なかなか悩ましい。学校と地域との連携や協同、ってどれほど真面目に考えてゆうてるのん?
地域とは地面の域だから、地つづき、空間上の続きのこと。第一次産業が中心だった社会では、田畑、山林、港など、動かすことができないところで仕事をするから、人間関係もその地域が中心になる。
ところが、第二次産業が主力になると、家の近所では建設が難しい工場や倉庫での仕事となり、通勤という言葉が誕生する。巨大化した生産工程を管理する事務も、爆発的に増大する。通勤客を運ぶ、電車やバス、さらには航空機と交通網が発達し、その仕事に就く人も増える。
そして現在、第三次産業に就く人が過半数になった社会では、地域から離れていることがむしろ一般的、ご近所のことは知らないけれど、職場やさらにはインターネットでの人間関係が大切になる。「一人カラオケ」や「一人焼き肉」までも登場する。むべなるかな。
子どもたちのこれからも、産業構造に大きく影響されるから、それに備えるべき学校では、地域だけでは生活しないつもりで、「標準語」、外国語、コンピュータ、を扱い、あまねく言語化、記号化、普遍化することを求める。
つまり、「あれ、取って」とか「こないだの話だけれど」と限定コードではなく、初めて会った人にも伝わる精密コード(Basil Bernstein)が操れるように求められるのだ。これを教えるのは、「地の人」ではなく、数年のうちに人事異動で去ってしまう「風の人」、教員がふさわしい。
そして、学校では「わかりやすく説明しなさい」「はっきりと表現しなさい」「誰が読んでも理解できるように書きなさい」と、話し言葉よりも書き言葉が重視される。そのための紙媒体での活動、テスト、記録が大切にされる。ちなみに、教育評価、教員評価、学校評価についても同様。書かれたものこそ、客観的で一定時間保持される情報と見なされる(一種の信仰)ゆえの形式だ。
さて、学校と地域との相性はいかに。「地域とともに歩む学校」などと、牧歌的なことを話している場合ではないと思うのだけれど。