々と電話をしながら走り、客の快適さは視野の外だった。また、お釣りを10香港ドル少なくよこし、それを指摘すると、しょうがねえなあという感じで渋々残りを渡す有様だった。言わずもがな、乗ったことへの礼を言うはずもない。

もちろん、マナーや礼儀に正解があるわけではない。けれど、人々が幸せに暮らすとは、楽しさ、心地よさ、喜びといったものが不可欠で、その多くは他者との関わりを通じて得られるものでもある。サービス過剰な日本に住むからこその、私の偏りも否めないが、アラン『幸福論』にもあるように「笑うことは義務である」という観点からは、慎み、感謝、丁寧さなどは強調してもしすぎることはないだろう。

平和が政治指導者の問題に留まらず、私たちの日々の生活の中で問われるのならば、平等や博愛も同様だろう。自分を含めて、出会う人々との関わり方がこれに適っているかどうかが問われるはずだ。

この点で、孫文が遺した「革命は未だならず」という言葉は、すこぶる的を射ているだけでなく、誰もが課題として引き受けるべきことなのだな、とも思わされた。


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by walk41 | 2017-12-31 08:20 | Comments(0)

dancing lady

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よく見かける花ですが、dancing lady とも言うことを初めて知りました。

オンシジウムですね。ちょっとほっこりします。





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by walk41 | 2017-12-30 12:06 | Comments(0)

外貨両替

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少し前に新聞で知ってはいましたが、実物を見たのは初めてです。コインを含む外貨を、Amazonクーポンやedyなどを介して自国通貨に交換できる機械を。

お札やコインを機械に投入、すると為替レートに応じて(手数料も載るんだろうね)換算され、その額がクーポンなどに替わります。

これまで、海外のコインの扱いに困るところがありましたが(帰りの空港で全て寄付をしてくればいいのですけれど(^^;))、これがあれば助かること大でしょうね。関西空港にて。






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by walk41 | 2017-12-29 13:14 | Comments(0)

効率化とサービスは両立するか

ロイヤルホストホールディングス社長への「聞きたいー効率化とサービスの両立は?」(朝日新聞、20171227)を読んだ。

休業日を増やす、早朝、深夜営業を減らす、電子マネーを活用してレジ締めをなくす、といった、同社における従業員の負担軽減のアイディアとその実行は素晴らしいし、これで顧客満足も高まれば何よりだと思う。…と記して、だから学校での働き方を変えることが難しいのだなあと思い至った。

社会が変化することは避けられないし、それに伴って人々の意識と行動も変わる(人々の変化が社会の変化をもたらすとも言える)。たとえば、以前ならば、駅の改札に職員がいて駅に入る時には切符に鋏を入れられていた。あの小気味好い音を懐かしいとも思うけれど、切符に鋏をといま声高に主張する人はいないだろう。これは、周りの変化に自分を合わせるしかないと諦めが先立つからとみなせる。

これに対して、学校教育についておそらく多くの人々が思い浮かべるのは、自分が子どもの頃に受けた経験が基盤となっている。それは子どもの頃という、人生初期ゆえの強烈さと、時間的に結構な時間をそこに費やすという点で、がっしりとその人を縛るほどではないだろうか。そして人々は、自分が大人や保護者になっても、この経験の上に学校を捉え、それを元に判断、行動する。つまり、学校がどうあるべきかを考える際の基準が、少なくとも一世代分は昔である可能性があるのではないだろうか。

子どものことに関しては時間で割り切らない鷹揚な対応が望ましく、また「人間性」こそ養ってほしいという牧歌的イメージ、あるいは、電子化されていない手書きのノートチェックを期待するといった、自分が幼い頃の思い出を今に滑らせて学校を捉えているのでは、と仮説できるのならば、学校スタッフの働き方がさらに多忙、過剰にこそなれ、その反対方向にはなかなか舵を切らないのは、すこぶる自然なことである。

なぜなら、今の学校は透明性の確保を第一義に、学校評価や教員評価の実施、広報を通じたあれこれの情報公開と官僚的性格を強められている。これに従前の曖昧で大らかな学校像を重ねられて、二つの役割を担わされることになるからだ。

たとえば、勤務時間管理が強められるだけで終わればいいのだけれど、実際には家庭訪問(家訪、という業界用語まであるほどに頻繁である)は無くせないし、「電話ではなくすぐに家訪しろ」と、これが鉄則と強調してやまない学校管理職もいる。あるいは、教育課程外の部活動を全廃するのも一案だけれど、「部活で頑張ることで自尊心を高めたい」という「教育的配慮」も健在である。つまるところ、非官僚的な最前線だった学校が官僚的性格をも持たされることで、多忙さ、焦燥感に喘いでいると見なせるにではないだろうか。

