読売新聞HPにある「発言小町」。レストランにて鞄を自分の横に置いていたが、席から離れて戻ってきたら、鞄に布がかけられていた。これは、私の鞄がみっともないから隠したということでしょうかと、投書があった。
コメントをくれた人はことごとく、料理のソースなどで鞄が汚れないようにするため、あるいは、忘れ物ではない旨を示す目印として、さらには、盗難に遭わないように隠してくれているのではと説明し、投稿主との捉え方の違いが大きくて、おもしろいなと思ったのだ。
理解できない状況に遭遇したとき、これまでの経験で作られた認識枠にもとづき、私たちは判断するが、その際、肯定的に事態を捉えるか、それとも否定的に見るかで、受け止め方にずいぶんと違いが生じる。
そして、事実がどうであるかを客観的に捉えることよりも、主観的な判断がどうであるかが、自身の気分や感情に影響を及ぼす点で意味を持つとすれば、人間やその社会を見る私たちの目(と脳)に求められるのは、正しいかどうかよりも、満足できるかどうかを軸に持つことではないか、とすら思われてくる。
「不正」や「非道」を見過ごしてはならない、これは正論である。と同時に、なぜそれが問題なのか、また改められるべきと考えるかについても考察のできる、思考のしなやかさが求められるのだろうな、と改めて感じた次第。