学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

23.7時間と27時間の謎  Rätsel um Lehrerarbeitszeitunterschied zwischen Deutschland und Japan

「小学校に教科担任制、中教審に諮問」(読売新聞、20190319)を読んだ。図のような状況認識のもと、小学校教員の授業負担を減らすのが目的という。

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たしかに、中学校と比べて小学校の教員担当授業時間数は多い。「授業が終わって子どもを学校から返してから授業以外の仕事がやっとできる」という声ももっともだ。けれど同時にこうも思う。ドイツの初等学校である基礎学校のフルタイム教員が担当すべき授業時数は州ごとに決められているが、2017年9月現在、27時間から28時間(ドイツの学校での1時間は45分間)、日本の23.7時間を上回っている。また、中等学校である基幹学校は26.5~27時間、実科学校は24~28時間、ギムナジウムは23~27時間という状況だ(https://www.kmk.org/fileadmin/Dateien/pdf/Statistik/Pflichtstunden_der_Lehrer_2017.pdf)。授業担当時間数だけを見る限り、ドイツの方がずいぶんと多い。

けれども、ドイツの教員に日本のたとえば中学校教員の働きぶりを話すと、信じられないという顔をされる。「休暇がなく、何を楽しみに生きているのですか」とも。それもそのはず、朝こそ7時半くらいに学校に来る教員だが、午後は4時も回れば見えるのは掃除スタッフくらい。夜の7時、8時で煌々と明かりが点いている事態など、何か事件でも起こらないときっとないことだろう。土曜日と日曜日はもちろん誰もいない。

長期休業は、バーデン=ヴュルテンベルク州の2019年の場合、前後の土日を含めて数えれば、夏休みが44日、秋休みが3日、クリスマス‧新年の休みが16日、3月にある冬休みが9日、4月のイースター休みが16日、そして6月の聖霊降臨祭が祝日1日を含めて16日、合わせれば104日となる。

連続する土日を数えるのはフェアではないかもしれないけれど、「まとまった休みがとれる」点ではそれなりの休みが保証されていると言えるのではないだろうか。対して、知り合いの中学校の管理職が、土曜日の保護者参観日の関係で月曜日が代休になったとき、一泊の旅行に出かけるとこう話した。「連続して休めるなんて、滅多にあることではないですから」と。

授業以外の負担が、日本の教員には多いとも指摘される。これも当たっているかもしれない。部活動は週に1日、2時間くらい、家庭訪問など想定じたい不可能、土日や長期休業中の家庭との連絡もなし。これは、子どもとその保護者つまり家庭のプライバシー事項だからでもある。保護者の教育権が連邦基本法に記されるほどのお国柄もあるだろう。

授業担当時間数が必ずしも多いわけではないのに、過労死しかねないほどの業務負担、クラスあたりの生徒数がまだ多いことが背景なのか。それとも始業と終業の時間が決まっていることが柔軟な働き方を阻害しているのか。さんざんに議論されていながら、私も未だこの謎を解くことができないでいる。研究の未熟である。



# by walk41 | 2019-03-19 16:48 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

すみません Entschuldigung

銀行で手続きをした。その際、こちらの押印が弱かったことに書類を受け取ったあとで気づいた職員さんは、「大変申し訳ありません。もう一度押していただいてもよろしいでしょうか」と言われた。こちらの押し方が悪かったのにである。また、こちらがうっかり必要書類をひとつ忘れていたことに気づかず、そのまま書類を受け取ったことに対して、別途、職員さんが「すみません」を繰り返した。もちろん、いけないのはこちらなのだから、もう「すみません」のラリーである。

ドイツの大学の同僚も日本旅行で覚えた「すみません」という言い方、ある意味ですごい知恵なのだと思う。どちらが悪いかはさておき、まずは謝ることで相手を傷つけず、さらに交渉を円滑に進める上で、この言葉はとても重要だからだ。「すみません」と相手に言われて怒り出す人は、「謝って済んだら警察は要らん」とすごみかねないその筋の人くらいであって、たいていは落ち着いて対応するだろう。「謝ったもん勝ち」の方法ともいえる。

さらに注目すべきは、「すみません」から始めると、その後に続く言葉もおおむね丁寧になることである。「すみません、斯く斯くしてもらえますか」とは続いても、「すみません、斯く斯くやってもらわないとね」とはならないだろうからだ。つまり、「すみません」はそう言う自身を低姿勢へと方向づけ、相手に好戦的にならないという効果もある。このことは、教員が生徒を呼ぶ際に、呼び捨てをするとそれに続く言葉が乱暴になりがち(「山田、それあかんってゆうたやろ」、×「山田くん、それあかんって言ったよね」)という指摘にも通じるだろう(榊原禎宏「叱るときこそ丁寧に-教師の子ども呼称における賭け-」『教育実践研究紀要』12/225-229 2012年3月)。

かくして、「すみません」の往復運動が始まる。しかも、お辞儀をする身体表現も伴うから、この様子を初めて見た異なる文化圏の人にとっては、さぞかし興味深い光景だと思う。

# by walk41 | 2019-03-18 14:53 | 身体 | Comments(0)

サルサソース die Salsa

「キャラバン隊」のように、外来語だけでは伝わらないと考えられたか、同じ意味が重なっている言葉がある。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1163468376 には、

フラダンス/チゲ鍋/ガンジス川/サハラ砂漠/ハングル文字/クーポン券/アラーの神/生ライブ/ジャパンネットバンク銀行

とたくさんの例を挙げてくれているが、これもそうだとは知らなかった。「サルサソース」。スペイン語でソースをsalsaと指すとのこと。ドイツ語でも外来語としてSalsaが用いられている。なるほど。

そこで興味深いのは、この言葉の場合は、ドイツ語ではdie Salsa、スペイン語でla salsa といずれも女性名詞だが、たとえば、「手」はドイツ語でdie Handと女性名詞、スペイン語ではel mano と男性名詞なことだ。「どうしてこの言葉が男性名詞(あるいは女性名詞、中性名詞)なの」と単語を上げてはドイツ人の友人に尋ねるが、いつも「それはそうなの」と返ってくるだけ。悩ましくも面白い現象である。


