「若者よ、尾崎豊を知っているか」と全国紙に投書。
「…また私たち現代の中年世代には学校や社会の不条理に立ち向かった尾崎の叫びが、それぞれ心に響いていた。今の若者には、そのように心が揺さぶられる音楽があるのだろうか」とある。
う~ん。「メッセージ性」のある音楽に影響を受けた自分たちの世代を無前提に肯定し、「草食」とも揶揄される「若者」にはそれが欠けているのでは、という趣旨と読んだ。
つまり、尾崎豊の話ではない。そうではなく、投稿主が「メッセージ性」を持つ音楽であるかどうかを「神の視点」から論じがちなこと、また、仮に「メッセージ性」が乏しい場合、そのことをどう見るかという分析的視点を欠くことが問題では、と感じるのだ。
たとえば、「私的には…」という言い方について、「日本語が乱れている」と評する人もいるが、「控えめでおしとやか」と聴く人もいる。「メッセージ性」のあるなしを捉えるのは容易でない。
また、「メッセージ性」が乏しいということは、誰かに依らなくても自分のメッセージを発しているからなのか、あるいはメッセージを発しなくてもすでに内面に有しているのか、と分析もいろいろ可能だ。
投書がこうした作業をカットしがち、あるいはカットしているからこそ、「思い切った」メッセージを発することができるのだろうが、40代半ばでもう「若者よ」と書ける「大人」ぶりに感心もする。
こっちはもう「天命を知る」(論語)べき世代に達しているのに、まだまだ未熟で、世の中わからないことばかり。でも、楽しく生きるには大切と思うんだな。