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学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

土産物売りのタフさ Staerke beim Verkaufen fuer Mitbringsel

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どこでも見かける、その地の名前を記したお土産。けれど、その場所と中身とは何の関係もない。どこでも、チョコレート/ミルク焼き菓子である。きっと、このお土産の包装紙に、全国の地名がつかわれていることだろう。

その地ならではのものではなく、中身が何であろうとお手軽な挨拶として、文字通り「手土産」に買われているとすると、日本という単位で言ってよいのか、「薄口」の人間関係を維持しようとすること、「気遣いの文化」を保つことが、この地域では合理的行動とされていることが考えられる。

もっとも、私はマイナーなのか、こうしたものを買う気がさっぱり起こらないのだけれど。いや、買っている人もぜひ買いたいという訳ではあるまい。「義理お土産」に好都合だからだよね。



# by walk41 | 2019-07-22 14:01 | Comments(0)

教員という社会的な立ち位置 gesellschaftliche Stellung als Lehrer

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引き続き、映画「学校」(1993年)中の台詞から。

教師、黒井がクラスにいる6人の生徒たちに言う。

「今年の謝恩会なんだけれども。カーッと明るいもんにしねーか。いつもみんなめそめそめそめそして、最後には抱き合って泣いたりするの、本当は俺嫌い。ね、泣いたって何一つ解決しやしないんだからね。だってこれからみんなはね、学歴社会。もう、大学を出たっちゅうだけで、馬鹿な奴が幅を利かしているこの不合理な世の中に飛び込んでってよ。それでもたくさんのね、偏見や差別をはねのけて生きていかなくちゃならないんだからな。え。そういう時にその、別れを惜しんで涙なんか流してる場合なんかじゃないよ。もう、そういう弱い人間であっていいのか。」

夜間中学校に在籍する彼ら彼女らを励ましたい、と思うがゆえの言葉、とはわかる。けれども、生徒の多くは学校に通いながらすでに働いており、「これから…世の中に飛び込んでいって」ではない。児童保護の観点から労働社会から隔絶されている義務教育段階の生徒とは、異なる。

また、「大学を出ただけで」幅をきかせられるほど、物事はシンプルではないのに、そう言い切ってしまう乱暴さにも閉口する。むしろ、タフに生きていくには、こうしたストレオタイプな物の見方は阻害要因になりうる点で、拙いことでもある。この点で黒井は「よい教師」とは言えない。

このシーンに、教員自身は大学を卒業して、倒産のまずない地方公務員な一方、このアドバンテージを得ることのない人間に対して、教員-生徒という非対称のコミュニケーション関係で説教や鼓舞を垂れている、という皮肉な構図を私は見る。そうならざるを得ないのかもしれないけれど、その際に自分のありようにどれだけ分析的であるのかが、教育的立場に問われる人間の誠意ではないかと、私は思う。





# by walk41 | 2019-07-20 05:53 | 映画・ドラマ | Comments(0)

学校今昔 Schule, früher und jetzt

学校のいま昔といっても、大昔のことではない。映画「学校」(1993年)を久しぶりに観た。四半世紀前の、東京の下町にある夜間中学校が舞台である。

いろいろと議論したい点はあるが、一つだけ言うならば、校長に対する次のような台詞があったなんて、なんと乱暴な話かと驚かされる。公教育としてのバランスを考えず、教員自身の「居心地の良さ」(夕方からの勤務ゆえの手当も出るだろうし)を隠して「生徒のため」と言い換えている狡猾さすら見る思いがする。

教諭である黒井役の西田敏行が、呼ばれた校長室でこう話す。夜間中学校での勤務を続けたいと言う黒井に対して校長が、学校間転任の例外をこれ以上認めるわけにはいかないと伝えた件だ。

これ以上例外を認めるわけには。どうしてできないんですか。だって、夜間中学そのものが、例外として認められた学校でしょ。これはとっても人間的な行政だと思いますよ。だとしたらですよ、夜間中学で働いてる私のような変わり者くらい、これ例外として認めていただいてもいいんじゃないでしょうか。決まり通りの人事だったら、これコンピュータに任せておけばいいんですよ、校長。いろんな例外を認められてこそ、学校が教育的で人間的な場になるんじゃないでしょうか。

確かに、こうした例外を認めることは人間的である。だから、長く同一校にいることで、人間的であることのマイナス面、たとえば、「学校の主」かのような傲慢な、あるいは多少のことは許されるだろうと、ルーズな勤務状態になる危険性もある。この点では、高校などの部活動での生徒に対する暴行が、当該教員の同一校での長期勤務が背景にあると、大阪市立桜宮高校での事件の後、人事異動が行われた事例を挙げられる。

この映画が上映されたあと、「こんな学校を作りたい」という声も上がったと私は記憶しているが、公教育経営上は「実に困った話」である。例外であることは避けられないし、むしろ積極的に受け入れるべきことでもあるけれど、それは「公教育水準の維持・向上」という視野も持った上でのことと踏まえてもらわなければ。

ちなみに、映画の中で、過酷な環境で働く生徒の猪田(田中邦衛)が、酔った勢いで黒井に迫る。雨が降ったって先生たちは給料が出るんだろ。俺たちゃ、その日からオケラだ、と。真っ当な指摘だと思う。

教員が占める社会的地位を踏まえてなお、困難を抱える生徒の近くにいたい/いるべきだという葛藤状況に耐えられる教員であることの、何と難しいことかと思わされる。









# by walk41 | 2019-07-18 22:02 | 映画・ドラマ | Comments(0)

嬉しいこと was ich mich daruber freue

この間、学生のレポートを読むことに専念している。

その中で、我が意を得たりというべきか、「こう受け止めてくれると嬉しいな」という、授業の振り返りに関する記述があったので、自画自賛なのだけれど、記しておきたい。

曰く、「…この授業では、物事を批判的に捉えることが、自己の偏向性を修正する大切な手段であることを学んだ。また、考える視点を変えることによって、”公共”とは何なのか根本的に考えることができた。この授業はまさに「エレベータ」であった。通常「エレベータ」は下層階と上層階をつなぐものであるが、この授業もまさにそれと同じであった。教員の感情マネジメントという、ミクロな階層から、言語(政策)というマクロな階層に至るまでの広い範囲を「エレベータ」によって行き来しながら、”公共”について考え学ぶことができた。」

読むべきレポートはあと40本、もうちょっと頑張ろう。


# by walk41 | 2019-07-17 18:51 | 授業のこと | Comments(0)

転入 Versetzen

文部科学省「学校教員基本調査」の異動に関するデータ中、「転入」とある。

引くと、その定義は初等中等教育機関の場合、「高等学校以下の学校の本務教員から当該学校の本務教員として異動した者」ということなので、教育学者がおそらく馴染んでいる別の表現、「学校間転任」と同義と見てよい。あるいは学校関係者ならば、「学校を異動した」という表現がしっくりくるだろう。

