学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

音楽教育のスタンダード論(ドイツ話題)

21世紀に入ってすでに久しいが、この間、日本でも公教育の質保証、数値化ほか客観化されたエビデンス(証拠)重視、といった主張のもと、学校教育としての達成すべきスタンダード(基準)が発表され、またこれに対して議論がなされている。

この背景には、児童・生徒によって学び方は多様であり、生涯学習とも言うのであれば、学力や意欲、態度などが短期的に測定、評価されうるはずもないという立場と、投じている様々な資源を有効かつ効果的に活用してこそ、公教育としての責任を果たすことができるという立場との葛藤がある。

この帰趨はどのようだろうか。それは、主要教科などとも呼ばれる領域ではないところを見ることで明らかになるだろう。なぜなら、主要教科には、歴史的に3Rsとも称されてきた「読み、書き、算術」があるが、これらは、実際の生活でも必要性が高く、何らかの基準や目標は必要であり意義あることと考えられてきた点で、現在のスタンダード論との親和性が高い点で、上記の葛藤が少ないと考えられる。

これに対して、実技科目とも呼ばれる芸術、音楽、スポーツについては、いわゆる「生まれつきの得手不得手」もあるかのように言われる面もあり、また個人の好みや偏りも少なくない領域と見なされることから、基準を立てることには大きな抵抗があると推測される。はたして、この領域で達成すべき目標を、さらにそれをコンピテンシー(遂行能力)として求めることができるのだろうか。また、それはコンピテンシーや広く学力の捉え方にどんな影響を与えるものだろうか。

こうした問題設定から、以下、ドイツでの資料を複数回に分けて紹介したい。それは“Musik und Bildung-Die Zeitschrift für Musik in den Klassen 5 bis 13(音楽と教育ー5学年から13学年における音楽誌)という季刊の雑誌に、「音楽科におけるスタンダード」というテーマで意見が開陳されているものである。ここでは、中等教育段階での音楽教育を前提にしていることを踏まえる必要があるだろう。まずは拙訳を行い、その後、議論を試みたい。
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Musik und Bildung 4/200456-63ページ。

討論ー音楽科のスタンダード①

Johannes Bähr スタンダードー議論の前提と目的(前半)

普通教育学校での音楽の授業が成功しているならば、スタンダードに関する議論は不要だっただろう。成功しているとは、学ぶほぼすべての者が少なくとも数年間ー予定されている授業時数のようにー比肩に値するまた質的に高い学習機会を得ていることであり、それが音楽的能力、達成、知識や視野を持続的に確かなものとするのである。

こうした成功した音楽の授業を想定することがほとんどできないのは、経験的に明らかである。またその原因もせいぜいのところ部分的にしか明らかでない。量的には、教員不足と恐ろしい授業時数から、隙間だらけで、多くのところで十分な音楽の学習というには不十分な状況である。どれだけ多くの子どもと青少年がほんのわずか、あるいはまったく音楽の授業を受けていないことだろう(どれだけの授業不足が起こっているかの研究は残念ながら知らないが)。質的に見れば、著しく不均一であり、音楽的技能や知識への持続的効果をほとんど見込めないものが大半であるーこれまでの残念ながらごく僅かの実証研究から、そのように推測しなければならない。

これらを踏まえると、スタンダードをめぐる議論は方略に関するものと、内容に関するものの二つのテーマを立てることができる。まず方略に関しては、スタンダードが国家/州によって拘束力あるものとされるならばーそうでないのならば、何ももたらさないからー論理的帰結として、すべての者に対する適切で同様の条件を作り出すことをも義務づけるものとなる(加えて、十分なスタッフ、時間、教員の養成と研修、施設設備)。それが適切に運営されなければ、スタンダードと結びついているコンピテンシー(遂行能力)は達成されえない。よって、方略上の議論のゴールは、比肩に値する良い諸条件を創出することである。

また、内容上のテーマについて、スタンダードは教育ドメインでの音楽科に関する集中的な義論を通じてのみ確立され、適用されうる。音楽の授業で子どもに何が(少なくとも)学ばれるべきか、議論されるべきだろう。それは、教育内容と教員の養成・研修に大きな影響を与える、教育方法上の結論とコンセプトに関する実際的でで実現可能な音楽教育の目的についてである。よって、スタンダードに関する内容面でのゴールは、音楽教育のさらに質的な発展にも繋がっている。


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# by walk41 | 2018-05-25 17:32 | ドイツのこと | Comments(0)

ダブルスタンダード(二重基準)

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中央本線沿い、警報器や遮断機のない「第四種踏切」または「勝手踏切」とも言われるところを見た。

入るなというメッセージの一方、フェンスの間が空けられ、階段もつけられている。おそらく住民は日常的には通っているのだろう。だからこそ「観光客等の皆様へ」とあるのだと思われる。住民は別だよというメッセージでもあると読んだ。

ダブルスタンダードという言葉は、良くない意味合いでまま使われるが、この場合はこれでいいのかなとも思う。生活に馴染んでいる人が通る場合と、いわば一見さんの観光客が通る場合の危険度の違いを想定してもよいだろうから。

とまれ、鉄道と生活圏との共存はなかなか悩ましい。「こうした踏切はなくすべき」「すべての踏切に警報器、遮断機をつけるべき」のいずれにも行きにくい、白黒つけがたい例のひとつかと思う。

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# by walk41 | 2018-05-24 10:03 | ことばのこと | Comments(0)

PISAテストに対する態度

国際的な学力テストのひとつである、PISAに関して、KMK(ドイツ常設文部大臣会議)は、「2003年のPISAテストの結果に対する態度」https://www.kmk.org/aktuelles/artikelansicht/stellungnahme-der-kmk-zu-den-ergebnissen-von-pisa-2003.html を2004年12月6日に公表しているが、以下、ごく一部を訳出する。

私たちの教育システムの必要な近代化に関わり、直接に効果のある、また共通して担われるべき課題について、狭く短期的なPISA議論を、KMKは避けたいと思う。PISA 2003 での発見は、統合された学校システムと同じく、分岐した学校システムも良い結果を導くことができるということである。学校制度に関しては、PISA2000に対するのと同様、いま出されている報告書があるが、そこでは「学校システムにおける分岐も程度あるいは分岐する年齢と、生徒の獲得する遂行能力の水準(Kompetenzniveau)は関係しない」と記されている。KMKは、実に様々な修了と入学の条件を定めている各州の学校制度のありように配慮しなければならないことを強調する。PISAに関してKMKは、あらゆる学校制度が確かな改善への潜在力を持っていると見る。
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私が興味深く思うのは、①単線/複線あるいは統一/分岐といった学校制度の基本問題について、生徒の学業達成上、いずれが優れているとは言えないという認識をドイツが示していること、②その際、各州の文化高権(Kulturhoheit)の歴史に高い価値を置いていること、である。

①に関わっては、学校制度論の命題が今なお立ってはいない、つまり、学校制度と現実との関係を十分に説明できていない。また②については、「ドイツでは」と一括りに述べるのは、とても乱暴なこと、と知ることができる。あわせて、PISAを「錦の御旗」かのように有り難がったり、奉るようなことがない態度も、大いに学ぶべきと思う。

ーーー以下、原文
Im Interesse einer unmittelbar wirksamen und gemeinsam getragenen Arbeit an der notwendigen Modernisierung unseres Bildungssystems möchte die KMK eine verengte und verkürzte PISA-Debatte vermeiden. Die Befunde aus PISA 2003 zeigen, dass sowohl integrierte als auch differenzierende Schulsysteme gute Leistungen erzielen können. Zur Schulstruktur kommt der jetzt vorliegende Bericht in ähnlicher Weise wie der Bericht zu PISA 2000 zu dem Ergebnis, dass "kein Zusammenhang zwischen dem Differenzierungsgrad des Schulsystems bzw. dem Alter der Differenzierung und dem Kompetenzniveau" besteht. Die KMK unterstreicht, dass schulstrukturelle Entwicklungen die sehr unterschiedlichen Ausgangslagen und Voraussetzungen in den einzelnen Ländern berücksichtigen müssen. Sie sieht im Einvernehmen mit dem PISA-Konsortium in allen Schulformen ein ausgeprägtes Potenzial für Verbesserungen.