# by walk41 | 2019-03-17 15:51 | ことばのこと | Comments(0)

喜びで泣ける仕事 Beruf mit dem Traene wegen Freude

大学では、学生たちに教職や学校の話をしてもらうべく現職教員にお越し願っているが、もう何年も前、こんな方がいらした。

話の後半、その方は中学校での生徒との関わり、とくに卒業を迎える3年生を担当した経験を踏まえて、こんな風に言われた。「生徒たちと一緒に嬉しくて泣ける、こんな仕事って他にあると思いますか。」

確かに、思春期でもある生徒たちとの日々には、それこそ笑いあり涙ありだろうと想像する。教員と生徒のいずれからも発せられる、好奇心、嬉しさ、喜び、当惑、不満、躊躇、忌避、怒りといった喜怒哀楽は、いわゆる淡々と過ぎる(と当の教員には思われている)事務的な仕事にはあまり見られない、情動に満ちた世界ともいえるだろう。

その魅力の一つは、必ずしも予定通りに進まない、蓋を開けてみないと何が出てくるかわからないという、冒険心に関わっており、もう一つは、もろもろの論理を押し流してしまう感情の勢い(「細かいことはどうでもええねん」と言い切ってしまう)に伴うカタルシスの快感に関わるのではないかと、私は思う。だから、そこで留意すべきは、冒険の危うさを十二分に踏まえること、そして、独りよがりの喜びや「いいクラスだったよな」と共感的態度を求める姿勢に、できるだけ抑制的なことだろう。

二つ目については、教員自身の診断(diagnosis)の大らかさ、当てのなさを前提にする必要がある。個人教授とは異なり集合的関係が基本の学校では、かたや「個々の生徒に耳を傾けて」と言われる一方、「みんなで決めたことだ」「みんな、そうじゃないのか」と「みんな」を濫用して十把一絡げに対応することも決して稀ではない。くわえて、生徒間のグループダイナミクスも働くので、「言いたいことがあるなら言ってみろ」とクラスメイトの前で言われても、困るというのが大概だから、個々の気持ちは二の次である。その好例は、「一人の百歩より、みんなの百歩」「何でも言い合えるクラス」といった学級目標に見られる。本当にクラスの生徒すべてがそう思っているのならば、こんな標語を黒板上に掲げる必要はない。にもかかわらずそうしているという点に、「みんなのものではない」ことが示されている。

喜びもひとしおだけれど、それだけにやっかいな仕事の一つが教職である。自身の感情といかに向き合うか、生徒そして生徒たちの感情の表出をいかに適切に捉えるべく冷静でもありうるか。とくにセルフマネジメントが問われる所以だろう。

Ich finde die Besonderheit des Berufs als Lehrer besteht im Sinn des verschiedenen Gefuehls. Das macht einerseits manchmal Freude als Lehrer, jedoch anderseits muss man zugleich aufpassen, was man das Gefuehl in der Beschaeftigung behandeln soll. Das ist in der ersten Linie um Selbstgefuehl und zweitens das mit den Schuelerinnen. Wenn man mit seinem Gefuehlt voll geht, kann er keine gute Entscheidung machen. Gefuehl hindert richtige Wahrnehmung. Sogar muss man rechnen, wie die Gefuehl der Schuelerinen mit der Gruppendynamik auftauchen. Warum man als Lehrer vor allem Selbstmanagement, -verwaltung brauchen soll.



# by walk41 | 2019-03-16 09:08 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「らしい」という表現

京都新聞、20190315の投書欄、78歳の女性がエスカレータを二列で利用することについて、「外国ではエスカレータは歩かないらしい」と記している。明らかに間違いだ。

ヨーロッパでの私の少ない経験の限りでも、歩かないのは混んでいて歩けない状況においてのみであり、歩く人のために片方を開けておくのがマナーとすら言い得るかと思う。「らしい」とはどこから聞いたのか、本人すらよくわからないままに「そうなんやって」と流布している可能性がある。

世間話にいちいち口を出すのは上品ではないが、投書といえども公器の新聞、まことしやかに伝わることを防ぐ責務があると、私は考える。

ちなみに、投書の御仁は「急ぐ人は階段を駆け上がればいいのだ」と言われるが、長い階段の場合、これを忌避する気持ちは、自身を鍛えるためと自覚的な人除けば、おおむね共通するのではないだろうか。ましてや、荷物を携えているとその自覚もくじけがちだ。

乱暴な話だが、エスカレータの速度を上げれば、歩く人は減るかと思う。ドイツのある街で、びっくりするような速いスピードのエスカレータに乗ったことがあるが、怖くて歩くどころではなかった。クルマに乗っていて、飛ばしていくクルマを見たからといって、自分も加速する人は決して多くない。エスカレータの横で歩く人を見て、その速度と変わりない様子に苛立ちを感じるから歩こうとする、という仮説は支持されるだろうか。



# by walk41 | 2019-03-15 12:44 | ことばのこと | Comments(2)

マニュアルの適切さ Angemessenheit der Manuals

ある銀行に電話をした。事実上、冬眠状態にしていた口座のことで問い合わせをしたのだ。

「もう10年以上も放っておいたので、わからないことがあって」と冒頭に伝えたのに、返ってきたのは「いつもご愛顧いただき、誠にありがとうございます」であった。「いや、久しぶりなんですけれど」と私が返したら、電話口の向こうでくすっと笑ったように思われた。

こうしたマニュアル通りの対応を「よろしくない」と言うことはできるけれど、かといって、柔軟に対応しようと窓口スタッフに任せるのも危なっかしいのかも。「お久しぶりです」と応えるのも、砕けすぎているように思うし。とくに顔の見えない電話でのやりとりでは、マニュアル第一でいいのかもしれないね。

ちなみに、電話口の方が風邪かなにか、何度か咳き込んでらっしゃったので、「こちらからのご説明は以上となりますが、他に何かございますか」と尋ねられたので、「お大事になさってください」と伝えたら、えらく驚かれ恐縮されてしまった。こら、電話で遊ぶなと、連れ合いから叱られそうだけれど。