学校にタイムカードを導入したことで文部科学省に持ち上げられている、ある学校の関係者と話をすることがあった。タイムカードで適正な勤務時間確保が本当にできているのかと尋ねたら、「19時にはみんな帰るようになりました」との返事だった。前よりは随分早くなったとのことだけれど、このまま勤務時間を計算したら、労働基準法違反は免れないだろう。ここまでで限界という辺りか。

ある場が文学的であるかということと、科学的であるかということは基本的に葛藤する。人間の成長や発達を問う限り、それが科学的(可視的、計測的、再現的)であるはずはない、と割り切れればいいのだけれど、「見える化」論、サイクル論、効果や効率論(コストパフォーマンス)が学校でも強められることで、科学的であるかのような見せ方も求められている。一人二役は容易ではない。世の人はどちらを学校に求めているのだろうか。またそれは長い生涯を辿る子どもたちにとって望ましいことなのだろうか。




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by walk41 | 2017-12-29 04:36 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

ドイツにおける国家(Staat)

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ドイツの教育や文化・芸術事情を、日本語で紹介するページは少なくないが、そこには誤った紹介も見られる。たとえば、新国立劇場のHP中(https://www.nntt.jac.go.jp/centre/library/theatre_w/06.html)、次のような記述がある。

「ドイツにナショナルシアターはない?」という小見出しの中、こう記されている。「…戦後、ドイツは東西に分断されたが、西ドイツではナチス時代の苦い過去を繰り返さないために、文化や教育は地方自治体(州、市)が運営を担い、国家は介入しないという「州の文化高権」が確立された。国の憲法にあたる基本法で表現の自由の理念を掲げ、その実施は州が責任を負う仕組みだ。言い換えれば、国は文化行政を州にまかせ、口も金も出さない。…」

これは正しい紹介ではない。連邦制を採用するドイツにおいて、多くの権限は州(Land)に属する(連邦基本法、第30条「この基本法に規定または許可のない限り、国家の権限の行使と国家の責務の実現は州の事項である」)。この点では、州こそが国家(Staat)であり、連邦と州の関係は、中央政府に対する地方自治体ではない。

たとえば、バーデン=ヴュルテンベルク州の州立美術館はStaatsgalerie(国立ギャラリー)と称するし、バイエルン州の州立劇場はStaatstheather(国立劇場)の名を冠している。あるいは、教員になるための試験はStaatsexamen(国家試験)と呼ばれるが、これは州ごとに行われ資格が付与される。さらに、州の教員研修センターはStaatliches Seminar(国立セミナー)である。いずれも州すなわち国家を意味する。

州よりも大きな政府(連邦)があるから、そちらが国で州は地方だと、ひょっとしたら素朴に思ったのかもしれないけれど、ドイツの場合はそうではない。丁寧に見なければならないと、自戒も込めて思わされる。

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by walk41 | 2017-12-25 06:10 | ドイツのこと | Comments(0)

クリスマスイブ

クリスマスイブ、キリスト教を信仰しているわけではないのだが、教会が主催する市民向けのコンサートと、引き続くミサに参加した。

この年になっても、祈るということがさっぱりわからないけれど、次第の中で扱われた、平和のための祈りというところは大変印象深かった。先唱の人が次のように唱えた。…世界の指導者の方々へ。核兵器をなくすべく力を尽くしてくださるように。日本からは、世界で唯一の被爆国として力強い発信をしてくれるように。… 

もっともなことだと意を強くした。チキンレースの結果、世界に惨劇の起こることがないように。「難しい相手」ではあるだろうけれど、対話と和平をぜひ進めてくれるように、私も祈った。



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by walk41 | 2017-12-24 21:37 | Comments(0)

ローマ法王の警告(ドイツ語記事)

facebookルートで、次の記事が流れてきた。https://sumikai.com/japan/nachrichten-aus-japan/papst-warnt-japan-vor-uebermaessigem-wettbewerb-und-konsumkultur-206315/(20171221付) みなさんは、どのように受け止められるだろうか。

ローマ法王、日本の「過度な」競争と消費文化を警告

ローマ法王フランツィスカは、日本が学校と職場における「過度な」競争文化、そして消費志向に病んでいると見ている。「成功するために人々は、つまらないことをしばしば行い、他人を踏みつけている」とローマ法王は、東京の上智大学の学生とのビデオ会議で発言した。

「多くの問題」として、残念なだけでなく人々の力を奪う、とりわけ極端な競争、競争心、消費文化に日本社会は彩られていると述べ、ローマ法王は、発展を危機に追いやる現代の能力主義社会(Leistungsgesellschaft)の責任に言及した。