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# by walk41 | 2018-05-23 04:19 | ドイツのこと | Comments(0)

「すべての子どもにひとつの楽器を」(ドイツ語記事)

NDRニュース

(https://www.ndr.de/kultur/kulturdebatte/Musikunterricht-an-Jeki-Schulen-in-Hamburg,musikunterricht124.html)

2018年1月26日(ドイツ語記事)

ハンブルク州の"Jeki"学校における音楽の授業 von AnjaMartini

"Jedem Kind ein Instrument"(「すべての子どもにひとつの楽器を」)略記して"Jeki"は、 ほぼこの9年来にわたってハンブルクの学校行政が追求してきたひとつの理念である。Hansa市の62の基礎学校はこの間、プログラムを採用してきた。これはハンブルク州の基礎学校の4分の1にあたる。子どもたちは1学年で音楽の基礎教育を受け、次に子どもたちは楽器について学び、ひとつの楽器を求めてもよいようになる。週に1ないし2回、子どもたちは4人から7人のグループで授業を受ける。2つの "Jeki"学校を訪問した。

アイルランドの音楽が聞こえる。それは3学年の男女児童による演奏だ。この半年間、彼ら/彼女らはチェロの授業を受けている。「チェロの音はきれいで、私はいつもチェロを演奏することを夢見てきた」と子どもたちの一人が言う。授業はCem Cetinhayaによって担われている。彼はチェロを学び、オーケストラと授業にて弾くのである。グループの7人の子どもたちには、いつも全く簡単という訳ではない。「子どもたちにすべてを伝えようとすることは挑戦です。でも、それは独自のダイナミックさを持つグループだということを忘れてはいけません。」

"Jeki"は協力パートナーなしには機能しない。

Cem Cetinhayaのような教員なしには、すべてのプログラムは機能しない。Gabriela Huslageは語る、財政的支援以外に学校行政でのプロジェクトの連携が何よりだと。「'Jeki'は、私たちの協力パートナーとしてよく関わってくれる。私たちはハンブルク音楽院および州青年音楽学校そして多くの小さな音楽学校と緊密に連携している。そこから、学校ですべてのグループに対して授業をしてくれる、楽器の教授スタッフがやってくるのです。」

子どもたちは、学校で楽器を二年間借り、家に持って帰ってもかまわない。Carl-Cohn通りにある基礎学校では、たいていの子どもが家で楽器を練習する。一人の女の子とが語る。「私は始めに算数、次にドイツ語、そしてウクレレを15分間練習するの。ほとんど毎日練習するよ。」多くの保護者は子どもたちの音楽教育をサポートしている。保護者は子どもたちが練習して"Jeki"コンサートに出ることを素晴らしいと思っている。もっとも、どこでもそうだという訳ではない。

Altonaでの授業

子どもたちが最後までやり遂げると、やっと北ドイツ放送のRolf-Liebermannスタジオで、演奏できる。AltonaBernstorff通りにある地域教育相談センターでのギターの授業-ここでの子どもたちは、学習が遅いか社会的に困難を抱えている。多くは家に練習できる楽器がない。というのも、家は静寂でなく、時間や適当な場所もないからだ。それでも子どもたちは喜んで楽器を家に持ち帰ろうとする。

教員Tobias Mertensが作曲した歌を子どもたちが歌う。子どもたちは学ぶのにひょっとしたらより長くかかったけれど、音楽は彼ら/彼女らに尽きることのない楽しみをもたらしている。「音楽は子どもたちを落ち着かせていると思います。それは他の世界です。'Jeki'に携わっている教員は、日常的に葛藤するようなタイプの教員ではありません.音楽は算数やドイツ語よりも、まず何よりも心地よいのです。」

音楽が子どもたちを変える

そして、音楽は子どもたちを変える。Christiane Heidingsfelderは、Carl- Cohn通りの学校で打楽器を教えるが、そこで"Jeki"授業をコーディネートしている。彼女は、子どもたちが他の教科ではそんなに良くないのに、音楽の授業ではまさに花開くさまを見ている。「子どもたちが他の教科でもよくできるようになり、楽器に関わることで集中力を高める、他と一緒に演奏し、他を聴き、そして共に良い経験ができるといった、他の物事も学ぶことは、観察できる以上なのです。」だからこそ、彼女はもっと多くの学校が"Jeki"プログラムに参加する学校が増えること、そして「すべての子どもにひとつの楽器を」の理念がいつの日かハンブルク州のほぼすべてに行き渡ることを願っている。





https://www.ndr.de/kultur/kulturdebatte/Musikunterricht-an-Jeki-Schulen-in-Hamburg,musikunterricht124.htmlStand: 26.01.2018 16:11 Uhr - Lesezeit: ca.4 Min.


Musikunterricht an "Jeki"-Schulen in Hamburg

von Anja Martini

"Jedem Kind ein Instrument" - kurz "Jeki" - ist eine Idee, die die Hamburger Schulbehörde seit fast neun Jahren verfolgt. 62 Grundschulen der Hansestadt nehmen an dem Programm mittlerweile teil. Das sind ein Viertel aller Grundschulen in Hamburg. Die Kinder bekommen von der ersten Klasse eine musikalische Grundbildung vermittelt. Im nächsten Schritt lernen sie die Instrumente kennen und können sich eines aussuchen. Ein bis zwei Mal in der Woche haben sie dann Unterricht in Gruppen von vier bis sieben Kindern. Ein Besuch in zwei "Jeki"-Schulen.

Man hört eine irische Volksweise. Sie wird gespielt von Jungs und Mädchen aus der dritten Klasse. Seit einem halben Jahr haben sie Cello-Unterricht. "Es klingt schön und ich habe immer davon geträumt, Cello zu spielen", sagt eines der Kinder. Unterrichtet werden sie von Cem Cetinhaya. Er hat Cello studiert, spielt in Orchestern und unterrichtet. Sieben Kinder in einer Gruppe zu bändigen, ist nicht immer ganz leicht: "Die Herausforderung ist, dass man den Kindern versucht, alles beizubringen, aber man nicht vergessen darf, dass es Gruppen sind - die haben ihre eigene Dynamik."

"Jeki" funktioniert nur mit Kooperationspartnern

Ohne Lehrer wie Cem Cetinhaya würde das ganze Programm nicht funktionieren. Neben der finanziellen Unterstützung komme es vor allem auf sie an, erzählt Gabriela Huslage. Sie koordiniert das Projekt in der Schulbehörde: "'Jeki' ist nur mithilfe unserer Kooperationspartner gut umzusetzen. Wir arbeiten eng mit dem Hamburger Konservatorium und der Staatlichen Jugendmusikschule und vielen kleinen Musikschulen zusammen. Von dort kommen die ganzen Instrumentallehrkräfte, die die ganzen Gruppen in den Schulen unterrichten."

Die Kinder leihen die Instrumente für zwei Jahre in der Schule aus und dürfen sie mit nach Hause nehmen. In der Grundschule in der Carl-Cohn-Straße üben die meisten Kinder zu Hause. Eine Schülerin erzählt: "Ich mache erst Mathe, dann Deutsch, dann übe ich 15 Minuten Ukulele. Ich übe fast jeden Tag." Viele Eltern dieser Kinder unterstützen die musikalische Ausbildung. Sie achten darauf, dass die Kinder üben und kommen zu den "Jeki"-Konzerten. Das ist nicht überall so.

Unterricht in Altona

100 Cellisten bei den Hamburger Cellotage im Rolf-Liebermann-Studio des NDR © NDR Fotograf: Claudio Campagna
Im Rolf-Liebermann-Studio des NDR dürfen Hamburger Kinder erst spielen, wenn sie beim Musizieren am Ball bleiben.

Gitarrenunterricht am Regionalen Bildungs- und Beratungszentrum in der Bernstorffstrasse in Altona: Die Kinder hier haben Lernschwächen oder soziale Defizite. Die meisten nehmen ihre Instrumente nicht mit nach Hause, um dort zu üben: Denn es fehlt die Ruhe, die Zeit oder das passende Umfeld. Ihre Instrumente aber mögen sie trotzdem.

Sie spielen ein Lied, das Lehrer Tobias Mertens komponiert hat. Diese Kinder, sagt er, lernten vielleicht langsamer, aber die Musik mache ihnen unendlich viel Spaß: "Ich glaube, das beruhigt sie - es ist eine andere Welt - 'Jeki'-Lehrer sind nicht die typischen Lehrer, mit denen sie ständig konfrontiert werden. Musik ist erst mal etwas Angenehmeres als Mathe oder Deutsch."

Musik verändert die Kinder

Und die Musik verändert die Kinder. Christiane Heidingsfelder unterrichtet Schlagzeug an der Schule in der Carl- Cohn-Straße und koordiniert dort den "Jeki"-Unterricht. Sie hat beobachtet, dass Kinder, die in anderen Fächern eher nicht so gut sind, im Musikunterricht richtig aufblühen: "Es ist darüber hinaus zu beobachten, dass die Kinder auch in anderen Fähigkeiten gestärkt werden und durch die Beschäftigung mit den Instrumenten andere Dinge lernen, wie etwa die Konzentrationsfähigkeit steigern, das Zusammenspiel mit anderen, auf andere hören und dann gemeinsam zu einem guten Ergebnis kommen."

Deshalb würde sie sich freuen, wenn noch mehr Schulen am "Jeki"-Programm teilnehmen würden und die Idee "Jedem Kind ein Instrument" irgendwann für fast ganz Hamburg zutrifft.