# by walk41 | 2019-03-14 12:14 | ことばのこと | Comments(0)

困る合言葉 unangenehmes Schlagwort

ある銀行の口座、インターネットでもアクセスできるように申し込み済なのだが、ずいぶんと前のことでパスワードがわからない。すると、合言葉が問われた。「好きな歌手の名前は」である。うーむ。

思いつくものをいくつか打ったが当たらず。さっぱり思い出せない。合言葉が誕生日や住所などではその筋のプロに見破られるとの配慮から、こうした合言葉が用意されているのだろうが、「最初に買ったクルマは」とか「好きな映画は」とかは、記憶がおぼろげであったり、一つに絞れなかったりするために、的確に思い出すことができないように思う。

結局、電話をして郵送で手続きをすることになったが、こうした情報をしっかり管理することが大切と思わされた。みなさんは、便利なはずのインターネット絡みで意外に多くの時間を費やすこと、ありませんか。

# by walk41 | 2019-03-14 11:58 | ことばのこと | Comments(0)

福島 Fukushima

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たまたま通りかかったところで、2011年3月の原発事故後、福島県相馬市から避難されている、青田恵子さんという方が作られた布絵展を見ました。

「私のからだは福島の土で出来ている 心は福島の風と森の匂い出来ている」という一文に、とくに心を打たれました。

Zufällig bin ich eine Ausstellung von einer Frau Keiko Aota, die nach dem Atokkraftwerk Unfall in Fukushima evakuiert hat, vorbei gekommen.

Mir ist ein Text besonderes eingefallen, „Mein Körper besteht aus dem Boden in Fukushima, mein Herz besteht aus dem Wind und dem Wald in Fukushima“.



# by walk41 | 2019-03-13 14:38 | Comments(0)

微妙? komisch?

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https://www.karate-paderborn.de/news/517-karateka-auf-dem-weg-zum-schwarzgurt より。

たまたま見つけた、ドイツの空手サークルの写真です。後ろに掲げられる「道場」の漢字、「道揚」にも見えませんか。

難しいですね、違う文字を表記することって。日本に住む多くの人が、アルファベットに馴染める環境にあってよかったなと思います。

# by walk41 | 2019-03-11 14:17 | ことばのこと | Comments(0)

すべては国家のために alles für den Staat

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戦後、その失効が確認されたにもかかわらず、今なお教育勅語(1890年発布)を指して、大切なことが書いてあるから有意義だと語る御仁に、ぜひ見てもらいたいと思う。

1910年の小学校1年生の教材、6歳や7歳の子どもに「國家ノタメニ家ヲ忘レ身ヲ忘ル」と書き方をさせていた当時の学校には、「みんな仲良く」も「共に助け合い」も大した意味はなかった。すべては国家興隆のための捨て石となることを期待されていたのである。

博物館明治村の資料から。

# by walk41 | 2019-03-10 18:42 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「サービス砂漠」以前 Vor der Stufe der "Service Wueste"

ドイツでの人の働き方について言い出せば、ごく限られた経験の限り、そのおおらかさ、いい加減さに、時として言葉を失います。

先日やりとりをしたある契約書について、こちらのサインをして先方に送り、先方のサインがされた書類をこちらで持っていることを踏まえて、連絡をとったのですが、「まずサインをしてください」と返信が来ました。いや、サインは済ませているし、何よりもそちらのサインもしっかり受け取っていると、契約書の写真を撮って添付メールで送りましたが、それに対して3日間が過ぎても返事が来ません。この事態をどう理解すればよいのでしょうか。

相手に何かを言うのならば、確たる事実を元にしてと思うのですが、どうもこのルールが適用されずに、いわば「言ったもの勝ち」の趣きがあるように感じます。相手が言わなくてもその意を汲み取って、忖度という日本語もありますが、これとは真逆の、相手が言っているのに、その意を受け止めずにやり過ごしてしまう、という辺りでしょう。

このように、黙っていてはもちろん駄目だし、主張しても通じないかもしれない、という前提であってこそ、コミュニケーションに臨む姿勢と能力が身につくのではないでしょうか。この点で、社会構成主義で説明される「英語を話せるようになるには、英語を話せなければ生きていけない環境に身を置くこと」というのは説得的です。広くコミュニケーションも同様、「わかっているはずのことなのに相手に通じていない。こちらとしては意を尽くして伝えているのに了解されない環境に身を置くこと」で、コミュニケーション能力が得られると見るべきでしょう。

また、こうも思います。ドイツ人の友人ともよく揶揄話をしますが、上のような問題はドイツでのサービス水準の低さ(おもてなし精神の不十分さ)ではなく、正確さの不十分さにある。つまり、「サービス砂漠」といったレベルの話ではなく、サービス以前の問題として見るべきではないか。電車の時刻の不正確さ、買い物の際の計算間違い、統計的数値の不一致、商品発送日時のずれ、契約事項の不履行、公衆電話、エレベータ、エスカレータといった壊れている社会的インフラ―これらを「正確であることに対する要求水準(期待水準)」(das Erwartungsniveau der Genauigkeit)の問題と捉えると、事実がより説明できるように感じるのです。





# by walk41 | 2019-03-09 12:43 | ドイツのこと | Comments(0)

ヤマハ YAMAHA

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明治時代(1868ー1912年)のリードオルガンです。鍵盤の上の文字が見えるでしょうか。

左に、Yamaha Organ、右に、Hamamatsuと記されています。ヤマハ楽器のリードオルガン、静岡県の浜松の地名が刻まれていたのですね。

今や世界のYAMAHAですが、1887年に浜松尋常小学校で壊れたリードオルガンの修理に成功した山葉寅楠(1851ー1916年)が創業を決意したことに始まったことを記す、貴重な資料と見ました。

博物館明治村にて。

# by walk41 | 2019-03-07 19:05 | 音楽 | Comments(0)

若い教員 junger Lehrer

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明治33(1900)年12月に出された尋常小学校の教員免許状です。准教員なので教えられる教科が「修身、教育、國語、算術、歴史、地理、体操」に限られていることが示されています。

また、授与者の知事に「正五位勲四等」とある一方、被授与者に「平民」とある辺りにも、時代を感じます。とは言え、歴史的に見ればわずか120年ほど前のこと、世の中は大きく変わってきました。

それにしても、准教員とはいえこの方は当時、明治17(1884)年生まれの16歳。ずいぶんと若い教員だったのですね。小学校の子どもたちと、どんなやりとりをしたのでしょうか。

資料は、愛知県犬山市の博物館明治村にある三重県尋常師範学校・蔵持小学校より。

Das Foto zeigt das Zertifikat für Grundschullehrer, die im 1900 vom Landeshauptmann Präfektur Mie gegeben wurde. Dieses Zertifikat galt für semi, außerordentlicher Lehrer, der alle Fächer in der Schule nicht unterrichten konnte. Interessanterweise war das für nur den 16 jährigen Junge gegeben. Welche Beziehung hat er mit den Grundschülern damals gehabt?