達成への圧力と過度な労働負荷

ローマ法王の見方によれば、とくに現代の能力主義社会に責任があり、日本では子どもや若者への要求がたとえばドイツのそれよりも遙かに高い。何十年も専門家が警告してきたのは、日本の教育制度における常に成長する達成への圧力は、維持できないということである。

早い時期から現れうる、若者に対する経済的な圧力と欠落した観点は、競争心をより鋭くする。日本の生徒が両親や学校あるいは同級生から強いられる高い達成への圧力は、大きな結果を導きうるだろう。子どもと若者のいじめや高い自殺率は、日本において久しく深刻な問題となっている。

日本人の多くの過度な労働負荷もまた、認められる問題であり、同時に世界でもっとも自殺率の高い国であることにも関連している。日本において過度な労働の結果として自殺が起こることは常態化しており、その人たちはたいてい、心停止、心臓発作、脳溢血あるいはストレス・抑鬱による自殺である。「働き過ぎによる死」であるカローシ(過労死)は、労働時間をさらにいっそう費やしながら結果にはつながっていない、驚くべき日本の労働文化を示す姿だ。

ローマ法王フランツィスカはは、上智大学の学生の質問に応えて、これ以外にも移民、環境、宗教について、さらに日本を訪れたい自身の希望について話した。また日本は驚くべき「偉大な国」であることに間違いなく、日本の人々を愛しているとも述べた。






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by walk41 | 2017-12-23 13:03 | Comments(0)

迎合的なお調子者

特集「平成と天皇」の中に置かれた、教育評論家の尾木直樹「手の届くモデル 共感呼んだ」(朝日新聞、20171219)を読んだ。

これまでにも、この御仁のご都合主義的な発言には辟易すると述べてきたが、今回も酷い。この人にとって、論理的に物事を考えることは無縁で、その時々の空気を察して適当なことを言えばいいという処世術に長けているのだと思う。

曰く「…両陛下は雲の上の存在ではなく、国民が手の届くような養育モデルを示し、社会に大きな影響を与えた。戦前の家制度ではなく、家族で仲良く話し合ったり触れあったりする新たな家庭像だった。人間らしい、一つの家族としての皇室を作ろうとしたことが国民の共感を呼び、国民との距離が縮まる結果にもなった。」

この一文に、二つの問題を挙げよう。その一、ここには、家族と家庭の区別がない。家族とは二人以上の人間の関わり方を示す制度の一例であり、夫婦、親子、親戚などが当てはまる。また、家制度とはその中でも狭く定義されたもので、戸主の設定と家督相続制度を特徴とし、男系の「直系」を維持することが重視された。「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」(憲法、第24条)する戦後の法定相続制度のもとでの家族とは大きく異なる。

これに対して、家庭とはそうした人々が暮らす場を含めた言葉であり、制度そのものではない。だから、家制度のもとにあっても、「仲良く話し合ったり触れあったりする(そもそも、触れあうってどういう意味だろう。肉体的接触がなければ家族にならないのだけれど)」ことはできたし、今の家族制度でもそうでない場合がある。戦前の家督相続制度のもとでも、戦後の法定相続制度のもとでも、虐待やDVは起こりうる。法的に結婚していない家族であっても同様だ。このように、家制度と家族(像)は別者なのに、並列するかのような文章を書くのは、あんぽんたんである。

その二、「人間らしい、一つの家族としての皇室を作ろうとしたことが…」は、日本国憲法を読んだことのある人の文章とは思われない。「第1条 天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であってこの地位は主権の存する日本国民の総意に基づく。第2条  皇位は世襲のものであって国会の議決した皇室典範の定めるところによりこれを継承する。」

これを読めば、天皇という制度のもとに置かれる皇室が、(良くも悪くも)人間らしく暮らせるはずがないことは明らかである。彼ら/彼女らが政治的意思を表明できず、選挙権も被選挙権も持たない(政治的参加の不可)、どこに行くのも住むのも自由なはずもなく、庶民ならば許される多少の羽目外しとも無縁(自由権の行使の不可)。くわえて、職業選択の自由もなく(ラーメン屋として起業することも、フリーターで自分探しもできない)、はたまた、望んでもいないのに「~さま」とあちこちから呼ばれて平等権の保証もなされず、男女平等すらも認められない(皇室典範では皇位継承者は今のところ男系の男のみ)、こんな状況に置かれながら、現代人の考える「人間らしい」はずがないではないか。そもそも、天皇は象徴である。「手の届く」対象であってはならない。市井の人々と同じでは困るのだ。なのに上の一文、読み返して恥ずかしくならないのが不思議としか言いようがない。

こんな貧弱な社会理解をしている御仁の文章が、斜陽傾向にあるとはいえ、新聞というメディアに載るなど、世も末である。いったいどうなっているのだろうか。それとも、こんな記事が変だという私が変なのかしら。

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by walk41 | 2017-12-20 21:33 | Comments(0)