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# by walk41 | 2018-05-21 15:14 | ドイツのこと | Comments(0)

臨機応変さと計画性

PDCAサイクル論の話をしていたら、小学校のある教員から、とても興味深い話を聴くことができた。

公開授業の日、道徳にて「親切」をテーマに、授業の指導案を練り上げてきた同僚教員がいた。ちょうどその当日、教室で飼っていたカブトムシがいなくなり、児童は大騒ぎ。カブトムシを探して下さい、のお願いポスターをつくって、各教室に配り、助力を求めることになったのだという。

話してくれた教員曰く、「まさにこのエピソードは親切に関わるので、旬のことで授業にぴったりなんですが、予定しているばっちりと収まった指導案の修正はできず、残念でした。」

なるほど、まさに今経験していることを教材に取り込むことができず、児童の興味・関心も今ひとつかもしれないけれど、計画性が優位すると考えると、こんなことが起こるのだと知った次第だ。

子どもの意欲や自主性をと宣うのであれば、より現実味のあるものを教材にすべき、とは一理あることだろう。それを押してなお、計画通りやることの意義がより高いと立論できなければならないが、はたしていかがだろうか。「計画に即して行うこと」をどれほど重視すればいいのだろうか。



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# by walk41 | 2018-05-21 10:48 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

共通理解の難しさ

専門学会の国際フォーラムに参加した。

外国の方からのいずれの報告も興味深かったが、強く思ったのは、それぞれの国が持つ歴史的背景についての理解が乏しければ、たとえ現在のことに限ったテーマであっても、とても十分には理解できないということだ。

当たり前のことだからと、相手は分かっているだろうと話をすることを、文脈依存ともいうが、文脈が共有されていなければ、片方にとっては何のことかわからない。その多くは「何となく」そう思ってしまうことなのだけれど、あまりに馴染んでいるために、自分では疑問に思うはずもないことが、聞く側にとって難解なのだ。

この点で、グローバル化への対応とは「外国」のことを色々知るに限らず、自分がいま知っていることを相対化することでもあると気づける。自身が知らないうちに身につけている文脈、習慣(ハビトゥス)を新鮮な目で見直すことのできる力を得ること、それがグローバル社会で生きて働く力とも言えるだろう。

いずれにせよ、学ぶとは自身が変わることを包含している。そのための勇気について想像することなく、学びは面白い、大切だとのみ嘯く輩がいるとすれば、それは教育ー学習関係に関する考察をまったく欠いていると言ってよい。わかる、学ぶ、変わることの魅力は、恐ろしいことと表裏一体である。この点で、知らぬが仏とはよく言ったものだと思わされる。

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# by walk41 | 2018-05-20 20:58 | 研究のこと | Comments(0)

リスクとしての「実際的」

愛知県教育委員会は、勤務先の女子生徒へのわいせつ行為があったとして、県立高校の男性教諭(45)を同日付で懲戒免職処分にしたと発表した。県教委によると、教諭は2014年夏に女子生徒から相談を受けた際にLINEで連絡を取るようになり、17年秋までに複数回にわたって生徒を自家用車で自宅に送る際にキスしたほか、ホテルでみだらな行為をした。生徒は18年に入って家族に打ち明け、同年3月に家族とともに警察に相談。警察から学校に連絡があり発覚していた。(日本経済新聞、20180511、一部改変)

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研修でも強調する。残念ながら、SNS、クルマ、部活動が過度な生徒との接近を促すきっかけになるという事例を。

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教師のわいせつ事件が止まらない。文部科学省によれば「統計が出ているのが平成27年度までのものです。いま現在、わいせつ事件を起こした教員の数は、平成27年度が過去最多の224人、うち免職は118人です」と担当者。どんな行為かというと、身体に触る、性交、盗撮・のぞきが上位を占める。千葉県でも、本年度(4月から10月まで)で、わいせつ行為で懲戒免職になった教員は6人にのぼるという。

「なぜわいせつ事件を起こすのか、明確な理由がわかれば、対策もできるんですけど。自覚を促す努力はしても、なかなか有効な手がありません」と、文科省担当者も地団駄を踏む。教師と生徒の距離を近づけるツールとして、スマートフォンの普及を挙げる。「ひとつ考えられることは生徒と直接連絡をとることが容易になったこと。昔は教師は生徒の自宅に電話をしていました。もし仮に、毎日連絡が入るようであれば、親も怪しいと思うでしょう。今はSNSやメールで親の知らないところで子どもと教師が連絡をとることができるんです」そのため、教師に対し生徒との間でのSNSツールの使用や出会い系サイトなどの利用を禁止する学校は少なくない。元教諭が勤めていた高校もそのひとつだった。

生徒の話の中に、気になる証言があった。「生徒が困っているようなことがあれば相談に乗ってくれる気さくな先生」(高2男子)元教諭も、文部科学省のインタビューで「生徒のなかには家庭的に問題のある子が少なくない。学校内で対応しようとしてもどうしても限界がある」と答えていた。元教諭は、県教育庁の事情説明に対し「自分の気持ちの弱さから多くの人に迷惑をかけてしまった。女子生徒の心や身体を傷つけてしまって大変申し訳ない。自校の生徒や先生も裏切ることになってしまい、大変申し訳なかった」と、謝罪の言葉を口にしているが、どれだけ信用できるのか。生きづらさを感じる少女たちの支援を行うNPO法人『BONDプロジェクト』代表の橘ジュンさんは、「先生でも、相談を聞いている大人が加害者になるケースはたくさんあります。下心があるからやりとりもマメ。困っている子を救うんだから何をしてもいい、自分は許されると思っているんですよ」(後略)(週刊女性2017年11月14日号、一部改変)

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教育側は、常にアンビバレントな状況に置かれる。児童・生徒に近づくことを求められる反面、近づきすぎてはいけないとも言われる、という。SNSやクルマは、この距離感を技術的に縮めるツールと言えるだろう。だから、(生徒にとっても)抑制的であることを求められるが、対面しないコミュニケーションはいずれの方向であれ加速するとも聞く。

実際的であることを求められるのは経営の基本でもあるけれど、そのことは同時にリスクを孕む点で、経営に逆行もする。実際的であることを放棄して、無難を選ぶか。それとも、危険を承知で実際的であることを求めるか。悩ましい最前線である。





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# by walk41 | 2018-05-19 22:38 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

論文の効果?(そんな訳はないだろうけれど)

インターネットニュースで以下が流れてきた。小学校であだ名禁止や「さん」づけが広がっているというものだ(抜粋)。
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千葉県内の公立小学校では、生徒間だけでなく、教職員が生徒を呼ぶ際に、「○○さん」と呼ぶように定めている。県内の小学校教頭が語る。

「教職員が生徒を呼び捨てにすると、生徒たちの言葉が荒くなることが予想されるためです。優しい呼び掛けをすれば、続く言葉も自然と優しくなりますから。子供たちの場合も教職員と同じで、できるだけ優しい言葉を使っていこうということです」

※週刊ポスト2018年5月25日号

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以前、榊原禎宏「叱るときこそ丁寧にー教師の子ども呼称における賭け」(京都教育大学教育支援センター『教育実践研究紀要』12、2012)にて、次のように記した。

「…そして三つ目は、感情労働として教職を捉えれば、相手に丁寧に接することは、自身を落ちつかせるマネジメ ントにつながり、これと反対の状況、すなわち相手に乱暴に接すると、自分を操ることを難しくもする。つまり、 呼び捨ては引き続く表現と合わせて、自身をいたずらに興奮させ、また自分の乱暴な物言いに興奮した相手の感情に自分が影響を受けてしまうことで、セルフマネジメントを困難にする可能性を高めるのである。短い時間で の意思決定が職務上きわめて重要な教職において、冷静な業務遂行は必須ともいうべき条件だが、呼び捨てはこれを危うくしかねない。」(p.228)

いかがだろう。ともすれば呼び捨てが愛情表現や信頼関係の証しなどと評されるのに異議を唱え、呼び捨てが教員ー児童生徒関係のみならず、教員のセルフマネジメントにおいてもリスクを孕むことを述べていると思う。この点を踏まえた学校での取り組みがなされ始めている、と見て良いのではないだろうか。

もっとも、この論文が読まれて、なるほどと思われて、各地での実践へと連なっていったわけではまあないだろう。けれど、上のようなニュースはまずは嬉しい。ただでも葛藤や衝突と穏やかならぬ空気の漂いやすいのが学校と教室なのだから、その方向に棹ささないようにできることを探し、試みることはすぐれ重要と考えるからだ。

こうした試みが何を導くのか、「現場」からの報告を知り、また考えたい。


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# by walk41 | 2018-05-18 06:35 | ことばのこと | Comments(0)

学校経営という言葉

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学校を組織や運営という文脈で議論しようとするときに、避けられない問題は、何を指して学校の経営というのか、ということだ。このことは、school management あるいはschool administration という英語はどの辺りの日本語に落ち着くのだろうかと、言い換えてもよい。

ある高校をお邪魔した時に、写真の表記を見つけて、とても興味深く思った。この英語の限りは、school administrationとは別の部門が学校にあるかのような意味に取れる。それも一つの考えだけれど、学校のmanagementやadministrationって、他にどんなことを指すのかな、と改めて思わされたことだった。

ちなみに、この教務室は、例えば関西では職員室のことである。

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# by walk41 | 2018-05-18 00:04 | ことばのこと | Comments(0)

普通科高校の「普通さ」

街中にいると忘れがちだが、日本は島国で、離島もたくさんある。橋が架かり、行き来が随分と楽になったところがある一方、島内で生活をおおむね完結せざるを得ない例も少なくないだろう。

そうした島にも学校があり、高校まで置かれている場合もある。しかも普通科であったりする。となれば、専門の学科、いわゆる職業学科を視野に入れていない地元の中学生にとって、この高校に通うことは大きな選択肢の一つになるだろう。なぜなら、中学生の段階で、農業、商業、工業、水産などと専門性を絞ることは、かなり難しいだろうから。

だとすると、その普通科の生徒間の学力的「輪切り」は、けっこうな厚みになる可能性が高い。複数の高校があるほど、輪切りの厚みは薄くなる。十数校を数えるほどであれば、一番手高校、二番手高校と、明確にランキングまでされる。けれど、一校のみだとそうはいかない。