# by walk41 | 2019-03-06 09:46 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

確かめることの大切さ Wichtigkeit zu sichern

連れ合いと話をしていて、そうなのかあと驚いたことがありました。

ドイツ語話で恐縮ですが、das Muskat あるいは der Muskatnuss という表記を、スペリングに引っ張られて、長らく葡萄の一種のマスカットと思っていたのだけれど、実は英語でnutmeg、日本語でナツメグのことだと知ったからです。では、果物のマスカットはと言うと、der Maskat、英語ではmuscatになります。

つまり、英語/ドイツ語/日本語が、muscat/Maskat/マスカット、nutmeg/Muskat/ナツメグ、という具合です。aとuが入り交じるので起こる勘違いですね。

と同時にこうも思います。英語学習でスペリングミスをずいぶんと指摘されてきましたが、違う言語になると、スペリングが替わるのだから、あまり細かく言わなくてもいいんじゃないかな、と。多少のことは目をつむって、萎縮させないで学べるようにしてほしいな。

# by walk41 | 2019-03-04 17:30 | ことばのこと | Comments(0)

加熱するカーニバル vorgeheizter Fasching

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ドイツでは早ければ1月末から、3月上旬まで、地域的には南ドイツから中央ドイツのケルンあたりまで、いわゆるカーニバル(謝肉祭)が盛んで、近年いっそう加熱しているようにも思われます。

写真は、南西ドイツに位置するバーデン=ヴュルテンベルク州の消費者省(Verbraucherminsterium)が、2019.2.25付(https://www.baden-wuerttemberg.de/de/service/presse/)で、カーニバルに関わるコスチューム、化粧、おやつのドーナツに至るまで、その安全性を精査し、喜ばしいことに、問題のある疑わしき商品はわずかに留まったことを報じています。

あわせて、消費者が注意すべきヒントとして、コスチュームは肌に直接身につけないこと。中国産の製品には使用が禁じられているRhodamin B(CI 45170)を含むものがあり、化粧の際は、光沢を放つピンクは避けるべきことを伝えています。なお、化学・獣医学的研究セクションの検査で、ドーナツは微生物レベルまで問題のないことも述べられています。それだけ、カーニバルが一般化しているとも言えますね。

ちなみに、謝肉祭はドイツ語で、標準語的にはder Fasching, 南ドイツの方言的にはdas Fasnet, あるいは die Fasnacht, とそれぞれの名詞の性(der Artikel)が、順に男性、中性、女性と異なります。知らなくても特に困りませんが、真面目に覚えようとする人にはやっかいなことです。der Karneval という単語もありますし。



# by walk41 | 2019-03-03 11:14 | ドイツのこと | Comments(0)

貸切 exklusiv besetzt

ある宿に泊まった。貸切風呂と宣伝にあったので、大浴場とは別の風呂場を、ある時間占有的に利用できる意味だと思っていたら、あにはからんや、大浴場を宿泊客のあいだで分けあって利用する、時間制のこと(この時間以外は、風呂を利用できないということ)だとわかり、がっかりした。

さて、貸切と時間制、どう違うだろうか。コインパーキングを時間制駐車場とは言うけれど、貸切駐車場とは言わないだろう。貸切駐車場とは、月ぎめ駐車場のことである。また、団体旅行などで利用する場合、貸切バスとは言うけれど、時間制バスとは言わない。公共バスは貸切ではなく基本的に誰でも利用できるから、ある時間、ある席を占有していたからといっても、貸切とは言わないのだ。

このように、貸切と聞いた方が、共有で利用するものとは別途、占有的に利用できる意味を含んでおり、宣伝上、消費者により良く聞こえるように思う。

はたして、時間制に過ぎないのに、貸切と謳うことは誇大広告に当たるかどうか。皆さんはどう思われるだろうか。



# by walk41 | 2019-03-01 16:35 | ことばのこと | Comments(0)

オペアは留学ではない Au pair ist kein Studium im Ausland.

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日本のドイツ大使館が発するニュースに、「オペア留学」と銘打って、オペア(au pair, ベビーシッター)をしてドイツに暮らそうと喧伝する記事が掲載されている。http://young-germany.jp/2019/02/au-pair-20/?fbclid=IwAR1o069tB3qql0CJAx9ns19iyLoPSjX4Uj5Q44tBZxXG3dxfxTnvBe48dYA ドイツに限らず、アメリカ合州国でもこのルートがあるようだ。

言葉は世につれだから、小姑的な物言いもいかがなものかとは思うけれど、オペアは決して留学ではない。ドイツで言うMini-Job(小さな仕事),小遣い稼ぎの低所得の仕事で、かつ勉学をすることでもない。写真は、ベビーシッターや子守を捜すホームページ(https://www.betreut.de/)だが、ためしにデュッセルドルフで見ると、最低賃金は1時間あたり9.89ユーロ、1200円少しである。週あたりたとえば、20時間これをすれば週休24000円、一ヶ月で10万円程度。住み込みで部屋代が要らないというならば前提は変わってくるが、ドイツで暮らすにはまず足りない金額だろう。