同じことを指しているのに、用いている言葉が違っていることを不思議に、また興味深く思う。

# by walk41 | 2019-07-16 08:19 | ことばのこと | Comments(0)

「その他」の離職理由って? Was ist der Anlass "Sonst" beim Verlassen des Lehrers

インターネット時代のおかげで、以前ならば図書館に通うか、自分で購入して揃えるしかなかった統計がこんなにも容易に手に入り、しかも加工もできるファイルとして提供されている。政府が公表している「e-Stat 統計で見る日本」(https://www.e-stat.go.jp/mypage/user/preregister)は、そんな統計資料の一つである。

そこで、このサイトを利用して、3年に1度おこなわれている、文部科学省「学校教員統計調査」を引き、学校教員の離職を調べてみた。小学校、中学校、高等学校、特別支援学校の教員数と離職者数、その内訳についてである。

離職は大きく定年退職(勧奨による退職を含む)とそれ以外に分かれ、それ以外は、病気、死亡、転職、大学等への入学、家庭の事情、職務上の問題、その他、の7つに区分されている。これらのうち、特徴的と思われるデータを挙げたものが、以下のようだ。

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定年退職が離職者全体の5、6割ほどを占めるのは、年齢層の厚い世代が学校を去りつつあることを示すものだろうが、それ以外の離職に目を向けると、次のことに気づける。①中途離職の割合は、定年退職を除く教員総数の1.4%~2.3%、高校でやや高い。②中途離職者のうち、上に示す6つの理由以外の「その他」が3分の1以上、半数近くまでを占めており、表記上「その他」では済まされないほどの割合の高さである。③不幸にして亡くなった方は、教員総数のおよそ1500~2000人に一人、高校は他の学校種の1.4~1.5倍である。

ちなみに、「盗撮」を除く公立学校だけに限った教員の「わいせつ等」行為の発生率は、学校種によっても違うが、約1500~3000人に一人であることがわかっている(森脇正博・榊原禎宏「教員の「わいせつ行為」に関する統計的再分析-学校種間の発生率の検討-」『京都教育大学紀要』132、2018)。比較するものではないけれど、近い数値ということで参考まで。

今年2019年度の調査結果が公表されれば、また比較もできる。学校教員に関する「教科書的」な理解として、こうした状況を知っておくことも大切ではないだろうか。

# by walk41 | 2019-07-15 14:27 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

データを眺める Schauen Daten

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共同研究で取り組んでいる調査のデータがほぼそろい、一覧表にするところまでこぎ着けた。入力したセルはおよそ7000、一つひとつ資料を引いて探し当てたものだ。

A4用紙で48枚分、つなぎあわせると4メートル近くの「巻物」になった。知見を見出すのはこれからだけれど、まずはデータを手中に収めたことを喜びたい。

「このデータに命を吹き込みたい」と共同研究者が呟いたように、ここから何を発見できるかが楽しみだ。うまく行けば、秋には何か発表できるかもしれない。学校研究にご関心の向きの方、乞うご期待を。

# by walk41 | 2019-07-14 19:13 | 研究のこと | Comments(0)

偏見? Vorurteil?

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こんな広告がドイツ語版であると、家人が知らせてくれました。

飲み物の宣伝ですが、左側はいま「あなた」が飲んでいる、「ただの抹茶、甘味料添加、有機栽培ではない中国産」とあり、右側は「わたしたち」が飲んでいる「抹茶プラス強力なスーパーフード、一切の甘味料なし、有機栽培の認証を受けた日本産」とあります。どちらが良いですかという切り口です。

小さな経験の限りですが、ドイツに限らず、台湾、ベトナム、ハンガリー、ポーランドなどでも、「安心できる質の高い、値段は高い目の日本製」商品の紹介のされ方を見たことがあります。言わずもがな自分はまったく部外者なのですが、これも日本の一部だなあと誇らしく思います。

ソフトウエアである「おもてなし」に見られる細やかさや美しさと合わせ、日本がいっそう「いいな」と思ってもらえる場でありますように。「南京大虐殺はなかった」「老後に2000万円要るなんて書いた大バカ者」「女性は子どもを産む機械」「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。まだ正常に近いんじゃないか」なんて、訳することをはばかられるような発言をする政治家が跋扈している、恥ずべき状況を変えることを含めてね。





# by walk41 | 2019-07-13 08:46 | ドイツのこと | Comments(0)

学力と幸福 Leistung und Lebensglueck

岩竹美加子『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(新潮新書、2019)の新聞広告を見た。「テストも受験も、部活も運動会もないのに、学力、そして幸福度も世界一。その秘密教えます!」というふれこみである。

テストや受験があることで学力が引っ張られるかもしれないとは、多くの人の首肯するところだろうが、部活や運動会のあるなしが、学力と正に相関するかもと考える人はどれほどいるだろうか。むしろ「勉強が大変だから部活をやめたい」という生徒は容易に想像できるから、負に相関するかもという流れならばわかる。それにしても、さっぱりわからないのは、幸福度とまで言っていることだ。

この本を見てから言うべきかもしれないけれど、かなり勇み足との印象を受ける。何を指標にするのか難しくもあるけれど、たとえば、自殺率を幸福度と関係づけられるとしてみよう。幸せならば自殺する傾向が弱いのではないかという予想のもとでの立論である。

厚生労働省「諸外国における自殺の現状」(2017)に、以下の図がある。

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2014年時点で見ると、フィンランドの人口10万人あたりの自殺死亡者数は、韓国、ロシア、日本よりは低いものの、カナダ、イギリス、イタリアより高く、オーストラリア、ドイツと同じくらいである。学力問題が若年層を対象に語られるから、自殺がより生じる年齢層とはずれがあるのかもしれないが、私にはそんなにハッピーに見えない。

それもそのはず。学ぶことで世の虚しさ、人間の愚かさに気づくかもしれないし、少なくとも悩むことは増えるから、死に近づくとは言えるだろう。この点では、知らぬが仏である。だから、学力が向上したら幸福度が下がることはあっても、上がって当然など、かなり厳しい論理かと思う。

もっとも、この表題を支持する人の中には、「フィンランドの自殺率が下がっているのは学力が上がってきたから」と主張する向きもあるかもしれない。これも某自治体が喧伝する「幸せになるための教育」論だね。そんな「頭の中お花畑」のようなお喋りは、やめようよ。

# by walk41 | 2019-07-12 11:55 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

段落を作る Abschnitt zu stellen

前期の授業も終わりに近づき、学生たちはレポート作成にも追われている。

レポート課題を提示する際に、彼ら彼女らに毎回強調することの一つは、適切な段落を作ること、つまり、論理的記述を支えるかたまりとそれらのつながりを接続詞で明示するように、である。

勤務先では1割少しだろうか、以前、関西の「有名私学」で非常勤講師をしていた経験では4割ほどの学生が、段落がまったくないか僅かしか見られないレポートを出してきた。私の読み方が拙いのだろうか、これは内容以前の問題で、「私のレポートは読まなくてもいいよ」というメッセージにすら見えるのだけれど。