この結果、普通科に在籍することは、まさに普通 general(一般的な)に適うものとなる。いろいろな学力状況の生徒がいる。得手不得手もきっと多様なことだろう。そうした生徒が一緒に学んでいるということの「普通さ」は、輪切りされていることに馴染んだ立場からは、新鮮なことかもしれない。

かたや、インクルージョン(包摂)やインテグレーション(統合)、あるいはさまざまなマイノリティを視野に入れた教育が叫ばれてもいる。その先取りとは言えないだろうが、「多様であることが普通」な学校に通う高校生は、島国そして山国日本で意外に多いのかもしれないな。

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# by walk41 | 2018-05-17 09:01 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

ベアドッグ

ベアドッグと聞いて何を思い浮かべられるだろうか。

信濃毎日新聞(20180518)の記事に、ベアドッグがすくすくと育っているとあり、読むと熊のような犬でもなく、犬のような熊でもない、熊を山に追い返すための、熊対策犬のことだった。微妙なネーミングだなあ。

隣には、戸隠神社に熊が現れたと記事があり、熊と人間との共存が大きなテーマになっていることがわかる。ところ変われば…である。

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# by walk41 | 2018-05-17 08:49 | ことばのこと | Comments(0)

教職に就くということ

教員としての力量を身に付けるとはどういうことか、そもそも教員らしいとはどういうことかといった、実践には直接に役立たない問いは今や御用にあらず、いかに教員採用試験をクリアするか、が大学の効用として求められ、それを数値的に説明することが当たり前の光景と化している。

けれど、資格試験と違って採用試験は需給関係に左右されるから、採用されるかどうかはかなり相対的であり、地域差、時代差が大きい。民間ベースでネーミングされる「就職氷河期」に思うように就職できなかったからと言って、能力が低いとは判じられないのと同じである。

また、新規卒業後、すぐに就職できなければ採用者にカウントされないというのも解せない。一年くらい大学とは別の経験をしてみようと思うのは、そんなに否定的なことなのだろうか。その一方で、常勤講師等は数に入れてよいというのだから、何のこっちゃである。いったいどんな意味を持つ数値なのだろう。

くわえて奇妙なのは、一度、教員として就職すれば、それは「教職に就いた者」として数えられたままになることだ。私だけだろうか、大学卒業後、一度は教職に就いたものの、色々な事情や考えから、三年以内に離職した人を数人知っている。男女差もあるようだが、これは教職世界に送り込んだという点で、十分とは言えない。教育委員会サイドから見ればきっと、「もったいないなあ」「ややこしい話やなあ」だろう。良くも悪くも、しっかり教職に就いたとまでは言えない。

だから提案、もし教職にどれだけ就いたかを問題にするのであれば、卒業後数年間のうちに採用され、かつたとえば、その5年後も留まっている人の数を数えて、卒業者数に対する教員就職率と称してはどうだろうか。大学にとって教育委員会にとっても、そして文部科学省にとっても、今よりもっと中長期的な発想が求められることだろう。

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# by walk41 | 2018-05-16 18:35 | 大学のこと | Comments(0)

「子ども相手」の仕事をしていないか

ありがたいことに、教育委員会や学校とご縁をいただき、教員や生徒に話をする機会がある。今回はこれにまつわる愚痴と読んでくだされば、ありがたい(貴重な時間を、こんなネタですみません)。いわば備忘録です。

①ある高校から生徒に話をしてほしいと、その高校の教員から連絡があった。了解ののち、日程が確定。

②これを担当する別の教員とのやりとりがあってから、資料の準備をして配布用の資料を電子メール添付にて送った。それが授業当日の9日前である。

③資料を受け取ったと当該の教員から連絡がない一方、授業数日前、最初に連絡をしてきた教員から、資料を送ってもらえないかとメールが入った。すでに送った旨を返信したら「ありがとうございます。」と連絡があった。

④授業の当日、担当教員から「かありましたら、こちらのアドレスまで連絡お願いします」とメールが入った。送った資料のことに言及していなかったので、私は不思議に思った。

⑤その約30分後、担当教員から再びメール。「先日、資料を送って頂いたみたいなのですが、アカウントが変更してしまったので、メールアドレスが変更してしまいました。お手数かけて申し訳ないのですが、再度送って頂いてもよろしいでしょうか。」(原文ママ)

以上が経緯である。以下、私の感想。

a 配布資料があることについては、こちらから事前に伝えているので、私とのやりとりの中で、「印刷等の都合から、○日までに送付下さい」と、担当教員から連絡をした方が良かったのではないか。

b 最初に連絡をしてきた教員は、自分の照会に対して私から「すでに送った」と聞いた時点で、私からの資料が届いているかどうかを、担当教員と一緒に確認すれば良かったのではないか。

c 私の授業当日を待たず、それまでに資料の確認、そして生徒数つまり数十部の印刷を終えておくべきだったのではないか。

d 万が一、当日まで資料の確認をすることができず(ちょっとあり得ないと私は思うが)、当日になって資料が手元にないことに気づいた場合、大至急、講師に連絡をとり、職場等に駆けつけて直接に資料を受け取るといった対応が必要なのではないか。

e ところが、上の⑤のメールを送ってきたのみで、いわば放置状態である。私が⑤のメールを読んでいなければ、準備ができたものと思い、高校に向かうことになる。さあ、どうしたものだろうか。



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# by walk41 | 2018-05-14 10:12 | Comments(0)

授業者と児童の「変身」

学生たちと話をする。研究授業、公開授業ってどんな授業改善に役に立つ、つまり日常の延長上にあるものなんだろうかって。

これに対する元児童たちの経験は次のようだった。「その授業の前の時間までは、ジャージ姿だったのに、その時間にはスーツ姿になっていた。」「前の時間までネクタイをしていなかったのに、ネクタイをしていた。」「午後にあった授業の直前の掃除、いつもより丁寧にしていた。」「いつもは板書で済ませるのに、その日は色画用紙に予め書いてあるものをマグネットで、しかも一度しか使わないような磁石をセロテープで貼り付けてあるもので授業をした。」

どうだろう。教員の変身ぶりをよく見ているではないだろうか。また、児童も変身を余儀なくされたようだ。「後ろに座っていたら、参観者が自分のノートをのぞき込んだので、ちゃんと書かんとあかんなと思って、いつもより丁寧に書いた」「何、書いてんのん?、なんでこう思ったん?と尋ねられたので、思ったことを答えた。」

いずれも、普段の授業ではないような変身ぶりがうかがわれるではないか。来客へのマナーゆえと言えなくもないけれど、ならば、「ようこそ、お越し下さいました。今から、ぜひご覧いただきたく授業をしますので、ごゆるりとご鑑賞ください」と口上を述べればいいのに、それもなく、それどころか、参加者をまるで見えない、透明人間かのように扱う授業すらある。「いつもの授業」を仮構しているからこそ起こる、不思議な光景である。

見せるならば、ちゃんと見せる格好をとってほしい。舞台での芝居や演奏のように。また、そうでないのならば、刑事物のドラマに出てくるような容疑者の顔改めのように、一方向からしか見えないようなガラス越しに見てもらいたい。こんなふうに、どっちつかずの中途半端な「公開」授業。いい加減になんとかならないものだろうか。



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# by walk41 | 2018-05-13 17:54 | 授業のこと | Comments(0)

「教育上の自由」を使いこなすことの難しさ

十数年前のこと、中学校の校則では「買い食い禁止」なのに、対外試合の帰りなどにポケットマネーで部員にお菓子を買い与えていた教員がいた、という話を元生徒から聞いたと現職の教員たちに話したら、8年前の経験だが、当時勤めていた学校でも似たようなことがあったと話してくれた。

ある教員は、子どもを褒めるときに、教室内で自腹で用意したお菓子を配っていたのだという。じきに他のクラスの子どもが知ることになり、自分たちの担任にせがんだため、やむなく同じようなことをしたり、それでも問題になったので、教員間で話をして、「与えていいのは、シールまで」と決めたそうだ。

こんな話も聞いた。児童からバレンタインチョコをもらった教員がお礼をしていたら、「この先生はお返しが来る」と有名になり、もらうチョコの数が激増。すると、周りの教員から煙たがれ、結局お返しはなくなったのだとか。

うーむ。悩ましいテーマだ。なぜなら、教育業務の対象は、大抵はいわばまだ年端もいかない子どもたち、彼ら/彼女らが、好意を持った教員に何か渡したいと思うのはある意味で自然なことであり、また教員も、そうした児童生徒に何かしたいと思ってしまうこともわからないではないからだ。

けれど、教員の業務はお菓子を配ることではないし、ましてや歓心を買うために何かを与えることでもない。だから、どうしても生じる個々の裁量(状況認識、選択肢の用意、判断、行為という一連の活動)をうまく活かすこと、それが「教育上の自由」に当たるのだが、これを自分の思うままに、とか、自分を疑うことなく、と「自由」にしていいんだということでは、拙い結果を導きかねない。

あれこれのハラスメントやさらには暴行、暴言に対しては、厳しく戒めが言われるけれど、食べ物その他によって媚びを売ったり、贔屓を思わせたり、迎合することもまた自制が強く求められるのだろう。自律性の重要性はまま唱導されるけれど、それを適切に駆使するのは、決して容易でないと思わされる。