また、①小さな子ども相手では大人の考える語学の力が付くはずがない。②もちろん、雇い主である保護者は子どもの面倒を見てもらうためにオペアを求めるのだから、その相手を喜んでするはずもない。「雇い主を通じてドイツのことを学ぶ」など夢想である。③さらに、雇い主が不在の時間でかつ子どもが起きている時間に子守の需要があるのだから、昼間や夕方の早い時間に子どもの相手をしなければならない、つまり、勉強に好都合な時間をそれになかなか充てられない。

こうした状況がおおよそ予想できるのに、留学と称するとは詐欺に近い。斡旋をする会社もあるようだ。勉強とまったく遠いところにあるのが、ベビーシッターや子守と知るべきだろう。また、こうしたことを知ってか知らずか、自身のHPを使ってオペアを促す日本のドイツ大使館の姿勢は、まったく褒められたものではない。

働くなら言葉のわかる日本で(言うまでもなく、ことばは自身を守る武器でもある)、ドイツやドイツ語の勉強をしたいのならば、そのためにドイツへ、といずれかに決めなければならない。

# by walk41 | 2019-02-27 13:02 | ドイツのこと | Comments(0)

臨機応変なこともあり DB könnte flexibel sein

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ドイツ鉄道、ICEの車内表示です。大抵そうであるように予定より遅れて着くこのICEの乗客のために、フランスから来たミュンヘン行きのTGVが発車を6分遅らせて待っている(wartet)と案内していました。私の経験の限り、こうした柔軟な対応は初めてのことです。

実は、私がこの乗り継ぎをつもりしており、助かりました。とはいえ、車中で「間に合わないなあ」とイライラと落胆、「あっ、待ってくれてるんだ」と希望の光が差し、そして、駅に着くと同時に重い荷物を持って駆け出し、と精神衛生上いいことは何もありません。電車の接続があっても、心配することなくまあ大丈夫だろうと安心できる状態が何と豊かなことか、とつくづく思わされます。

# by walk41 | 2019-02-27 11:25 | ドイツのこと | Comments(0)

なにげにかわいい

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中華料理屋さんに置いてあったうちわ、京都市食品衛生協会と京都市保健福祉局によるものです。「おあがリス」くんとのことですが、なにげにかわいいです。笑顔を誘ってくれます。

これも日本カルチャーと言ってよいのではないでしょうか。ゆるキャラに一つ見られる「かわいい」を。

# by walk41 | 2019-02-26 19:50 | 笑いのこと | Comments(0)

豊かさ論 Reichtum

日本経済新聞、2019.02.25 記事「見えざる資産、成長の源に 有形資産の1.5倍 Neo Economy 進化する経済(1)」を興味深く読んだ。

十分に理解したとは言えないけれど、惹かれたのは「快適さは豊かさ」という視点だ。もっとも、これは目新しいものではない。振り返れば、お金を対価に人にやってもらう、機械に任せることは従来からの快適さの追求でもあり、そのためにモノやサービスを生産する必要があったのだから。つまり、より快適であるためには、有形資産が伴わなければならなかった。

けれども、デジタル化革命は、モノよりも情報とその組み合わせによって富を生み出すことに成功した。たとえば、電子メールの普及によって、手紙を書く、封筒に入れる、切手を貼る、投函する、届けてもらうという一連の手間が省かれた。これによる省エネルギーは、紙と筆記用具、切手、収集、仕分け、配達に及ぶ。あるいは、インターネットの検索エンジンは、図書館に出かける、電車やバスに乗る、本を探す、コピーを取る(手書きで写す)という手間をほぼ除かせるに至っている。出かけなければいけないおっくうさ、交通費、食事代、重くなった鞄、雨の中を歩いて引いた風邪そして発熱、病院代、これらあれこれのモノを基本的に要せず、物事を進めることができる。何と快適なことだろう。

だから、いまの学生が卒業論文を記すのに要する労力は、自分の頃の数十分の一ではないか(それゆえに、論文に要求される水準も高まっているのだが)とすら思う。過去の学習指導要領ひとつを読むだけでも、インターネットがない時代は、図書館に行く、あるいは書籍を注文し(しかも長い間、待たなければならなかった)という労力を要したのに、いまはその場で望むものすべてを閲覧できる。しかも事実上、無料である。

GDPが豊かさの指標だった時代は昔となり、ブータン国王が提唱したという幸せ(happiness)指標にも関わるけれど、快適さ指標ともいうべきものが豊かさを測る物差しとして現実味を帯びてきたように思う。

# by walk41 | 2019-02-25 18:14 | ことばのこと | Comments(0)

教員不足の責任はどこに Woran steht die Verantwortung fuer den Lehrermangel?

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Stuttgarter Zeitung 2019.02.22  Renate Allgöwer執筆

https://www.stuttgarter-zeitung.de/inhalt.lehrermangel-an-grundschulen-ministerinnen-beschuldigen-sich-gegenseitig.0bd2d63a-85e3-4977-b75b-6551756e5271.html より(写真も)。


基礎学校における教員不足-文部省と学術省が互いに責任転嫁

基礎学校教職課程の学生のたった半分しか、学校教員にならない。文部大臣Eisenmannと学術大臣Bauerは、互いにその責任を押しつけ合っている。


基礎学校での教員不足の問題は、文部大臣Eisenman(キリスト教民主同盟)と学術大臣Bauer(緑の党)の間で大きな違いをもたらしている。Eisenmannは最近、基礎学校教職課程の45%の学生が教職に就いていないことを追跡した。文部省は教職課程を所管する学術省に対して、教育大学と協力して「教職課程を去る学生の割合を減らすための共同の方策を進めること」を求めている。


学術大臣Bauerは、これを非難だと返信している。Eisenmannに宛てた書簡の中で「敬愛なる大臣殿」と記していることを彼女は「受け入れられるものではない」だろう。Bauerは「大学での学修を終えた教職志望者が教員養成の第二段階(榊原注、大学卒業後、州が定める16-24ヶ月の準備勤務Vorbereitungsdienstを過ごす期間のこと。この後の第二次国家試験(州試験)に合格することで教員資格を得る。)において失われてしまうことが問題の本質である」と述べ、これは試補教員期間(Referendariat)の問題すなわち文部省の責任だとする。