適切な段落を構成するなど、小学校の時に教えられているはずだし、何より将来、教員として働くのならば、満たさなければいけない条件かと思う。レポートは、小さいながらも一つの作品なのだから、より美しくあってほしいし、決して「やっつけ仕事」ではなく、残しておきたいと思えるものに近づけてほしい。

過日、ある授業で提出されたレポートを返却したが、学生たちは、クラスメイトによってたくさん、私からは少し、自分のレポートに赤ペンで書き込まれたコメントを、しばらく眺めていた。

どうせ書くのなら、こんな愛着を持てるレポートになりますように。





# by walk41 | 2019-07-12 06:38 | ことばのこと | Comments(0)

高校までの教育の成果か ein Ergebnis der Bildung bis in der Sekundarstufe

学部生への授業、この頃、梅雨もあって蒸し暑くなり、学生も疲れているのかもしれないが、反応が鈍いように思えて、ときどき「着いてきてる?」「ここまではいいかな」などと呼びかけをする始末である。そんな授業のあと、次のような感想があることに気付いた。

「先生への質問に答えるときに、間違えてもとりあえず答えてみるとか、答えを知らないのなら持てるデータから推測してみるといった発想が、自分を含めてみんな無いように感じました。正しい答え以外は、間違っている、言うべきではないという空気を、自分たちが教師になった際は作らないようにしなければならないと…」

なるほど。これはQuestion-Answerの問いで、答えの決まっていることを「常識」問題としてたずねた下りを指しているのだが、「正しい答え」があると感じるほどに、発言しづらいと感じるような身体に育てられてきたんだなあと思わされる。

大学でこうした類の問いは少なく、どう答えてもひとつの反応たりうるテーマが多いのだが、そもそも、問いかけに対する態度が「これで合っているのだろうか」と不安を抱くところから学生がスタートしているのだとすれば、自由な議論はかなり遠いところにあると見るべきだろう。高校までの「アクティブラーニング」に期待していいだろうか。

# by walk41 | 2019-07-09 12:14 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

すごいなあ日本の鉄道 Wunderschoene Zuglinie in Japan

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JR西日本のHPを見ていたら、上の記事があった。「所定時間より早く発車した事象について」である。どれどれと眺めると、運転士の勘違いで、予定時刻より1分早く発車したとのこと、乗れなかった人には気の毒だが、誤差の範囲とは言い過ぎだろうか。

いつものドイツわかったつもり話で恐縮だが、たいていは遅れてくるドイツの鉄道がたまに早く駅に到着することがある。それは構わないのだが、やっかいなのはその勢いか、時刻表よりも早く出発してしまうことがあるのだ。まだ出ないだろうと、車外で待っていたら、いきなり車掌が笛を吹き、次の瞬間に扉がしまったことがある。辛うじて乗り込んだからよかったものの、荷物は車内だし、身一つ残されてもしかたない。恐るべき鉄道運行である。

それに引き替えというべきか、わずか1分早い出発を公表するという日本での徹底ぶり。これまた恐るべしと言うべきか。

Wenn ich die Web-Seite der JR West schaue, sehe ich eine Nachricht ueber einen Fall, der der Zug frueher als geplant gestartet hat. D.h. wegen des Missverstaendnise des Lokofahrers hat ein Zug eine Munute frueher gefahren. Wenn jemand gewesen waere, der den Zug verpasst hatte, is es zwar schade, aber man kann das binnen des Irrtums sehen. Vergleichend mit der Situation in Deutschland, kommen die Zuege manchmal spaeter, aber kommen sie eventuell frueher zum Bahnhof. Das ist eigentlich zwar nicht schlecht, aber der Zug koennte vielleicht auch frueher fahren. Einmal als ich draussen des Zugwagons war, trotz die Zeit noch nicht kam, hat Schaffner die Pfeife gemacht und im naechsten Moment war die Tuer des Zuges zugeschlossen, waehrend meine Sache im Zug war. Dennoch soll nur eine Munute frueh Fahren in Japan im oeffentliche Nachricht kommen. Das kann in anderer Meinung auch furchtbar sein.

# by walk41 | 2019-07-09 11:56 | ドイツのこと | Comments(0)

フランスでの学校制度改変 Schulreform in Frankreich

The Asahi Shimbun Globe+(https://globe.asahi.com/article/12514081?cid=asadigi_rnavi_globe)
2019.7.5の記事に驚かされた。フランスで3歳からの義務教育が始まるというのだ。

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フランスは今秋、義務教育が始まる年齢を6歳から3歳に引き下げる。欧州ではハンガリーと並んで、最も低年齢から義務教育が始まる国になる。既に97・6%の3歳児が日本の幼稚園にあたる「保育学校」に通っているが、あえて義務化に踏み切った狙いはどこにあるのか。ジャンミシェル・ブランケール国民教育相に聞いた。(本間沙織、写真も)

「私たちは2017~22年までの政策のテーマを『信用の学校』と位置づけました。学校を通じてフランスという社会に所属している人たちが互いに信用しあえるようになることが目的です。決して簡単なことではありませんが、いったん、お互いのこと信用し合えるようになったら、子供たちも自分に自信がつくでしょう。公教育に対する不信感を拭いたいと考えています」

「保育学校に通う時期は、子どもの成長にとって大変重要です。あらゆる分野の研究で、人生の最初の7年間が大事だという結果が出ています。ですから保育学校の政策、つまり幼い子どもたちを対象にする政策はそれだけ大切なのです。限られた予算を投じてすることですから、大きな効果をもたらしてほしい。ですから、子だもたちが3歳から教育を受けることが必須だと考えました」

「現時点で3歳以上の子どもたちの97%は既に(幼稚園にあたる)『保育学校』に通っています。残りは3%とはいえ、約2万5千人いるので、その数を軽視してはいけません。海外県や移民の多い地域では、保育学校に通う子どもは格段に少ない。午前中だけ、あるいは週に数回だけ通わせる家庭もあって、皆が毎日、朝から夕方まで通っているわけではありません」

「全員を通わせるだけで満足することなく、質を担保しないといけません。認知科学の最新の研究結果なども考慮すると、語彙レベルの差が格差にもつながっているので、特に語彙力を増やすことが重要だと思います。その点で、保育学校の時点でフランス語の習得状況を改善できれば、子どもたちは小学校に入る時点で、より平等なスタートラインに立つことができるでしょう」

「私たちの目的は競争させることではなく、協力的な環境をつくることです。一人で勝利するのではなく、皆で勝利を目指した方がいい。一人で好き勝手に生きていくのではなく、周囲に耳を傾けたり、相談したりすることも大事です。そのためには、子どもたちがフランス語を話せる才能を育てるべきだと考えています」(以上、抜粋)
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いかがだろうか。これまでも、修学前教育の重要性は指摘されており、「小学校からではもう遅い」とまで主張する人もいる中で、日本ではまだ「幼保一元化」の議論がくすぶっている状況に私には見える。