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# by walk41 | 2018-05-11 16:53 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

女子生徒の振る舞い

授業で学生たちと話す。「授業をどう捉えるか」というお題で、授業が教員(授業者)だけではおよそ制御できないものであるにもかかわらず、仮説-検証、PDCAサイクルといった、あたかも主体は自分だけで、他は対象(物言わぬモノ)かのように語ることそのものを疑わなければならないのでは、という話から、授業中の生徒間のダイナミズム。とくに女子生徒の振る舞いが話題に上った。

女子生徒の中には、自分を賢く見せることが決して賢明ではないという、ジェンダーバイアスが働くために、クールダウンとも言うべき、野心的でないかのような振る舞いが生じるのでは、と問いかけると、ある女子学生曰く、定期試験の前日などに「私、ぜんぜん勉強してないし」とか。試験時間の間の休み時間などに「私、ぜんぜん勉強してないから」と言う同級生がいた。そんなこと絶対にあるわけないのに、と。

なるほど、「自分は頑張っていないアピール」をすることで、ガツガツした感じを抑制するとともに、もし悪い結果に試験が終わったときの落ち込みを抑えるための予防線を張ろうとしたゆえではないか、と聞いた次第だ。後者については、別の女子学生が「保険を掛けるというか」という言葉で補足していたことが、印象的だった。

以上からふたつのことを言えるかな。ひとつは、文化的・社会的際であるジェンダー的な歪み(バイアス)が21世紀直前に生まれた世代にも生き続けているだろうこと、もうひとつは、場合によってはかくも強力な生徒間の力学が働くというのに、そんなものはまるでないかのように授業指導案が作られ(しかも、それが普遍性を帯びるかのようなスタンスを持って)、教員間(だけ)でのまことしなやかな、発問や時間配分の適切さといったことがお喋りされる(研究という名目で)ことの滑稽さについてである。

教員間では「子どものみとり」「児童・生徒理解」と言われるけれど。そうした診断力をいかに身につけるのか、またそれが万が一身についていたとしても、教員が制御できない要因を当たり前のようにはらんだたま、いかに指導案に沿った授業を求めうるのだろうか。授業を語る上でのこんな基本的なことを端折って、授業研究や教材研究と言ってるなんて、どうも大きな勘違いをしてはいないだろうか。

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# by walk41 | 2018-05-10 23:22 | 身体 | Comments(0)

教員への暴力に関する調査報告(ドイツ、2018年)

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興味深いページを見た。ドイツ教育連盟(Verband Bildung und Erziehung)のバーデン=ヴュルテンベルク州支部による、「教員に対する暴力行為」に関して校長に行った調査の報告である。ドイツ官吏連盟の傘下にあるこの専門団体は、2018年1月にコンピュータで無作為に抽出した学校の校長1200人(うち、バーデン=ヴュルテンベルク州内は251人)に電話インタビューを実施、データを集めた。(https://www.vbe-bw.de/wp-content/uploads/2018/04/2018-04-23_forsa-Charts_Gewalt-gg-LK_Sicht-SL_Ba-W%C3%BCBund-2.pdf)

そこでは、次の項目が尋ねられ、また回答の結果が示されている。
①「対教員暴力というテーマは、広くオープンに扱われているか。」[ドイツ全体では「はい」が46%、「いいえ、むしろタブー」が39%。40歳以下の校長においては、各々38%、53%と、若い校長ほどオープンにこの問題が扱われていないと認識している]

②「過去5年間にあなたの学校の教員への暴力事案があったか。」[ドイツ全体では、「直接に無礼なことを言われた、脅かされた、侮辱された、いじめられた、ハラスメントを受けた」が48%、「インターネットで中傷、ハラスメント、嫌な思い、脅迫、無理強いをされた」が20%、「身体的に攻撃を受けた」が20%。また、基礎学校、基幹学校/実科学校/総合制学校、ギムナジウムごとの値も示されている。]

③「暴力を受けた教員に対する十分なサポートがほぼ行われている。」[ドイツ全体では、「はい」87%、「部分的には]7%、「わからない・無回答」4%、「いいえ」2%]

④「暴力を受けた教員をサポートする際の困難について。」(過去5年間に暴力事案があり、かつ③の問いに対して「部分的に」あるいは「いいえ」と回答した校長への質問、複数回答)[該当する生徒がしばしば多様な面を見せるから(63%)、保護者が協力的ではないから(59%)、文部省がこの問題を十分に引き受けないから(33%)、事案の報告が官僚的に過ぎ、時間を要するから(22%)、他の多くの課題があるから(22%)、問題があるということで学校の評判を落とすから(21%)、学校行政や自治体がこの問題を十分に引き受けないから(21%)、学校関係官庁(Schulbehörden)が 訴えを快く思わないから(11%)、同僚間での望ましいサポートが欠けているから(8%)。以上である。

いかがだろうか。これを読んで私が思ったのは二つ。一つは、ところが変わると問題の状況も変わるのだということ、つまり、④に顕著だが、学校の評判が落ちるとか、関係行政機関に訴えてもサポートされない、といった項目が用意され、それなりの回答が集まることに驚かされる。日本で同じような調査を行ったならば、どんな項目が用意されるだろうか。

もう一つは、ともすれば学力向上、教員の資質向上、あるいは学校と家庭(日本ではくわえて、地域社会)との連携といったスローガンが目につくけれど、対教員暴力といった事実も厳として存在し、しかも、むしろタブーとか、明るみになるのを良しとしない風潮が災いしてか、公然と議論できていない状況の見られることである。一見、話題に上っていないからといって、事実がない訳ではない。むしろ、公然ではないことこそ、より深刻な問題である可能性すら考えるべきではないか、と思わされる。


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# by walk41 | 2018-05-09 18:43 | ドイツのこと | Comments(0)

授業が行われない?(ドイツ語記事)

20180122、NDR(北ドイツ放送)ニュース(https://www.ndr.de/kultur/kulturdebatte/Musikunterricht-Mangelfach-im-Norden,musikunterricht106.html)

音楽教育は将来、個人ごとになってしまうのか? 多くの学校において、音楽は行われない授業の一番である。後進がいないために、教員は専門としてではなく教えているのだ。北ドイツの学校の音楽の授業は、どのような状況になっているのか。これが今週のNRD文化編集局のテーマである。ハンブルクでの多くの学校の一つにおける調査だ。

(中略)

問題は、授業がなくなることによって教員が不足するということだ。2015年のAllesbach研究の知見によれば、ニーダーザクセン州の生徒のほぼ半数は、定期的に音楽の授業がなくなるという経験をしている。同州では4校に1校で音楽教員がいないということは、驚くに値しない。2015/16年、すべての学校種を跨げば5校に1校という状況である。これは州議会で少し問題になった。(北隣の州である)シュレスヴィッヒ-ホルシュタイン州ではこの間、すべての普通教育学校で音楽を足りない教科と見なすようになった。つまり、試補教員に辿り着く者が減り、あらたに音楽の教員となる者が減るということである。


上級学校で音楽の授業が継続的に行われない

「全北ドイツの諸州では上級学校において、継続的に音楽の授業がなされていない」と。連邦音楽教育連盟ハンブルク州代表のTorsten Allwardtは、問題を把握している。「音楽の授業は、5,6年生では今でもよく行われています。しかしそれ以降になると、すべての選択コースが抑制されるのです。」つまり、上級学年では明らかに僅かしか発展コースが用意されなくなる。「発展コースをもはや持たず、音楽をプロとしてやろうという人は本当に少なくなります。そして、これがまた学校音楽の履修者がほとんど人が来ないという打撃を与えるのです。」


こうした悪循環をさけるべく、同連邦連盟は音楽の授業を要求する。とくに教育経験の乏しい家庭の子どもにとっては、楽器や音楽書あるいは様々なきっかけを得るには学校しかないからだ。同じく2015年のAllesbach研究によれば、大学卒業の保護者の子どもの77%は、保護者が子どもたちの文化的関心を引き起こしているのに対して、教育経験の少ない家族の子どもの場合は33%に留まる。「他の学校でも、音楽の授業がないといっそう多く聞きます。まったく誤ったことです」と音楽教員のWillie Jakob。


「音楽は知性と社会的な振る舞いを鍛える」

この4年生b組の授業を観ればわかる。いかに音楽が鍛え、刺激するかを。たとえば、一緒にダンスをし、リズムあわせをすることで、緊張をほぐし、グループという感覚を築くか。音楽教員Willie Jakobは、「私は、子どもに知性と社会的振る舞いを鍛える上で、音楽は適していると思う」と述べる。


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# by walk41 | 2018-05-07 17:06 | ドイツのこと | Comments(0)

「だいたいそんな感じ」で学ぶことの重要性

この間の授業で、「基礎ができていないと応用ができない」のか「基礎が必要とは言えるけれど、あまりにかっちりしたものを求めると新しいアイディアが生まれにくいのではないか」について、学生たちと考えている。

私は、基礎や基本といものが、経路依存性(Path dependence)を多分にはらむ点で、普遍的な分類にもとづくものではないことから、あまりこれらに縛られるとマズイという立場をとる。基礎の集積としての「世の常識」なるものは、それほど長持ちしないと考えるのだ。