教職課程を去る割合は高くない

Eisenmanの言い方では教職課程を去る学生について「誤った印象を与える」。他の分野を学修する学生と教職課程を学修する学生との違いはなく、20%少しの「他の分野を志望する」学生がいる程度だとする。このことをBauerは数値を挙げて示している。2007年から2017年の教職課程の入学者と卒業者を挙げて、当時の基礎-基幹学校の教職課程について卒業率の平均は78.1%であると述べる。


Bauerにとって、「未来の教員は、試補教員になる以前もしくはその後に辞めるのが圧倒的というのが結論である。」学術大臣は大学を終える3月と試補教員として始まる翌年21日の待機時期の間に、他の職業志望が生じている可能性がある。学術大臣は視点を変えて、内閣の同僚である文部大臣Eisenmannに記している。「我々の内閣は従来の耐えられないほど長い待機期間について指摘していた。これを早急に適性化できるものと私は思う。」


これに対して文部大臣Eisenmannは、学術大臣に対して非難することは決してないと強調している。


大学を所掌する学術省と教員への準備勤務(試補教員期間)を所掌する文部省の間の葛藤、学術省は大学卒業と準備勤務が時期的に整合していないことを問題にするのに対して、文部省は教職課程を途中で去る学生の多さを問題にしている。いずれが理由であれ、予定している教員有資格者が輩出されず、現在とくに基礎学校での教員不足が生じている。


この状況を、日本の教員養成・採用の仕掛けを知る立場から眺めれば、「開放制」として、つまり教職課程認定制度を通じて「緩やかな入り口管理」を行っていれば、多くの教員有資格者を輩出する可能性が高まる。にもかかわらず、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州の場合、教育大学での基礎学校教員の養成、そして引き続き「撤回可能な官吏」としての準備勤務を行う方法、つまり、より閉鎖的に教員を育成しているために、教員需要が高い時期には教員不足が、また同需要が低い時期には「教員失業」(Lehrerarbeitslosigkeit)が、いっそう顕著となる。


教員有資格者を多く輩出、プールすることで、安定的な教員確保を目指すか、それとも、教員有資格者をより限定して、変動する教員需要との不整合をやむなしとするか、が焦点であり、このことが、教員の専門職性、教員免許制度、大学での教職課程のあり方に連なっている。


たとえば、入職時の「水準」を高く想定しなければ、より教員になりやすい制度設計が可能だが、「専門職としての教職」という社会的承認の水準と葛藤しないか。あるいは、教職の国家試験(州試験)への合格率を上げるには、大学卒業率を下げる(容易に大学を卒業できない)ことも重要だが、「大学卒」に対する常識とズレは生じないか。理念の設定、制度化、そして実際的な運用や具体化の各レベルで、「望ましい」教員の育て方、育ち方が問われる。


# by walk41 | 2019-02-24 10:35 | ドイツのこと | Comments(0)

進化するサービス entwickelnder Service

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久しぶりに覗いたら、ショッピングモールに買い物カートのままに仕舞うことができるロッカーができているではありませんか。冷蔵ロッカーにも仰天しましたが、これにもびっくりです。顧客志向が強まっていることを感じます。

Auf einer Weile nach, wenn ich den riesigen Supermarkt geguckt habe, habe ich die Schließfächer, die man auch mit dem Einkaufswagen benutzen kann, gesehen. Daneben hat die gekühlte Schließfächer dort mich doch überrascht. Damit fühlt man sich die Entwicklung der Gäste-Steuerung Marketing.



# by walk41 | 2019-02-23 20:32 | Comments(0)

過剰では? exzessiv?

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大型ショッピングモールにて。従業員へのメッセージだ。一礼とはいえ、目の前はトイレへの通路、ここまで求めなくてもとも思う。けれど、一事が万事と徹底したくなるのが、マネジメントというものだろうか。

In einem Shoppingmall, steht ein Zeichen für Mitarbeiter auf dem Boden, das sie sich hier beugen sollen. Das ist zwar eine Sitte für die Gäste, aber hier ist der Flur für die Toilette. Muß es nicht so streng sein, wie das? Jedoch kann das genauso Management sein.


# by walk41 | 2019-02-22 16:08 | 身体 | Comments(0)

丁寧さ Höflichkeit, Vornehmheit

日本語について、とくに飲食店で聞こえる言葉に感じるのは、過剰なまでの丁寧さである。接客マニュアルとして事前に決められているものも多分にあるだろうが、臨機応変な対応として話される場合も多いように思う。

翻って、良し悪しはともかくも、そうした表現をドイツ語で聞くことはまずなく、それが日本語話者にとっての驚きや大変さ(しんどさ)に連なっているのではないだろうか。私が指しているのは、たとえば、次のような表現だ。

いらっしゃいませ。→ドイツだったら、hallo(こんにちは) かな。

あいにく、そのメニューは切らしておりまして、申し訳ありません。→ 「ありません」のみ。

10分ほどお時間を頂戴いたしますが、よろしいですか。→なし

ご注文、かしこまりました。→ OK が多いかな。ja,wohl(承知しました)という場合もあり。

大変お待たせいたしました。→なし。ただし、bitte schoen. Guten Appetit(どうぞ、召し上がれ)とは言われる。

お皿が熱くなっておりますので、お気をつけ下さい。→なし

真ん中に置かせていただいてよろしいですか。→なし

小皿をよろしければどうぞ→(分け合う文化が基本的にないので) なし

ご用がございましたら、そちらのボタンでお呼びください。→なし

お水/お茶のお代わりは、いかがですか。→なし(そもそも有料。ある中華料理屋で、頼んだジャスミン茶のお湯を足してほしいと言ったら、1ユーロ加算されたことがある。)

お皿をお下げしてもよろしいですか。→なし

おおよそこんな感じである。日本語での場合、くどいくらいの台詞の多さだろう。これでは、客が傲慢になり、いわゆるカスタマーハラスメントが起こるのも無理はない。

売り手と買い手は対等。だから、互いにそれなりに丁寧であることを願う。

Wenn man die Erzählung vom Bediener im Restaunrat in Japan hört, findet er sicher seine Höflichkeit. Viele von ihnen sind zwar als Manual vorher bestimmt, aber ich glaube sie sind manchmal jeglicher Fall gesagt.

