もともとは、"set of draft animals yoked together"(農耕や運搬のために飼っている役畜がつながれて一緒になっているさま)という言葉、"taumaz"に由来し、19世紀の終わり、team player という言葉が野球につかわれ始めたのだそう。
教職員が一緒に頑張ろうというとき、「チーム○○」と掛け声がかかるが、学校はどんな意味でチームなのだろうか。追いかけるボールは一つ? 目指すのはチームの勝利ただ一つ? どうも違うように思う。
学校でのゲームは、それぞれにボールを追いかけるもので、しかも、ゴールも一様ではない。サッカーのような「自殺点」すら望ましいということも起こりうる。
そもそも、ボールが誰の目にも明らかでないことがやっかいだ。ボールは児童生徒のこと?それとも自分たち自身? みんな自分のボールを追いかけているつもりだが、時々見失い、呆然とする。
学校組織の捉え方は、「なべぶた」であろうが「ピラミッド」であろうが、いずれも繋がっている点では共通する。ところが、学校組織は実は必ずしも繋がってはいないのだ。こんな当たり前のことから、議論をやりなおさなければならないのが現在ではないだろうか。