ところが、「そんなはずはない」と考える人の中には、長らくそうだったと思いたい気持ちが強すぎるためか、捏造する場合が出てくる。江戸時代、待ち合わせの時間に遅れたら大変な罪だったという妄想を描き、その「伝統」が今も生きていると説いたり、ここ150年間ほどの発明なのに、一人の天皇が使う元号は一つだけ、交代するときに元号が変わるのが「伝統」だと吹聴したり、と。

さて、基礎のことに戻り、「だいたいそんな感じで覚えるくらいがちょうどいい」ことを単語に即して考えてみよう。いきおい「正しい書き方」が求められる言葉の習得だが、たとえば、英語とドイツ語ではこんな対照になる(左が英語、右がドイツ語)。

愛:love ----- Liebe [vとb]

たくさん:full ------- voll [fとv]

古い:old-------alt[o とa]
新しい:new------neu[だいたい同じ]

ようそこ:welcome ------willkommen[lと m が1個か2個か]

神:god ------Gott[dとt、tが1個か2個か]

氷/アイスクリーム:ice -------Eis [同じ発音だが、綴りがぜんぜん違う]

強調:accent-----Akzent[cとK,Z]

こんなふうに、必ずしも法則的とは言えない部分があることを知って、学ぶことが大切だと思うんだけれどね。

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# by walk41 | 2018-05-07 09:09 | ことばのこと | Comments(0)

授業持ち時間数と勤務負担

教員についても「働き方改革」が叫ばれ、とはいうもののと、ため息をつくだろう教育委員会と学校はさぞかし困惑、苦悩していることかと思う。ここまで学校としての翼を広げたいま、収める術が見つからないからだ。

たとえば、中学校を想定すれば、教員には、部活動指導、不登校や「いじめ」を含む生徒指導と家庭訪問、3年生ならば進路指導などが、授業以外にのしかかってくる。その負荷は相当なものだろうと思う。しかも、自分だけでつもりができない、つまり相手次第、状況次第の面が強いことが、負担感を強めているのではないかと私などは思う。好みもあるだろうけれど、自分で仕切れない時間を過ごすことは、けっこうしんどい。

さて、それらに加えてと言うべきか、別題と言うべきか、授業に限って見た場合の、教員間の負荷をどう考えればいいかという難問がある。教科によって負担すべき授業数(持ち時間数)に幅があり、しかもその中身の違いも侮れないほどだからだ。たとえば、同じ時間数でも、授業中に説明をかなり要する教科、授業の前後に宿題のチェックや添削等をしなければならない教科があれば、これらとは違う時間の使い方をする教科もあるだろう。認知、感情、意思決定を含む身体的資源の消耗は、決して時間数だけで測れるものではない。

とはいえ、持ち時間数は一つの判断材料になる。何よりも、その時間分は拘束され、他のことはまずできない。自分の裁量の余地が小さくなる分、負荷は増すと見てよいからだ。

そんなことを思っていたら、ちゃんと調べてくれている統計に出合った。長野県教育委員会教学指導課が出している「学校経営概要のまとめ(小・中学校版)2017年度版」によれば、中学校教員の週持ち時間数別の割合は次のようである。同資料では最高グループと最低グループを除き、1時間刻みで示してくれているが、以下、大括りしてみる。

10時間以下、2.1%
11〜15時間、8.6%
16〜20時間、71.9%
21〜25時間、17.2%
26時間以上、0.2%

3分の2以上の教員が、16時間以上20時間以下に含まれる一方、15時間以下が10.7%、21時間以上が17.4%とそれなりにいると見れば、持ち時間数の幅はなくないと言えるだろう。ここを強調すれば、同じ職場に担当時数が2倍(近く)違う同僚がいる、しかも同じような年齢や学歴ならば給料もだいたい同じ、というのはなかなか複雑な気持ちになるのではないかと予想する。

議論とは多分にそうなのかもしれないけれど、授業の持ち時間だけで幅のある、これに校務分掌も乗っかってくる、一概に忙しい、ではすまない複雑な中で、教員は働いていると捉えるべきだろう。だから、教員のワークシェアリングとして、勤務時間に応じて処遇するという方式を日本でも導入すればといいと思う。その根拠のあることを示しているものとして、榊原禎宏ほか「教育職のワークシェアリングに関する一推計-小・中学校の事例分析から-」(『山梨大学教育人間科学部紀要』 4(1)/288-300 2002年)、榊原禎宏「パートタイム労働としての教職像-ドイツにおける教員の検討から-」(『京都教育大学紀要 117/35-49 2010年)を執筆している。ご高覧を願えれば嬉しい。





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# by walk41 | 2018-05-05 19:26 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

教育と宗教

「スポットライト 世紀のスクープ」(2016年)を観た。

アメリカのボストンでの実話を映画化。カトリック教会神父による少年・少女への性的虐待を地元の新聞社が長期の取材、神父全体の約6%にも上るという研究者の声も得て、1500人中、87人の疑いある神父を見つけ出し、70人による加害を暴露した話である。

その中で被害者だった元少年が次のように語る。経済的にも愛情的にも貧しい家庭で育った子どもにとって、教会は別世界であり、そこで神父に認められることは有頂天になる。そこに性的虐待が行われると、信じられない、ましてや告発することなどとてもできない、教会に送り出した近親者にすら認められず、逆に非難すらされかねないような状況に置かれる。神父に逆らうことは神への裏切りでもあるからだ。そうした自分を愛せず、やがて自死した被害者も少なくない。語ってくれた今や大人は自身を「生き残り」と称した、壮絶な話である。

巨大な力を持った/持つと思わせる神父による虐待という構図は、韓国での実話を映画にした「トガニ-若き瞳の告発」(2011年)を思い出させる。聴覚障碍をもつ子どもたちを集めた全寮制の私立学校で、何と校長を始めとした教職員による、生徒たちへの性的虐待が行われていたのだ。

権威の存在、それを自明として自律できない指導者、彼らを庇護し事件を隠蔽する組織-これは教会に限らず学校についても当てはまるのではないだろうか。

最近、こんな教師が中学校にいたと元生徒から聞いた。生徒を日常的に殴っていたその輩はこう話していたそうだ。「殴られたおまえの痛みはじきに消えるが、おまえを殴らなければならなかった俺の心の痛みは消えることはない。」-まあなんと便利な言い方だろう。

昨今、教職は高度専門職にふさわしくあるべく、コンピテンシー論や教員育成指標の策定と、まるで能力のパーツを組み合わせれば「教員がひとり出来上がり」かのような話にもなっている。けれど、教育という労働上、どうしても認められる「教育上の自由」をうまく制御できる自律性こそ、専門職のゆえんではないだろうか。

「そういう規則になっているから」とか「時代がそう求めているんだ」と、他者のせいにしないで、自分で考え、ふりかえり、他の意見にも耳を傾け、行為できること、それを支える使命感や潔さをいかに担保するか。「自信たっぷりに、揺るがぬ信念をもって」ではなく、「こわごわと仕事をする」ことの大切さを知っていること、そもそも知る力を持っていることが、けっこう重要ではないかと思う。





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# by walk41 | 2018-05-04 23:34 | 映画・ドラマ | Comments(0)

「全員挙手をして、うれしいのは先生だけだと思います。 みんな一緒が大好きな教育方針も疑問を感じます。」

ずいぶんと前の拙ブログを読んでくださり。コメントを下さった方がおられる。察するに小学校に子どもさんを通わせている保護者の方のようだ。

以前から、学校で挙手することについては疑問を呈していた。2013年には「教師はなぜ挙手を好むか-教師の思惑、子どもの都合」と共同論文を書き、拙ホームページ(https://walk411.wixsite.com/yoshihirosakakibara/publikum)中の、論文紹介(https://docs.wixstatic.com/ugd/b7f39f_ce3fb427cfe8414ebf68b0613a4d18f9.pdf)にも挙げている。ご関心の向きにはぜひご高覧願いたい。

改めて、ブログ記事を読み返して、挙手という仕掛けとその運用に心しなければと思わされる。つまり、挙手を求めることと、それをきっかけにした教育上の操作とは区別しなければならないということだ。

挙手が、言いたい子どもの意向を尊重するとともに教員側の主導権も保持するのに理に適っているとは言える。口々に話されては収拾がつかず、その場を仕切るはずの教員の面目も立たないだろう。

けれど、挙手しないことが授業への不参加と即、見なされるとか、「分かっているはずなのに」挙手しないことを批判されるといった、挙手にいわば引っ掛けて子どもを評価したり(「手を上げないから意欲が低い」)、ましてや、その評価を直接に子どもに伝える(「どうして手を上げないの」「手を上げない子は悪い成績が付くぞ」)などへと濫用すべきではない。

同上の論文にも記したが、教員にもそうであるように、子どもには子どもの都合があるからだ。子どもの都合を聞かずに挙手を求めているのだから、そこで教員の思い描く「理想像」が見えないからといって機嫌を損ねるのは、我儘というものである。

子どもから「ねえ、先生、先生」と声をかけられても応じられないことはしょっちゅうだろう。「あんたらの都合だけで、言わんといて」って。なのに立場が変わればこの様だ。「なんで、聞いてるのに手を上げないんだ」って。

自分を(ちょっとかもしれないけれど)エラいと思ってしまうことは、かくもおぞましいことである。声に出さない子どもにこっそり毒づかれているかもしれないよ。「偉そうに。いったい何様なんや」って。