Einige Beispiele kann ich hier zeigen, d.h.,

(Beim Eintreten) herzlich willkommen.
(Bei der Bestellung) Entschuldigung bitte, es fehlt jetzt leider.
(Bei der Zustellung) ich habe Sie lange für das Gericht warten lassen./ Sie müssten lang auf das Gerichte warten.
Passen Sie auch bitte, dass den Teller so heiss ist.
Kann ich diesen Teller mitten des Tisches legen?
Wenn Sie wollen, benutzen Sie dieses kleine Geschirr.
Wenn Sie noch etwas wollen, druecken Sie bitte den Knopf des Geraetes auf dem Tisch.
Wollen Sie (gratis) noch Wasser oder Tee?
Kann ich vielleicht den leere Teller von hier nehmen?

So ist das. Wenn man so viele nette Aeusserung hoert, kann es einfach die Belaestigung der Gaeste ergeben in Japan.

# by walk41 | 2019-02-21 23:46 | ことばのこと | Comments(0)

「構ってほしい」kümmere mich!

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日本のあるスーパーマーケットに張り出された「お客さまの声」と店からの返答。

「ドライアイスもハシも必要としないけれど、聞いてくれないのは不愉快だ。1回だけならまだしも、この頃ずっと聞かれた事がない。おたくの職員は弁とう等は手で食べる習かんがあるのか。次聞かなければ店長を呼ぶつもりです。そのかくごでレジに立ってほしい」

「いつもご利用頂き誠にありがとうございます。この度はご不快な思いをさせてしまいまして申し訳ございません。レジ従業員には箸が必要かどうかの伺いをするよう指導いたしました。もし万が一聞きもれがございましたら箸の必要の有無をお声掛け下さいますと大変助かります。」

恐るべし。これがカスタマーハラスメントか。何かの代償行為としてのイチャモンかもしれないが、「お客さま至上主義」の果てとも感じる。

私の小さな経験の限りで、店長の返信を南ドイツ風に書いてみよう。
「箸がほしいならば、売っているので商品棚から取ってくるように。なお、レジ従業員の業務を妨害する行為に対しては警察を呼びます。」

In einem Supermarkt in Japan, stehen wie unter eine Anzeige der Gaeste und eine Antwort der Geschaeft dafuer.

"Ich brauche zwar kein Trockeneis oder Staebchen, aber dass der Kassenberater das mich nicht fragt, ist aergerlich. Wenn es nur einmalig waere, kann ich das akzeptieren, jedoch werde ich waehrend dieser Zeit nicht gefragt. Essen Ihre Mitarbeiter Lunchbox ohne Staebchen, nicht wahr? Wenn ich naechstes Mal nicht darueber werde, rufe ich den Geschaeftsleiter. Dass soll die Kassenberater wissen."

"Vielen Dank fuer den immer Besuch von Ihnen zu uns. Entschuldigen Sie bitte, dass Sie schlechte Erfahlung bei uns gehabt haben. Ich als Geschaeftsleiter hat sicher meine Mitarbeiter gebildet, sie sollen die Gaeste nachfragen, ob die Gaeste Staebchen brauchen. Wenn meine Kassenberater zufaellig Sie nicht fragt, waere es sehr schoen, wenn Sie freundlicherweise das aeussern, ob Sie Staebchen brauchen oder nicht."

Ich finde es ist furchtbar. Es soll Harassment von Gaeste gegen Geschaeft genannt werden. Ich vermute, wenn der Geschaeftsleiter in Sued-Deutschland waere, schreibt er wie unter die Antwort.

"Wenn Sie Staebchen moechten, nehmen Sie das als Ware aus dem Regal. Wir weisen darauf hin, wenn Sie die Beschaeftigung der Mitarbeiter stoeren, fuehrt das polizeiliche Anliegen."






# by walk41 | 2019-02-21 05:58 | Comments(0)

飛行機から投下された爆弾 Fliegerbombe

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Stuttgarter Zeitung 2019.02.18 記事より。

第二次世界対戦時に投下された250kg爆弾が、ニュルンベルクの工事現場で発見された。無力化が不可能と判断されたため、爆破されることとなり、付近の住民およそ6000人が避難、近隣の小学校や体育館も住民の受け入れの準備に追われた。また、上空1000mまでの飛行も禁止された。

幸いに無事、爆発させることができたが、2012年8月にはミュンヘンで見つかった爆弾はうまく処理が出来ず、建物の全焼、破損という事態を招いたケースもある。

戦後70年以上が経つ現在も、戦争中の禍に巻き込まれかねないとは何ということだろうか。戦争の愚かさをまた感じさせられる事例だろう。



# by walk41 | 2019-02-20 09:21 | ドイツのこと | Comments(0)

バッテラ bateira

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これまた、外来語のことです。大阪などでよく食べられるバッテラ寿司は、その形を指して、オランダ語のbateira から名付けられたと説明にありました。はしけ、小舟を指すそうです。ただし、他の多くの説明では、ポルトガル語に由来と記されています。

検索すると、A Bateira (小舟にて)というレストランがポルトガルにあります。英語では、cutter boat (カッターという日本語になっていますね)、bateiraとcutter、似ているような気もします。

写真は、福井県敦賀市の昆布館。

# by walk41 | 2019-02-19 16:50 | ことばのこと | Comments(0)

Gemeinschaft 再論 wieder um die Bedeutung der Gemeinschaft

ドイツ語のGemeinschaft という言葉、1887年にテンニエスが著した論文により、Gesellschaft(制度や契約によるつながり)と対比されることから、(血縁や信条・情感によるつながりとしての)「共同体」や「運命共同体」と訳されやすいが、現代のドイツ語を見る限り、必ずしもそうは言えないことが分かる。

たとえば、
Gemeinschaftsküche →共同キッチン
Gemeinschaftsdusche→共同シャワー
Gemeinschaftsbad→公衆浴場
Gemeinschaftszimmer→共同部屋
Gemeinschaftsauto→カーシェアリング