「人生最初の7年間が鍵を握る」という思想に裏付けられた、「自由、平等、博愛」を追求するフランスの大きな学校制度改変はどう進むのだろうか。

# by walk41 | 2019-07-08 10:22 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

すり替え Änderung des Themas

電車の吊り広告、 「年金2000万円問題ー年金は破綻しない」とある。他の見出しを見ても、プロパガンダ雑誌と思しきだから期待すべくもないけれど、これもいただけない。年金制度が維持されるということと、それでは暮らしが成り立たないということは何ら矛盾しない。1円でも出る限り、制度としては維持されているからだ。

制度として維持されているだけでは、安心の老後にはならない。そして試算すれば2000万円ほど足りなくなりますよというのが、麻生大臣が受け取りを拒否したという(こんなことが許されるのか)金融庁の報告書の趣旨である。

なのに、「年金制度が立ちゆかなくなる」なんてことを言っていると仮想敵を作り、「そんなことはない、年金制度は維持されるぞ」という構図を作っているのが、この見出しだ。欺瞞である。

「老後のためにいっぱい貯蓄をと焦らなくても大丈夫」なのかどうかが問題であり、それができないのならば「安心の年金」とは言えないという指摘にどう応えるかが求められているのが、今の構図である。にもかかわらず、こんな子どもだましの見出しが堂々と躍っているさまは、まさに悲劇的だ。このすり替えに気づかないだろうと、宣伝を目にする人は馬鹿にされているのだから。


# by walk41 | 2019-07-06 15:27 | ことばのこと | Comments(0)

学力の剥落 Absturz der Kompetenz

みなさんに当てはまるかどうかわからないけれど、私について言えば、漢字を読めることと書けることとの乖離が著しい。

先日も授業で「清潔」と板書しようとしたのだが、「潔」の右側が覚束なく、書くのを止めてしまった。学生には、「漢字を忘れてしまったので書かないけれど、cleanliness のことね」と弁明する始末である。ああ、学力のはがれ落ちである。

「使わなくなったところは衰える」ということなのだろうけれど、字を書かず、もっぱらキーボードを打つ生活になると、さもありなんということか。これから求められる学力も変わってくるのではないだろうか。

# by walk41 | 2019-07-05 11:31 | 身体 | Comments(0)

「校内研究」-小学校に見る奇々怪々な文章  Ist der sprachliche Unterricht in der Grundschule möglich ?

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「校内研究」に関する指摘がくどくて申し訳ない。けれど、こうした文章が、「知の館」であるべき学校のHPを踊っているということが解せないし、許されることではないと思う。

上は、九州のある小学校に掲載されている、2019年度の記述である。修飾語ほかを外して見ると、一つ目は「~を育てることで、~が図られるであろう」、二つ目は「~を図ることにより、~を高めることができるであろう」、三つ目は、「~を深めることにより、児童は~という意識が高まるであろう」である。いったいこれらは、どんな文章だろうか。

いろんな突っ込みがありうるだろうけれど、私は以下をこの学校に伝えたい。

1.「~することにより」と回りくどく書いているのは、「~する」と言い切れないゆえだろうか。つまり、「育てる」「図る」「深める」と教員がやるかどうかわからないけれど、という「逃げ」が予め打たれている、とは言い過ぎだろうか。実証できない文章であるがゆえに、「そうやったかどうかは、よくわからないんで」と、うやむやにする余地を残しているのではないか。なお、そもそも「そうしたか、否か」を、どのように判断するつもりをしているのだろうか。

2.「育てる」と「図る」、「図る」と「高める」、「深める」と「高まる」という前後の違いがわからない。たとえば一つ目、「児童の意欲と態度を育てることで、児童の育成が図られるであろう」と読めるが、前半と後半は同じことを述べているに過ぎないだろう。「雨が降ったら、雨の天気と言えるだろう」「暴飲暴食をすることで、腹痛が生じるであろう」といった文章とどう違うのかわからない。同じだというならば、文字通り、同義反復、意味のない文章である。

3.児童の個別性がまったく視野に入っていない。「個に応じた指導」や「学習の個別最適化」と逆行するものだろう。教員の目から見て、ある授業や指導に対して「のぞましい」反応をする子どももいるかもしれない。けれど、それは即、全員を指すわけではない。経験の違い、性差、教員との関係性、そもそもいつの話なのか(年度末?、 卒業時?)など、分けるべき点は多数あるのに、どうしてこんな乱暴な記述ができるのだろうか。これでは、総合病院にやってきた人を指して「みなさんを直すには、こうすればいいだろう」と十把一絡げに述べるがごとくだ。それはもう詐欺師か占い師の世界である。

「こんな指摘はおかしい」という反論をぜひ伺いたい。そうでなければ、きっと結構な時間をかけて、こんな訳のわからない文章をつくっていることも仕事だなんて、納税者に説明できないもの。ここまでに至るのに、この学校はどれだけの人件費を投じたのだろうか。また、この「仮説」を実証するために、これからどれだけの人件費を投じることになるのだろうか。

たとえば、教員ひとりあたりの給与を1時間あたり平均2500円、教員が15人の小学校だと仮にすれば、1時間あたり37500円、校内研修の時間のほか、下準備、打ち合わせなどの時間を勘案して、1ヶ月あたり5時間、4月から翌年2月まで、8月を抜くと合わせて10ヶ月、つまり、5×10時間で計50時間、37500×50=1875000円となる。200万円近くの資源の投下である。さて、このことに納税者は納得できるだろうか。









# by walk41 | 2019-07-03 14:23 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

教員の自己満足 Selbst-Zufriedenheit des Lehrers

北國新聞、2019.6.25 記事、小中連携であいさつ運動とある。「町生徒指導部会で「児童生徒のあいさつに元気がない」「学校によって取り組みもさまざまで、地域差がある」などの意見が上がり、部会長の井上勝文津幡中校長が校下に運動への参加を呼び掛けた。」

なんと迷惑な話かと思う。この部会長は、「あいさつはコミュニケーションの基本中の基本。義務教育の9年間でしっかり身につけてほしい」と語っているが、この御仁には、挨拶というものが対人関係を決めるがゆえに、その状況や条件に応じて使い分けられてこそ「生きる力」がある、という洞察がまったく欠けているようだ。お会いしたことはないが、「校長の質ってこんなもんか」と呆れられること必至の「学力」状況を、この方は示していると思う。

言い換えよう。「あいさつはコミュニケーションの基本」に異論はない。その通りだと思う。けれど、このことは、「あいさつをすること」と同義ではない。「軽く会釈をすること」「わざと知らないふりをすること」もあいさつのひとつである、という但し書き付きである。