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# by walk41 | 2018-05-03 09:39 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

音に関わる閾値

「麺すする音、訪日外国人に話題」(朝日新聞、20180501)を読んだ。うどんやそば、あるいはラーメンをすするズズッという音が気になるか、さらにはマナー違反なのか、構わないのか、というお題だ。

ちょうど、「スーパーマーケットで流されるBGM」について、閾値の違いの例として学生たちに話をしたところだった。私はこの手の音がいたく苦手で、そうした店には極力行かないようにするのだが、学生の多くはどうも、たとえ複数の音が混じっても気にならない派が多数のようだった。いやー、びっくり。そうなのかあ。

スーパーマーケットでどこにいても聞こえるBGMにくわえて、売り場ごとに流されるコマーシャルメッセージ、これが複数箇所から聞こえたりすれば、私にとっては「これは何の拷問か」と毒づきたくなるほどである。同じ音でも、店の名前の連呼やその絶叫音に至っては、その場から一刻も早く逃げ出したくなる。何が悲しくて、そんな騒音に身を置かなければならないのか。わけわからん、という感じである。ちなみに、この点で、ドイツのスーパーマーケットは、私の知っている限り、BGMが流れないので快適だ。ちょっと寂しいくらいなのがちょうどいい。

音に寛容な人が周りに多いのか、それともいささか失礼ながら音に鈍感な(閾値の違い)人ゆえか、わからないけれど、個体差はけっこうありそうだ。匂いもそうだが、音も基本的に自分の意思で遮断できない。見たくなければ目を閉じることができるのだけれど。

不幸中の幸いは、家人もだいたい私と同じような、音に関わる閾値だということ。これが大きく違うと、日常の小さな不幸になりうる。綺麗好きかどうか、時間に細かいか鷹揚か、そんな小さなこと(当事者にとっては、大きなこと)の集積として生活は成り立っていると改めて思わされる。

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# by walk41 | 2018-05-01 16:40 | 身体 | Comments(0)

ギムナジウム以外の学校に通う生徒の学力問題(ドイツ語記事)

「読解でたくましく」「数学でたくましく」のモデル事業が新年度に始まる。

文部大臣「将来、再びよりよい生徒の成績が実現できるように、あらゆる努力を引き受ける。」

先週、州の職業実科学校/基幹学校、実科学校、「社会的な学校」(GMS)、そしてギムナジウムの結果、VERA8(8年生の比較研究)が明らかとなった。この比較研究の中心的課題は、それぞれの学校の授業と学校を開発することにある。結果はすべての生徒にフィードバックされ、教員は目指されるべきサポートを行う。文部大臣Dr. Susanne Eisenmannは「研究の結果、ドイツ語と数学において成績が望ましくない生徒のための強力な支援が必要なことが明らかとなった。」

ギムナジウム以外の学校における対応の必要
注目すべきは、とりわけ基幹学校、職業実科学校、「社会的な学校」(GMS)における結果である。基幹学校と職業実科学校の生徒の43%は、コンピテンシー領域の読解について最低限の基準(Mindeststandard)に届いていない。GMSでは22%、実科学校では9%である。数学については、基幹学校と職業実科学校の生徒の45%が最低限の基準以下にいる。GMSは26%、実科学校は9%だ。これに対して、ギムナジウムでの結果は安定して高い水準にある。

「VERA8の最新の結果は、授業と学校の質的向上に緊急の対応の必要を強調している。したがって我々は、将来、再びよりよい生徒の成績が実現できるように、あらゆる努力を引き受ける。」「このために、すべての関係者にはボタンを押すかのようなものではない、長期的な構えが必要である。」文部大臣は適切な方略を準備し、教育システムのすべてのレベルの確固たる質的開発のための基盤を置いたと明言している。学校の質的開発をさらにサポートするために、連邦レベルでの比較研究と州レベルの既存の学習スタンダード調査を結びつけることも計画している、と述べた。また、「どこに個々の生徒がいて、目的にふさわしく我々が支援できるかを知らなければならない」とも。

「読解がたくましくする」「数学がたくましくする」が新年度に開始
2016年10月に「教育の質研究所(IQB)」の教育スタンダードの結果が公表されたことを受けて、文部大臣は学校関係者、団体、教育研究者あるいは他州の専門家と、結果をともに分析するための対話を、多く進めてきた。「Schleswig-Holstein州において、我々は読解と数学のサポートに関する多くの有望な命題を確信できた。これらをいま活かしたい」と文部大臣。2018/19から文部省は、5学年から2020/21年の7学年までの「読解がたくましくする」「数学がたくましくする」モデル事業を、基幹/職業実科学校、実科学校、GMSにおいてスタートさせる。

このプログラムは、ドイツ語の読解と数学における生徒への適切なサポートを強化するものである。それは、Schleswig-Holstein州の質的開発インスティテュートによって開発された。キールのChristian-Albrechts大学と自然科学・数学教育研究所による学術的な評価結果が、同州のプロジェクトの成功に寄与している。バーデン=ヴュルテンベルク州におけるモデル事業は、Benjamin Nagengast教授(チュービンゲン大学)の指揮のもと学術コンソーシアムを通じて評価され、その結果は本州のプログラム大枠の有効性に関する明確な発言となる。「このプログラムの実施にあたっては、 Trautwein教授が率いる学術評議会がさらにアドバイスを行う」と文部大臣。この二つのモデル事業にはそれぞれ24の学校が参加できる。その参加に関する通知が、いま学校に届けられているところだ。

話す、読む、計算コンピテンシーをまず強化する
中等教育段階ⅠにおけるVERA 8は、ドイツ語と数学の強力なサポートの必要性を明確にしたが、それはまた、すでに基礎学校における適切な支援がなされるべきことも明らかにしている。この方向においてより重要なこととして、基礎学校でのドイツ語と数学の授業時間数の増加がすでに措置されている。これに引き続き、2018/19年からは基礎学校に4時間の「プール時数」(学校裁量として持ちうる時数)を加え、とくにドイツ語と数学での個別支援に充てる。これに対して、基礎学校では3学年で初めて外国語の授業を始めるようにする。「外国語の授業を本当に始める前に、生徒たちが上級学校でさらに積み上げられる読解、筆記、計算の基礎的なコンピテンシーをまず身につけなければならない。」これに関しては、政府の招きに応じたマックスプランク教育研究所のJürgen Baumert教授の率いた専門委員会が『出自と教育的成功』と題して2011年に示唆するところである。

比較研究に関するさらなる情報を
比較研究は、州レベルの質的発展を個々の学校レベルで支援しようという常設文部大臣会議(KMK)の教育モニタリング(監視・追跡)の一部でもある。比較研究は、州を跨いで求められる教育スタンダードを志向するとともに、ある学年の生徒がどれだけコンピテンシーを獲得しているかを、テスト時点において州の結果の比較として研究する。VERAは教育スタンダードと授業において追求されるコンピテンシーの設定に関わる伝達機能も有している。

このほか、PISAやPIRLS/IGLUといった国際的な学校達成の比較や、国内での「教育の質研究所(IBQ)」の教育トレンドが、いずれも代表的サンプがあり。VERA3とVERA8は、すべての普通教育学校におけるすべての3年生と8年生に実施される、広範で、連邦全体のまた基本的なテストとして実施される唯一のものである。20180426、バーデン=ヴュルテンベルク州、文部省ニュース)

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# by walk41 | 2018-04-30 11:02 | ドイツのこと | Comments(0)

立て看と景観保護

京大キャンパス、百万遍を中心にたくさん見える、立て看板(タテカン)が撤去されることになりそうだ。

サークルの勧誘、政治的主張など、長らく「当たり前の風景」として馴染んできたが、京都市屋外広告物等に関する条例に抵触するようで、早晩片付けられることになると新聞を読んだ。

たしかに、お世辞にもきれいとは言えないものもあるし、風雨にさらされて劣化、倒れてくるのではとおっかないものもある。けれど、「人々の営みや歴史と伝統に培われた文化を映しながら、多くの個性豊かな景観が形成されてきた」(同条例)と言うのであれば、文化の定義が恣意的ではないか、つまり人間のすべての営みが文化なのだから、いずれが文化的/非文化的と分類することがおかしいと批判もできるだろう。

かつて、雑踏をきわめた大阪駅前も今やすっかり「きれいに」なり、阪神百貨店あたりの地下街で座っていた「お乞食さん」、新聞販売や署名集め、最後には立ち食い串カツ屋までもが、撤退を余儀なくされた。汚い、こわいと感じた向きには良くなったことだろうが、おもしろい、不思議と感じた人には、何とも寂しいことでもある。

整然とされることの良さ、雑然であることのエネルギーのいずれを大切にするか。さいごはバランス論なのだろうが、前者が優位しがちな「優等生」的な言説が当然かのように流布されること、また「規則にしたがっただけ」と関係者自身の思考が働かない状況を少し憂う。


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# by walk41 | 2018-04-29 11:38 | Comments(0)

授業改善と教育の質(ドイツ語記事)

構造的なさらなる展開によって、州政府は州の授業の質を改善する意向である。ふたつの新たな機関が、これに対して重要な支援を進めることになる。その一つは「学校の質および教員養成センター」であり、もう一つは「教育分析インスティテュート」である。