これらの最大公約数は、分け合って使うこと、という辺りだろうか。そこでは、人間の間の凝集性、つまり基準やルールが、高いものとは即言えない。共同キッチンで調理されるものは個々の好みに依り、満たすべき共同とは、調理器具の使い方、片付け方、占有時間の制限などに限られる。「みんなが同じものを食べる」や「役割を分担して調理をする」、あるいは「一緒に食事をとる」ことまでを求めるものではない。

こう考えると、「協同的」「協働的」「共同的」な学校や学習といった日本語表現についても、再考すべきことが導ける。児童・生徒それぞれの能力を高めるための教育や学習は、まず個々に応じた内容と方法を出発点とし、これに適うことを前提に「二人以上での関わり」が問われる。だから、仮に協同、協働、共同的な学びとしても、これが即、学級全体や小学校で多用される班を単位にする訳ではない。個々の学習ペースやリズムにより適うのは、どちらかと言えば二人や三人の少人数であり、多くの人数は却って阻害要因になりうる。もっとも、個々の学習だけでは何なので、ときどきは「ご近所づきあい」の集いも設けましょう、ということであれば、自分の学習の進捗を報告しあう、といった場の想定は可能だ。

ところが、共同うんぬんと言えば、「クラスを(あるいは4人を)単位に」、「教員の指示で一斉に始め、終わる」、もっぱら「話し合い活動」というように発想が限られる、偏るのはいったいどうしたことだろうか。これらはまるで「クラスの目標をみんなで達成する」という全体主義の末端として位置づけられているかのようである。すでにわかっているのに先に進めず待たされる、あるいは、自分はまだ達していないのに置いてけぼりにされる、何より、教員主導の「やらされ」「やらせ」が起こる状況を、望ましい姿と認める訳にはいかない。



# by walk41 | 2019-02-17 12:12 | ドイツのこと | Comments(0)

知らなけれど分かる wissen zwar nicht, aber doch verstehen

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ポン酢の瓶に貼られた文言、その指すところは分かりますが、ちゃんと知っているかと問われると臆すること、少なくありません。

水炊とは、鍋のこととは分かりますが、なぜ「湯炊」ではなく「水炊」なのか。

しゃぶしゃぶも馴染んだ言葉ですが、なぜそういうのか、分かりません。

たたきは、カツオのたたきあるいは鶏のたたきとは分かりますが、なぜ「叩き」ではないのか、知りません。

こうした、意味はまあまあ分かるけれど、ちゃんと説明できない状態の言葉がけっこうあるのではないでしょうか。じゃあ、「分かる」そして「できる」あるいは「学ぶ」のは、どう違うのでしょうか。

教育界のお喋りでは、「学ぶ喜び」とか「分かったという瞬間」といった言葉がいきおい飛びがちですが、これらはどういうことを指しているのでしょうか。また、この言葉を用いることの意義はなんでしょうか。

そもそも、ポン酢って、なぜポン酢って言うの? これを説明できなければ、ポン酢のことを知らない、学んでいない、あるいは分からないと言っていいのかしら。



# by walk41 | 2019-02-16 23:16 | ことばのこと | Comments(0)

「どっちでもいい」 „mir ist egal „

南ドイツにて。見知らぬ女性が部屋を訪ねてきた。訊くと、部屋に設置されている温水ヒーター(Heizung)の使用量の検査だという。もうその時点で、彼女は部屋に入り込んでいたが。「そんなことは聞いていないが」と返すと、「(家主から連絡が行っているはずだが)私にはどっちでもいい(Mir ist egal)」と言いながら各部屋を回り、温水ヒーターに付けられているメータを記録していった。ちなみに、土足である。

この「どっちでもいい」や「問題ない(kein Problem)」という台詞を、こうした立場の人間から聞くと、とても違和感を感じる。なぜなら、どっちでもいいかどうか、問題があるかないかを決めるのは、業務やサービスの享受側、受け手にあるという前提に立てば、下卑た言い方になるが「お前が言うな」という気持ちにさせられるからだ。

いささかステレオタイプな表現だが、この点、日本では反対の側、たとえば、約束なしに他者の部屋を訪れた場合、「どっちでもいい」と言って構わないのは、不意に訪問を受けた側だけであって、やってきた方ではない。あるいは、商品を探しにきた客とのやり取りで「問題ない」と言ってよいのは、客ではあっても、店側ではない。

場所は違うが、こんな経験もあった。保養地のホテルで卓球をしようと行ったら先客がいたので、じゃあ待ち時間の間にと、近くに置いてあったエアホッケーをしようとしたら、卓球組の(おそらくドイツ人の)女性がやってきて「その機械はとてもうるさいの。だから、5分間待っていて。あと1ゲームでこっちは終わるから」と言い放ったのだ。あいにく、こちらはすでにコインを投じていたので、賑やかなその機械が作動し始めたのだけれど。

ある葛藤状況を克服するために、(本音はともかくも)自分が詫びて相手の了解を得ようとするか(下手に出るか)、それとも、「問題ない」と自分が判断を下して、いわば一方的に主張することで相手を黙らせようとするか。どちらが正解というものではないだろうが、交渉術、ひいては処世術の違いとして興味深く思う。もちろん、前者のスタイルに馴染んでいる自分は、後者のスタイルに驚かされ、困惑するのだが。

Als kleine Anekdote, habe ich was erfahrt. Am Hotel beim Badurlaub sollten wirauf das Tischtennis etwas warten, weil ein Ehepaar schön dort waren. Anstatt waren wir beinahe „Air Hochey“ Spiel Anlage, dann kam die Frau davon und uns gesagt. „Diese Anlage ist völlig laut. Warten Sie fünf Minuten. Nach einem Spielm werden wir fertig.“ Jedoch hat das Gerät bald angefangen und das hat sie leider irritiert und sie hat uns danach nichts gesagt und gegangen.

Ob man erstens sich entschuldigt und bekommt Akzeptanz der andere, oder erstens behauptet man, was er will und führt (negative) Akzeptanz, bei der Szene der Konflikt zwischen Menschen, gehört Japan-Stil zweifellos zu Vorne. Allerdings kann niemand beurteilen, welcher Stil richtiger ist.





# by walk41 | 2019-02-15 06:14 | ことばのこと | Comments(0)



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