多くの人が似たようなことを経験しているだろう。歩いていると話をしたくない人がやってきた。彼につかまると長い駄話につきあわされるのだ。急いでいる身としては、ちらっと挨拶もどきをするだけでやり過ごそう。これは賢明な判断である。何を好んで、不快な時間をしかも優先すべきことを後回しにして費やさなければならないのか。ここで「こんにちは」と大声を上げるなど、尋常ではない。

あるいは、公共施設のエレベータの中での振る舞いを思い浮かべてみよう。混み合っていたりすれば、パーソナルスペースはごく狭いのだけれど、誰がどこに向かっているのかなど尋ねるのは失礼千万である。だから、みんな他者を見て見ぬふりをする。これが「礼儀正しい無視」である。これを知らず、「こんにちは。今から何の用事ですか」などと尋ねようものなら、非常識甚だしい人と思われること間違いない。点灯するフロアの番号を眺めながら、黙っているのがマナーというべきである。

このほか、悲しそうにしている人に簡単には声をかけない。見知らぬ怪しげな人に話しかけられたからといって返事をしない、といったことは、賢く生きる上で身につけるべきコンピテンス(遂行能力)である。それなのに、なんとかの一つ覚えのように、大きな声で挨拶することが望ましいなどいったい誰が思いつくのだろうか。

こうした記事に触れるたびに思う。教育者であることを確認したい教員の自己満足に、素直な子どもがかくも犠牲になっていると。あるいは、ダシにされていると気づいた子どもにとっては、「同調していれば上手くいく」という誤った学習を促すことになっていると。いずれもすこぶる残念なことだ。

こんな体では、グローバルな多様で異質な文化に対応することができず、そもそも他者の気持ちを推し量ることもできず、「あいさつを自分はしたいからところ構わずする」という傍若無人な方向での人間形成になることだろう。こんな愚かな「実践」に、今日も多くの学校教員が「何となく」懸命に頑張っているのである。


# by walk41 | 2019-07-01 18:35 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

つけパン再論 eingezogenes Brot mit der Suppe

学校給食で出されるカレーやシチューにパンを浸して食べる、いわゆるつけパンのことを以前、書いたことがある。

先日、学部生の授業で、文化資本としての行動様式と教職の関係について話をしたが、その際にこのつけパンのことも取り上げたのだ。知らないうちに教員個人の閾値が影響して、「正しいマナーではない」といった乱暴なことがクラスで生じているのではないか、と。そして、これに対する学生の感想は、次のようであった。

…自分も小学校の時に、給食のスープのお皿にパンを浸して食べたり、側面に残ったスープをパンで拭き取っていたら、担任の先生に「汚いからやめろ」と言われたことがある。だが、私からすると、浸たパンやつけパンをすることで、苦手なパンが食べられたり、食器をきれいにきれいにできるという考えだったので、何を汚いと言われたのかわからなかった。…

…私も小学校の時に、スープにパンをつけるなと言っている先生が実際にいたので共感した。何が正解なのか、決して1つには決まらないという考えを持てる教師になりたい。…

…自分の過去を振り返りました。うちの家では、スープ類にパンをつけて食べることはマナー違反ではなく、一緒の食事の楽しみ方でした。しかし、小学校の当時の担任の先生はとても厳しく、私ではなかったのですが、同じことをしていた子に注意しているのを見て、「あれはやっちゃいけないことなんだ」と思うようになりました。…

いかがだろう。さして根拠があるわけでもないのに、「自分の好み」をあたかも正しいかのように子どもに押し付ける「正義」を、「子どものために」と懸命に働いている教員は、少なくないのではないだろうか。

「日本の学校教育の良さ」として海外輸出されてもいると評される特別活動だけれど、それは同時に、教員の個業性が無条件に優位し、「マイウエイ」「マイルール」が跋扈する領域でもある。

食事の仕方、掃除の仕方(そもそも学校で、児童・生徒がなぜ掃除をしなければならないのか)といった、優れてプライバシーに属する事項が、乱暴にも教員(たち)に丸投げされていること、これはまさにリスクマネジメント(危機管理)として扱うべきではないだろうか。

# by walk41 | 2019-06-28 11:57 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

変わらない「校内研究」 unveraenderte "Forschung in der Schule"

少し関心が遠ざかっていたのだが、改めて学校、とくに小学校で顕著な「校内研究」の様子を、各学校のHPに挙がっている資料から眺めている。

これらについて、まず一つ言うとすれば、「研究仮説」と銘打ちながら、その実はおよそそのようなものではないという状況が、今も変わらず続いていることへの驚きである。

九州のある小学校の2019年度の校内研究計画には、次のようにある。「4 研究の仮説 自分の考えを書く活動において、以下の指導の工夫を行えば、書く力を身につけ、それを相手や目的に応じて活用し、自分の考えを確かに表現できる児童が育つであろう。①多様な表現方法を身につけさせる指導の工夫 ②習得と活用のつながりを意識した単元構成の工夫」

このような論理的でない文章を書いている学校が、どのように児童に言語教育をしているのかわからないけれど、これを同義反復のおかしな文章だと思わないほどに、学校現場はルーチン化、あるいは疲弊しているのだろう。

上記文面は次のように続く。

「5 研究の内容 

(1)「わざ」(この学校では、モデル文を参考に、書くことについて学年ごとに児童が身につけるべき技法、を指す-榊原注)を習得させるための指導・モデル文の中の「わざ」を使った文章を書く活動の設定

 (2)「わざ」を活用できる指導の工夫

    ・説明的な文章を学習材にし、「わざ」を活用した文章を書く学習過程の設定

 (3)語彙拡充の工夫

    ・かくぞうタイムの見直し

    ・読書タイムの充実や読書活動の推進

 (4)常時活動と日々の言語活動の充実

    ・「ことばブック」を活用した日記指導の工夫と充実

    ・他教科において「はばたきタイム」の位置づけと充実、書く活動の設定

私の見るところ、つづめれば、「文章がちゃんと書けるように指導すれば、書けるようになるだろう」である。まあそうだろうね、「朝にごはんを食べたら、朝ご飯を食べたことになるだろう」と同じだから。同義反復である。

同義反復のスタイルを採る限り、検証のしようはない。「Aをすれば、Bになる」という形式は、ABの両者が別物であることが前提だからだ(ちなみに、この両者の距離が離れており、かつその関係が検証されれば、「いい研究」になる)。

しかも、「教員による指導」と「児童の能力の獲得」は因果関係ではなく、相関関係である。学習塾などで既習の児童がスムースに文章を書けることで、教員の指導がやりやすいこともあるのだから、上記のAが教員であることをそもそも前提にできない。なのに、「何となく」教員側が影響を及ぼすことになっている。学校はなぜこれを前提にするのか、わからないことなのに。

にもかかわらず、上記のような奇妙な文章がインターネット上に公開されているという悲劇。こうした状況を指導主事や教育委員会はどのように捉えているのだろうか。学校教育の謎である。




# by walk41 | 2019-06-26 08:14 | ことばのこと | Comments(0)

「悲しいとき~」学生版 Wenn ich mich schade findet...

