どこかで似たようなことを書いているかもしれないので、ご容赦のほどを。
酒井朗さんが一つ整理してくれているが、アメリカの教員が遣う、teach, instruct はこのあとに「何を」という目的語を伴うのに対して、日本の教員の指導という言葉は、目的語を伴わずに用いれがちだ。だから、何でも指導の対象になり、「指導する」という言葉すらある。
ここから、教員の仕事が無限定な日本と解釈ができるし、この他にも、学校教育法37条「教諭は児童の教育をつかさどる」くらいしか、教員の職務規程がないこと、これはドイツの教員と比べても一つの傾向と言える(榊原禎宏「学校経営における教諭の権限・責任の位置-ドイツの事例から-」『山梨大学教育人間科学部紀要』8/263-270,2007.3)。この傾向は、「教育は人格の完成をめざし…」(教育基本法1条)から規定されているとも言えるだろう。
こうした教育観は、教員の職務範囲を描かないだけでなく、学校生活(ときに学校外生活も)全般に教員の目を児童・生徒に届かせ、彼らの一挙手一投足を指導の対象にという可能性を高める。
このことの良さと拙さ、両面があるのだろうけれど、相手から必ずしも求められていないのに(ニーズがないのに)、「子どものため」と指導に勤しむ危険性は繰り返し確かめられるべきだろう。これは、教科指導と生徒指導の言葉の成り立ちの違いからも明らかだ。
つまり、教科指導の場合は、「教科を」「生徒に」指導するのだが、生徒指導の場合は「生徒を」指導する。前者は目的語が明らかだが、後者は生徒を生徒に指導?? と変な言葉になっているのだ。 目的語を伴うほかの言葉を考えれば、たとえば、「エベレスト登頂」はわかるが、「生徒登頂」はおかしいのと同じこと。
この場合、「生徒登頂」は、生徒が、という意味にならざるを得ない。そうか、じゃあ、「生徒指導」とは生徒が、何かを指導するって意味?