「まず年金受給、そして刑務所へ」(ドイツ語記事)

Stuttgarter Zeitung 2017.12.9 Susanne Steffen

犯罪―日本で年金生活者による犯罪が増加している。その背景には貧困と孤独がある。

日本は世界でもっとも安全な国の一つだ。法務省の報告によると、昨年の犯罪件数は戦後で歴史的に低い水準を示した。しかしながら犯罪総数の20%以上が65歳以上の年金生活者によるものである。昨年、すべての犯罪で46977人の高齢者が逮捕された。これほど多くの高齢者による犯罪は、世界第三位の経済国家においてかつてなかったことである。20年前は、すべての犯罪者のうち年金生活者はわずか4%を占めるに過ぎなかった。

高齢者の犯罪は、人口のほぼ3分の1が高齢者と世界でもっとも高齢化が進む、急速な人口変動の副効果である。ほかの年齢層の多くで犯罪者は減少傾向にある一方、65歳以上による犯罪は、この間継続して増加している。もちろん、高齢者グループでは重大犯罪はむしろ稀で、違法行為のおよそ70%は窃盗、わずか10%が暴力行為である。約2500人の高齢者が有期刑となっている。なんといくつかの都市では高齢者用の特別の施設が設けられており、それは刑務所と言うよりも介護施設かのように一見思われるほどである。

高齢の囚人が増えているため、政府は本年度、刑務所の半数に介護職員を配置することを決めた。他の年齢層にはない高い再犯率であり、4人に1人の高齢者は再犯を犯して、刑期を終えたのち2年以内にふたたび刑務所に戻ってくるのだ。高齢者による犯罪の増加の背景として、とりわけ貧困と孤独があると法務省は見ている。囚人への質問調査においては、彼らは刑務所に入るために意図的に罪を犯していることが明らかになっている。刑務所に入ることで貧困と孤独から逃れることができるのだ。法務省は警戒すべき高い再犯率に関して、犯罪を犯した人が社会によりうまく溶け込むことができるような方策を促そうとしている。

西日本の明石市のような都市部では、この間、刑期を終えた元囚人の高齢者がケアされるように、刑務所が介護施設や社会福祉と協力を始めている。もって、孤独と貧しい生活に戻らなくてもよいようにしたいのだ。ちょうど数週間前、74歳の犯罪者の事件が全国の新聞をにぎわせた。自身の黒装束から「忍者」と名づけられたこの高齢者は、警察を8年間の長きにわたって翻弄したが、およそ200件の家宅侵入を犯したという。

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by walk41 | 2017-12-19 14:33 | Comments(0)

自分を疑うことの大切さと難しさ

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008年公開)を観た。

3時間を越える長編で、「赤軍派」や「革命左派」が1972年2月のあさま山荘事件に至るまでを描く。このテーマを映像化したスタッフと出演者の技量と努力に圧倒されたのもさることながら、具体を伴わない「社会を良くする」という教条的な思考が、困難な環境でいっそう先鋭化し、リンチ(内ゲバ)そして自己崩壊していくさまを見て、ショックを受け、また消耗した。

「銃による殲滅戦」を通じてこその「共産主義化」、しかも世界戦争を通じてという当事者の論理にも驚かされるが、その戦士に値するかどうかの基準が一握りの「指導者」によって決まり、そこから外れると「自己批判」と「総括」を求められ、最後には死に至るという構図は、こうした事例に限らない、どこにでも起こりうると学ばなければならない、と思わされた。

分類を試みれば、たとえば、
①一つの可能性に過ぎない命題が金科玉条となり、これを疑うことが許されない状況がある(「学力向上」「いじめ撲滅」「常識として」…)。さらには、命題そのものがよく理解できないにもかかわらず、問いかけること自体が反対の立場ゆえと扱われ、保身から沈黙が支配する。(「主体的、対話的な深い学び」ってどういうこと?)。

②この命題をもっとも理解すると奉られる/主張する人物が登場し、それへの恭順さらには服従が直接・間接に求められる(政治家や官僚、「〇〇大学教授」…)。

③情報、身体、感情が統制・制御され、実は方向づけられ、強いられているにも関わらず、自らが判断したかのように錯覚する。(「恐れ多くも…」「~に示されているように」。なお、これを主体的な行為として語ると、「自ら進んで~させる」という表現になる)。

④文書主義が軽視され、官僚制が機能しない権限と責任が不明確なままに、ある意志が貫徹するようになる。(「首相官邸の意向で」…)。

程度の差はあれども、権威への積極的/消極的な服従、自発的な情報の遮断、出所不明な「声」による事態の進行など、どこにでもありうるとは、果たして言い過ぎだろうか。

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by walk41 | 2017-12-18 16:03 | 映画・ドラマ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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