「いつもここから」の名作、「悲しいとき~」を学生につくってもらう。学校の経営、とくに学級づくりや場の雰囲気づくりの上で、悲しみや困難を笑いに変える力はすぐれて重要と考えるからだ。その際、自身が小・中学生だったときに、「笑い係」がなかったかと尋ねると、少なくない手が挙がった。みんな、経験しているんだなあ。

以下、紹介させてもらおう。みなさんに笑ってもらえるだろうか。

・アルバイト先でお客さんに声をかけたら、「お前、目障りやねん」って言われたとき~
・オシャレをして大学に行ったら、「え、それダサいから止めた方がいいで」と言われたとき~
・書写の授業の清写で、最後の最後に間違えたとき~
・かくれんぼをして隠れていたら、みんな他の遊びを始めていたとき~
・先生に当てられる順番を考えて予め答えを用意していたのに、前の人がふたつ答えて、わからなくなったとき~
・給食で好きなメニューを残しておいたのに、床に落としてしまったとき~
・友達をちょっと困らせようと思って、嘘泣きしていたら、先生に本気にされて、家まで電話がかかってきたとき~
・私に手を振っていると思って振り返したら、後ろの子に手を振っていたとき~
・模擬授業をしたときに、みんなの反応がなかったとき~
・楽しみに置いていたプリンがお父さんに食べられていたとき~
・授業を休んだ翌週、「先週、おらんかったん?」と友達に気づかれていなかったとわかったとき~
・せっかく早起きして、10分前から教室に座っていたのに、5分前に休講通知が来たとき~
・誕生日にあげた靴、「大切につかうね」とお礼を言われたのに、一度も履いているのを見たことがないとき~
・クラスの生徒に「明日は先生、出張です。ごめんね。」と言ったら、拍手喝采だったとき~
・板書の多い授業で、消しゴムを忘れたとき~
・先生に向かって「お母さん!」って叫んでしまったとき~
・授業中、寝てしまい、起きたときにいきなり立ち上がってしまったとき~
・アルバイトで後輩に先輩らしく注意しようとしたら、その前に「~ですよね。わかってます」と冷たく言われたとき~
・お母さんに飼っている犬の名前で呼ばれるとき~
・「英語領域やから英語できるやろ?」って言われるとき~
・めちゃ並んで延着証明書をもらったのに、先生に受け取ってもらえなかったとき~
・ディズニーランドに行ったら、キャストに男の子に間違えられたとき~
・Bluetoothにつながっていると思って電車の中で音楽を再生したら、爆音再生になってしまったとき~
・当てられないように目を合わせずにいた時に限って、先生に当てられるとき~
・iphoneの保護フィルムを張り替えたばかりなのに、画面を下に落としてしまったとき~
・遅刻しかけている友達を待っていたのに、気づかれず通り過ぎられ、自分だけが遅刻になってしまったとき~
・オフショルダーの服を着ても、肩幅があるから普通の服になるとき~
・「ねぎ無しで」って注文したのに、ねぎが入っていたとき~
・生徒に質問されて得意げに解説していたが、答えがそもそも間違っていたとき~
・電車に乗っていて、降りる一つ前の駅まで起きていたのに、寝過ごしたとき~
・授業中寝てしまい、とても時間が過ぎたなと時計を見たら、5分しか経っていなかったとき~
・せっかく苦労して揚げた天ぷらの注文をキャンセルされたとき~
・可愛いワンピースと堂々と歩いていたら、後ろのボタンが全開でシャツが丸見えだったとき~
・一番勉強をして「これ単位とったわ」と思っていたのに、受講登録をしていなかったとき~
・2時間かけて書いたレポートがデータ保存されていなかったとき~
・家のプリンタインクがなくなり、明日提出のレポートを印刷できないとき~
・いつも食べているオムライスを注文しようとしたら、ちょうど前の人の分で売り切れたとき~
・久々に料理をしようと思ったら、賞味期限が切れていたとき~
・真面目に話を聴いているのに、「起きてんの?」と言われたとき~
・バスの降車ボタンを先に押されたとき~
・授業が始まるまで10分あるから間に合うと、友達をゲームを始めたのに、いつもより早く先生が来て授業が始まったとき~
・テスト終盤に解答欄がずれていることに気づいたとき~
・体操服を忘れて体育の授業が見学になるとき~
・好きだから残していたのに、「え、要らんの? ちょうだい」と勝手に食べられたとき~
・授業中トイレに行きたいのに、真ん中の席に座っていたとき~
・お気に入りの服が後輩とかぶっていたとき~
・外国人に英語で道案内しようとしたら、日本人だったとき~
・財布をなくして出てきたけれど、中身がなかったとき~
・焦ってほぼ徹夜でで課題を仕上げた野に、提出日が1週間も先だったとき~
・頑張って掃除をしたのに、バケツをひっくり返したとき~
・授業中、ずっと手を挙げているのに、一回も当てられなかったとき~
・アルバイトで頑張って商品の良いところをたくさん説明したのに、結局買ってもらえなかったとき~
・運動会で2位だったら、1位と違って景品も褒め言葉もないとき~
・学年が変わり、昨年度同じクラスだった人に「去年、何組だった?」と尋ねられたとき~
・土曜参観日、観に来ていた保護者がうちのおかんだけだったとき~
・食堂のレジで学生証を出したつもりが、Suicaカードだったとき~
・席替えをしたのに、教卓の一番前だったとき~
・鞄の中で、シーブリーズがこぼれちゃったとき~
・頑張って勉強したのに、テストの問題に出なかったとき~
・知らない間に友達に彼氏ができていたとき~
・授業中うっかり寝てしまい起きたら、すごい量の板書があったとき~
・字が下手な先生に、字のことで怒られたとき~
・すごく丁寧にやった課題に限って、やるべき範囲を間違っていたとき~
・私の名字が読めなかったのか、テスト返却時、私だけ無言で返されたとき~
・とても時間のかかる課題をやったのに、家に忘れたとき~

「このブログを記していたのに、ファイル保存していなかったために、突然ぜんぶ消えてしまったとき~」にならずによかった。


# by walk41 | 2019-06-25 11:14 | コミュニケーション | Comments(0)

「最低でも…」 mindestens...