州政府はバーデン=ヴュルテンベルク州における教育システムの新たな質コンセプトを決定した。そのために、2019年に新たな2つの機関(インスティテュート)が創設される。「学校の質および教員養成センター」はすべての教員の研修と結びつき、教育分析インスティテュートは、システム的モニタリング(追跡)を担う。

質の高い授業が生徒の成績を決定する

州首相Winfried Kretschmannは「学校の成果にとって決定的なのは、質の高い授業である」と述べる。「そのための基本的前提は、学校のための質を追求する効率的な支援構造であることが明白だ。新たな機関はそこで重要なサポートを行うことになる。」文部大臣Susanne Eisenmannも、同様に強調する。「効率的な構造は学校と授業のより高い質のための基本的前提である。そのことは他の諸州の経験が示している。未来志向の文部行政にとって、新たなコンセプトは中心的なスイッチとなる。」

従来の二重構造は解消される。相談、教員研修、教員養成の領域で多くに分かれている部局、機関、団体は、新たな機関(インスティテュート)に束ねられる。学術審議会はインスティテュートの学術にもとづく実践のための相談・ガイドライン組織に特化される。

システム的な教育モニタリング

「生徒の成績と授業の質に関する確かな結果なしに、どのような教育政策やいかなる教育的コンセプトが意味を持つのかを我々は知ることができない。」と州首相。「新たな教育分析インスティテュートは、この陥穽を埋めるとともに、将来的にシステム的モニタリングを行うものである。」これにより、文部省から学校に至るまでの教育システムの次元におけるデータにもとづく質的開発の基礎を作り出す。その目的は、学習状況に関する調査といったことに関して、学校と学校監督が強固なデータにもとづき職務を遂行できることにある。」

文部大臣は述べる。「すべての学校種をまたぐ中央学習状況調査は有意義であり実施されることになる。我々は子どもがどのようであり、個々を支援できるかを知らなければならない。」教員研修と授業コンセプトは、その実施から効果までを検証されることになる、と文部大臣。

中心的な教員研修

新たな「学校の質と教員養成センター」は、授業と学校の質向上のための教員養成、研修(継続教育)および支援コンセプトを将来的に発展させる。教員の相談、支援、研修のための文部行政内の状況は、これまで著しくバラバラであった。

「このセンターの中心課題は、州全体にわたって将来的に高い公平な質を担保できるようにすることである」と州首相。そのために、必要な学術的なデータの基礎を教育分析インスティテュートは提供する。この二つのインスティテュートは密接に連携する。地域の単位は、中央で開発された諸概念を各地域での担うことになる。」

並立的な構造を解消することが効率的な行政につながる

「合わせて、文部行政における並立的な構造をなくし、効率性を高めるためのリストラを行う」と文部大臣。そこでは現在の人的資源が活用される。」

現在の教員研修の課題と学校監督の相談業務については、「学校の質および教員養成センター」とその地域支所へと引き継がれる。州立教授・教員養成および教育専門セミナーも同様に、地域支所へと統合される。教授・教員養成セミナーは今後、学校種に対応した教員養成のほか、教員研修課題も担うことになる。すべての地域支所は「教育支援中央オフィス」として学校と各人からの問い合わせに対応する。学校心理学的な業務については、変更しない。

「学校の質および教員養成センター」には学校スポーツ、学校芸術および学校音楽インスティテュート、同様に州立学校芸術・学校-アマチュア劇アカデミーも含まれる。従来の州立の教員研修および人的開発アカデミーと学校開発アカデミーは、新たなインスティテュートに移譲される。「学校の質および教員養成センター」は、州メディアセンターあるいは州青年音楽アカデミーなどの文化領域施設と引き続き協力を行う。(バーデン=ヴュルテンベルク州、州政府ニュース、20180424、https://www.baden-wuerttemberg.de/de/service/alle-meldungen/meldung/pid/mehr-qualitaet-im-bildungsbereich/)


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# by walk41 | 2018-04-25 21:18 | ドイツのこと | Comments(0)

文責

学生からのメールにちょっとしたミスがあり、やんわりとたしなめたあと、大昔の自分のことを思い出した。

大学職員の下っ端として働き始めてまもなく、ある研究室から研究成果が上梓された。そこで、関係諸氏に献本をするにあたり、研究代表者の挨拶文を同封するのだが、なぜか本人ではなく私が書くことになったのだ(そのことを疑問に思わなかった自分のあんぽんたんさにも呆れる)。

そこで、今よりももっと世間を知らなかった私は、この文章の責任は研究代表者にではなく、私にあるのだと伝えるつもりで、挨拶文の末尾にカッコ書きで自分の名前を、つまり(文責 榊原禎宏)と記したのである。

後日、近しい方から「あれはおかしい」と指摘を受けて、それでもなお「そうなのかなあ」と思っていたくらいだから、厚顔無恥というべき20代だったのだろう。いわば定型の挨拶文に文責という表現が馴染まないということを知らなかったのだ。

そして今、したり顔で若人に接しているつもりはさらさらないけれど、今の20代の方がしっかりしていることも多くあるだろうなと、あくまでも至らぬ自分の例を引けば思う。30年近く前のことだが、まあいい加減なものであった。今でも他者に話して笑ってもらうくらいである。



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# by walk41 | 2018-04-24 22:05 | Comments(0)

大学の連携先

教員養成の単科大学に勤めているせいか、同じく教員養成に関わっているとはいえ、総合大学の教育系学部の様子については、知らないことがきっと多いのだろう。こんな記事を目にして驚いた。

…秋田大学教育文化学部及び大学院教育学研究科と秋田刑務所は、それぞれの持つ人材、知識、情報などの資源を活用して相互に協力することにより、再犯防止推進法等の推進、人材の養成に寄与することを目的として連携協定を締結しました。

主な連携内容は、学生の人材養成(公認心理師養成に伴う講義や実習に関すること)や教員の共同研究(受刑者の特性に応じた改善指導方法の検討)など。(中略)

武田学部長は「秋田刑務所とはこれまで教員の研究面での交流は行われていた。平成30年度から心理学の初の国家資格である公認心理師養成のカリキュラムが開始されることを受け、学生が矯正領域での心理学を学ぶ場としてさらなる協力を仰いでいきたい」と述べました。五十嵐所長からは「大学の研究のノウハウを反映させていただくことによって、受刑者の改善指導のプログラムに対する効果検証等、より良いものとなっていく。再犯の防止に向けてさらに取り組んで行きたい」と挨拶がありました。(後略)…(「秋田大学広報誌<アプリーレ>No.59、2018)





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# by walk41 | 2018-04-23 23:00 | 大学のこと | Comments(0)

女性頼みの観光誘致?

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秋田県観光連盟のポスター。私が見た限り4種類あり、うち①「秋田、総おもてなし宣言」が2種類、②「みんな、秋田の案内人」が2種類である。これらを見ていて気になったのは、登場する人たちに占める女性の割合があまりにも高いのではないかということだ。

①は写真のようだが、このポスターには28人が登場し、うち女性は22人。8割以上が女性である。もう一枚は、27人中19人が女性、約7割を占める。

また②には合わせて54人が載っているが、このポスターは「カンバン娘」とも銘打たれており、全員が女性である。

これら4枚に載る人はあわせて109人、うち女性は95人、ほぼ90%に達する。男性が登場する①に限っても、55人中41人が女性、およそ75%である。

つづめれば、過半数、さらに8割、9割に達するほどの女性占有率は、明らかにバランスを欠いていると思う。ひょっとしたら、観光業界の多くが女性によって担われているのだろうか。それとも、女性の表情がより観光へと誘うのではという思惑ゆえだろうか。このポスターの製作者の考えを知りたいものだ。




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# by walk41 | 2018-04-22 07:13 | 身体 | Comments(0)

女子大学のジレンマ

女は大学に行くな、という時代があった。
専業主婦が当然だったり。寿退社が前提だったり。
時代は変わる、というけれど、いちばん変わったのは、
女性を決めつけてきた重力かもしれない。
いま、女性の目の前には、いくつもの選択肢が広がっている。
そのぶん、あたらしい迷いや葛藤に直面する時代でもある。
「正解がない」。その不確かさを、不安ではなく、自由として謳歌するために。私たちは学ぶことができる。
この、決してあたりまえではない幸福を、どうか忘れずに。たいせつに。」

神戸女学院大学の電車内広告だ。なかなかパンチの効いた、私好みでの真っ当な広告だと思う。

けれど難しいのは、この大学が男女共学ではないこと、またこう謳うけれど少なくとも当面は共学にならないだろうことだ。「女人禁制」と対をなしている「男子禁制」の一例としての女子学校は、女らしさ、良妻賢母などを多分に理念に含んでいる。この大学も学費の高い「お嬢さん大学」だとも聞く。全ての人に門戸が開かれている訳ではない。

自由になるとは、既存の理念や制度を問い直し、別のそれらを探すことでもある。けれど、これまでの学校イメージ、ある意味でブランド性を放棄することはできない点に、大学という場に立てられる理念と大学経営とのズレを見る。

以前の拙ブログで、平安女学院大学の電車内広告を例に、貴婦人を育てるかのようなイメージを打ち出す一方で、就職率100%を謳うことの不思議さを述べた。構図は違うけれど、今回の例も女子大学の抱えるジレンマかと、広告を見ながら感じた。



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# by walk41 | 2018-04-21 06:36 | 大学のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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