同じ日にあったこと。
朝の電車で、空いた私の隣の席に、どーんと座った女子高校生ふたり。スカートなのにそんなに脚を広げてどうするの、こっちの脚にあたるほどに。困るんやけど。「飯くって、寝て」という話から、「理科のあいつ、女、キモくない?」「マジ、ウザイな」って教師の悪態をつく。教育関係者としては心穏やかならずだけれど、がまんがまん。何より、ちょっとツッパッテるっていうか、ムリして話してるようにも見えるし。
1回生の授業で「学級崩壊」をテーマにしたドキュメントを一部見せる。授業後の感想、「自分の小学校時代を振り返ってみると、まさにあの状況だったと思います。私自身、小学校の先生は大嫌いでしたし、常に先生の言うことは無視していました」「ああいった場面を見ると、今までの先生方に申し訳ないです。誤りたいなとか思います。先生は先生なりに、一生懸命だったんだろうなとか、いろいろと考えてしまいます」「私自身も小・中・高校のときは、先生に反抗したり、授業中さわいだりしていた子なので…」
学校教育を考えるとき、その出発点は、「子どもたちの様子」だ。しかし、その様子や現状に対して、いま何が出来るのだろうか、反抗期まっさかりの彼らにどんな「指導」が効果を上げるのだろうか、その適時性をどう考えればよいのか、それとも、「ダメ元」でも何かをしなければならないのか。わからない。
「教育実践に賭ける」とは、まったく言えて妙な表現だと思う。賭けるからにはいつも勝つことはない。しかし、賭けなければ勝つこともかなわない。こうした試みが公教育の特性というのなら、いつ、どのようにすればよいのかは不明なもの、という前提で、「より良い実践」をどう考えるかが議論されるべきだ。
それにしても、教育的働きかけそのものに加えて、その効果って本当に曖昧なもんやなあ。