授業の最後に学生レポートを課していることは、前のブログの通り。
レポート提出、そして再レポート提出に至るも、「こりゃ、あかん」という学生を呼び出す。①改行が論旨の展開に即していない、②接続詞の用い方が不適切、③内容の推敲を欠いている、と説明するが、当人は頑張って書いたと納得できないらしい。散々に泣いてしまい、やむなく専攻領域の先生を訪ね、レポート指導をお願いできないかと頼み込む。
100分の1ほどの割合になるが、この学生とはいわゆる相性が良くないのかもしれない(この学生が私と…、と言うべきか)ので、それはそれで構わないのだけれど(と言いつつ、再々レポートを提出するよう求めることに。深追いはいかんぜ)、広く教職という仕事のしんどさとは、自分ではいかんともしがたい、使役的な性格ゆえではないかと思うようになった、ということ。
たとえば、例のくんのレポートを授業者である私が書き直すことは簡単だ。でもそれでは、このくんのレポートにならない。授業者には周辺をなぞるようなアドバイスはできても、最後は本人がやるしかない。
まさに隔靴掻痒、自分だけでは完結しない業務が教職の性格を刻印しているのならば、その資質や能力は「他者に何かをさせることのできる力」というあたりか。この辺で立場によって論調が微妙に違ってくるのだけれど、他者がどう動くかは、最終的にはその当人に委ねられざるを得ないと考えるか、それとも、他者であっても、自分が乗り変わるほどの勢いでやらせてみせるという風に考えるのか。
こうして見方の違いが生まれるんやなあって、くたびれた頭で思った昨日でした。