きのう、宝塚音楽学校第100期生の入学式。先輩から祝福された40名の新入生が感無量の様子を見せるニュースが流れた。
山梨県出身の小林一三氏が、当時のローカルな土地の果てに建てた歌劇場、それが現在は、希望者が殺到する人気の音楽学校を擁するに至っている。
ひるがえって、義務教育学校で教育することの難しさは、文字通り、義務として通過しなければならない場なため、学校に対する需要や要望が不明確な点にある。実際、学校に通っても、「やりたい」より先に「やらなければならない」ことがたくさんあり、「やっぱり義務だったんだ」と思わされる。もちろんこれは、高校やひょっとしたら大学においてさえ、あてはまるかもしれない。
国民や市民を形成する学校の役割を放棄しない限りは、この「やらされ感」をぬぐうことはできない。しかしそれでも、「選ばれた」という演出ができるかどうかは、考える余地が大きいだろう。
むろん、住所から基本的に通うべき学校が決められる仕組みといったのもとで、こうした演出は難しい。競争的環境が乏しければ、自負や誇りも持ちにくいからだ。その上で、班長あるいはクラス代表として、○年生として恥ずかしくないように、他校に負けるな、と他者からの眼差しや自己評価を通じて自尊感情を高めることは、これまでも多様になされてきたし、これからも可能ではないだろうか。
学力低下ならぬ意欲低下かもしれないという今の学校問題は、これを支える社会の物語を失っていることにある。「学歴主義」も機能しない一方、「地域の学校」(「コミュニティ・スクール」)についても同様だ。何のための学校なのか、そのもっともらしさ(正当性)が自明ではないから。
こうした中、学校だけで格好をとるのは容易でないが、少なくとも教職員や教育委員会が自分たちなりの言葉を持つことは重要だろう。その「本気度」をどれほど見込めるのか、学校は難しい状況に置かれていると思う。