およそ上品なことではない、愚痴である。

ある会議のことで、教育委員会の指導主事と電話で話した。事前打ち合わせをしたいと言われたので、その日程の調整をするべく話していたのだが、打ち合わせにどれくらいの時間を要するかが伝えられなかったため、こちらから尋ねると、「最低でも、1時間は」と返ってきた。

この一言で、まだお会いもしていないこの方に感じていた、私の違和感が何によるのかがわかった気がした。場面にあった発言ではないのだ。

「できれば、1時間は頂戴したいのですが」と伝えるのが、依頼する側のものの言い方ではないだろうか。「上から目線」のつもりはない。物事をスムースに進めるためには、自分の言いたいことを少なくとも始めは、いわばオブラートに包んで表現した方が交渉上、賢明だと思われるのだ。まだ、相手とのラポールはおろか、顔さえ知らない状況なのに。残念なことに、相手に「厚かましい人だなあ」と思われて、わざわざ損をすることはない。

学力論でも非認知的能力(社会情緒力)という言い方を聞くようになっているが、これをどう捉えればいいのだろうか。これからの議論になるけれど、広義のメタ認知を駆使していないのではないかと思われるケースに出合うと、こうした能力の重要性が改めてわかるように思う。

お目汚しを失礼。

# by walk41 | 2019-06-24 18:34 | ことばのこと | Comments(0)

大らかな綴り lockeres Buchstabieren

スペイン語でmóvil(携帯電話)という単語を見て、今更ながら気づいた。この場合、v と b って親和性があるなって。

なぜって、英語で携帯電話は、mobile phone、"b"である。かたや、動詞になると、move と "v"になる。スペイン語では、mover と "v"のままだ。

あるいは、日本語では、「モバイル」も「ムーブメント」も多くの人は「ぶ」と発音していることだろう。「ムーヴメント」と言えなくもないが面倒くさい(テレビを「テレヴィ」と表記する人もいるけれど中途半端だ。そもそも、tele-vision なんだから、間違っているし)。

ちなみに、ドイツ語で携帯電話は、Handy、「ドイツ語化した英語」Denglisch で、英語としては伝わらない、新語である。

だから、ことばを学ぶときは、「ちょっと似てる」とか「全然違うね」とか楽しんで学ぶように、指導者は勧めたらどうだろうか。「おおよそ、そんな感じ」という大らかな態度が、学びを促すんじゃないかな。

# by walk41 | 2019-06-24 10:10 | ことばのこと | Comments(2)

忌避でもあるいじめ Mobbing als Vermeidung

小学校の低学年で、自身の鼻くそをクラスメイトにつけたがる男子がいて、みんなが彼を避けていたら、保護者と学級担任との二者面談で、保護者から「うちの子どもがいじめられている」旨の発言を受けたことがある、というあるケースを学生に話したら、次の感想が返ってきた。

…授業の冒頭で先生がおっしゃった、男の子の話で「いじめって、そもそも何が基準だっけ」と考えさせられました。私がこの話を聞いて印象深く残ったのは理由があり、実際この子と全く同じような男の子に小学校3年生の時に出会ったからです。

その男子は特定の複数の女子を追いかけ回しては、鼻くそやつばをつけようとしていました。私の仲良かった友達がそのターゲットになった時、それが嫌でその子と隣同士だった席を話そうとしたら、担任の先生に怒られ、1時間が授業から学級会に変わりました。その時にも先生が、その事情を知らずに、今、クラスで男の子が避けられたりしている。机を離したりするのはいじめだとおっしゃて、子ども心にいじめって何? 私の友達も嫌なことをされているのに、と思ったことを思い出しました。…

いかが思われるだろうか。理不尽ないじめとそうとは言えないいじめ、に分ける必要があるのではないだろうか。自分に災いが及ばないように避けること、これが結果として排除になってしまうのは、自分を守ることができるという基本的人権に属することではないのだろうか。







# by walk41 | 2019-06-23 09:04 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

うれしい授業後のコメント erfreulicher Kommentar fuer Dozent

大学での大人数の授業では、学生にコメントを書いてもらうようにしているが、今回、次のような感想があった。

…今日もまた1つ、自分の考えの幅が広がった授業でした。先生はどうしてこんなにも学生の視野を広げさせることが上手なのかすごく気になります。それくらい、今日もまた新しいことを得ました。それは、物事を多角的にとらえることです。ある1つのことに対していくつかの答えを用意することは最善であると今までは考えていました。ですが、そもそもある問題の体系を分解して、根本的な問いを考え直してみる必要も時にはあるのだと強く感じました。また、他の学生の意見を生で聞いて、また1つの考えの幅が広がりました。今回はすごく濃い時間でした。…

こうした経験を経て、柔軟でかつ多くの選択肢を導き出せる教員へとなっていってほしいと願う。この間まで高校生だった君が、大学生らしくなっていくワンシーンかなと、読みながら嬉しく受け止めた。

# by walk41 | 2019-06-23 08:52 | 大学のこと | Comments(0)

聲の形 die stille Stimme

大今 良時の原作『聲の形』を漫画ではなく、映画で観た。

聴覚に障碍のある「硝子」と、彼女をかつていじめたものの、高校生になり自身を苛む「将也」を中心に話が進む。両者の家族、友人と登場人物が、それぞれに伝わらない聲を持ちながら日々を送っているとも観れる作品かと思う。

冒頭、転校生だった小学校6年生の硝子に対して、聞こえないことでコミュニケーションが取れず、ぎくしゃくする子どもたちによる理不尽ないじめのシーンが続く。筆談用ノートに罵詈雑言を連ねる、数ヶ月のうちに補聴器を8個も壊したのみならず、最後には彼女が装着していた補聴器を引きちぎり耳から出血させる、水をぶっかける。教科書を池に投げ捨てる、と凄まじい。

私の小学校、確か4年生の時のことを思い出す。クラスに聴覚障碍の女の子がいた。今でも名前を覚えている。彼女が補聴器を付けていたのは憶えているが、どれほど聴覚があったのかは知らない。そのクラスの男子たちが彼女にしたのは、いわゆる健常者には奇妙に聞こえる彼女の独特な話しぶりを、意地悪くも真似て笑ったということである。その男子の中に私もいた。

映画のようなえげつないことはなかったから、からかったに過ぎないと言えなくないとは思う。けれど、まったく理不尽ないじめであった、「正常」なことが当然で、そうでない人を嘲っても「正義」だという雰囲気がおそらくあったのだろう。

記憶の限り、それが長期にわたったとは思わないけれど、自分に都合良く忘れているだけかもしれない。また、短期だったから済むという話でもないだろう。申し訳のつかない残酷なことをした、私であった。

# by walk41 | 2019-06-22 20:02 | 映画・ドラマ | Comments(0)

無言清掃 Putzen ohne Schwätzen

学校教育は価値の選択を必然とし、それゆえに、特定の価値を選んでいることの怖さに自覚的でありすぎることはない。にもかかわらず、このことに対する教員の無邪気さは相当だと、研修で感じる。その一つが、児童に無言清掃をさせることへのあまりに素朴な肯定的評価である。堂々とこれを主張するさまに、私は絶句する。

佐藤秀雄『学校ことはじめ事典』(小学館、1987年)にあるように、学校掃除の起こりは、掃除スタッフを手配できなかった明治の学校財政事情によるものであり、これを児童・生徒にやらせることで「教育的」というこじつけを後でしたものに過ぎない。

だから、学校での掃除は、児童・生徒に無償労働を強制するものであり、受けとめによれば、ハラスメントになりかねないほどである。学校や教育委員会は、文字通りタダで働いてくれる児童・生徒に感謝こそすれ、これに臨まないから指導の対象とするなど、もってのほかと心得るべきなのだ。

なのに、精神を集中させて掃除をさせることが望ましいという、父権主義(おせっかい)と精神主義(根拠のない根性論)が今なお横行している。最近出会ったある小学校教員に至っては、「(無言清掃に対して子どもの)抵抗があるかもしれませんが、粘り強くさせましょう。必要があれば、私も指導の応援に行きます」という書きぶりである。

「子どものために」自分はいいことをしていると思い込みが、かくも暴力的な行為を美しい実践と描かせてしまう、人間の信念の強固さに、愕然とさせられる。まさに学校残酷物語である。

# by walk41 | 2019-06-21 20:28 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

教員の事務業務 Büroarbeit des Lehrers

朝日新聞 2019.6.20 学校現場、先生手いっぱい、の記事中、中学校教員の1週間の仕事の内訳があり、事務業務も48カ国・地域で日本が最長と挙げられている。

そうなのかもしれない。例えば、日本の学校にあって、ドイツの学校に無いように思われる文書を挙げると、

○学校要覧
○学級だより、学年だより
○研究発表に関わる案内、集約、事後の収録・報告
○(小学校で顕著な)通学区地域に関わる書類
○保健室だよりほか、健康診断、歯科検診などに関わる書類
○給食に関わる書類
○部活動に関わる書類

他にもきっとあると思うけれど、まずはここまで。

こう見ると、事務業務を誰に担ってもらうかという問題以前に、それらは学校の活動として受け止めるべきことなのかという疑問が生まれる。

# by walk41 | 2019-06-20 14:25 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

関心事の違い Unterschied um Interesse

教員研修に出かけ、終了後、担当のスタッフと話をする。

ドイツを訪れたことがあるという話から、「ボーデン湖に行ったことがあります」と伺ったので、近くにある学校博物館や歴史的建物かと思いきや、「湖の葦の群落の生態調査で」と。理科の先生であった。

ドイツ、オーストリア、スイスの国境に接する大きな湖は、観光の名所だが、着眼によって、そんなことへの注目ゆえにここを訪れる人もいるのだなあと、驚かされたことだ。そういえば、アフリカと言ってもよいスペイン領カナリア諸島に、無数に降り注ぐ流星の観測のために訪れた人のレポートを見たことがある。そうした関心も観察能力もほとんどない身としては、打ち寄せる波の音を聞きながら、「薄く切ったオレンジをアイスティーに浮かべて」と口ずさみながらその実、ワインを飲むくらいの楽しみしか知らないのだが。

現実はかくも豊かなのだけれど、少なくとも自分は、そのごく僅かなことにしか目を向けられていないと、改めて思わされた。



# by walk41 | 2019-06-18 22:02 | 研究のこと | Comments(0)

ことばと性

英語には見られない、性がことばに色濃く投影されていることはドイツ語で初めて知ったが、それは名詞に、男性、女性、さらに中性のいずれかが当てはまること、また、名詞を形容する冠詞や言葉(形容詞)がその性に引っ張られることについてであった。

たとえば、食事は、das Essen と中性名詞なので、美味しい食事は、leckeres Essen、 同じ「美味しい」でも、der Käse(チーズ)は男性名詞なので、leckerer Käse となるように、語尾が異なる。

けれど、スペイン語の場合、名詞の種類は男性と女性と2種類のみ、また、おおよその名詞は語尾でいずれの性かがわかるから、その点ずいぶんと楽ちんだが、驚かされるのは、形容詞の表現が語り手や差し手(自身や相手)の性によって異なるという点である。

つまり、たとえば、「私は疲れている」は、ドイツ語ならば、Ich bin müde と話し手が誰であっても同じだが、スペイン語では、話し手が男性ならば、Estoy cansado, 女性ならば、Estoy cansada と語尾が異なる。「疲れていますか」と尋ねるときも、相手がいずれの性かを踏まえて言わなければいけないとされる。こんなルールがあるんだね。

もうご想像がつくように、相手がいずれか、あるいは第三の性かわからない状態のとき、もちろん、自身を男性か女性かで決めたくない場合は、どう表現すればいいのだろうか、ということ。きっと、スペイン語圏で議論がなされているだろうけれど。

言葉のルールを知る(文法を知る)とは必要でもあるが、その背景に流れる暴力的な側面にも自覚的でありたいと思う。

Meine Ueberraschung beim Lernen Spanisch ist dass es den Unterschied sogar beim Ausdruck um sich im Geschlecht gibt. D.h. wenn ich ein Man "ich bin muede" in Spanisch aeussern moechte, soll ich "Estoy cansado" sagen, underschied beim Fall der Frau "Estoy cansada". Wie Sie sich sicher das vorstellen werden, ist es total problematisch, wenn man weder Man noch Frau ueber sich kennt/meint, oder man kennt jemanden nicht, ob er maennlich, weiblich oder "Queer" merken kann. Damit verstehe ich das Sprachen Lernen hat auch gewaeltige Seite.

# by walk41 | 2019-06-17 10:19 | ことばのこと | Comments(0)

幸福になるための教育 Bildung für das zukünftige Glück?

学校教育の目的や教員のキャリアに関する議論にて、幸福という言葉を用いる人がいる。生きるのなら幸せに、という主張に対して何ら異論はないけれど、これだけでは、公教育の設計としてはまったく不十分で、うがってみれば、価値を提示できないゆえに、いわば最大公約数としてしか表現できないのだろうとも思う。これを言っちゃあお終いよ、である。

高校教員だった諏訪哲二が、かつて「幸せの先取り」と言い放ったように、教育は、公教育も同様に、次世代に対する「お節介」を避けられないところがある。前の世代による後の世代に対する干渉、広義の攻撃や暴力は、社会的な必要悪とも言うべきものだが、そこで心すべきは、前の世代や教員という立場で傲慢なことに「お節介」を働いているのだという自覚とその反省を繰り返しているかだろう。

なぜなら、「先生」が先に生まれた人とも揶揄されるように、後の世代に対する優位さの多く、あるいはすべては、先にいたという点に求められる。先にいたから知っている、できる、「上から目線」を持てるのであって、いわばホームグランドにいる自分がアウエーの対戦相手を待つがごとくである。

けれども、社会の変化が著しく、先に生まれたことが優位にならないだけでなく、経験を通じた学習が革新を阻害する点で不利になりかねないならば、「先生」はむしろ否定的な意味を持つ。「暴走老人」のように、かつての社会的承認を失って狼狽しないように、準備する必要がある。

歴史を学ぶのは、未来に向けた批判的な鏡として活かすためであり、同じことを辿るためではない。先に生まれた人の代表格である「先生」が肝に銘じるべき点だと私は思う。

# by walk41 | 2019-06-14 13:17 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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