ロンドンでのオリンピアード、選手が他の選手をTwitter などで中傷することが複数、起きている。
ギリシャの陸上女子三段跳びに出場予定だった選手(23)が、アフリカ出身の移民を侮辱する差別発言をしたとして出場資格を取り上げ、選手団から追放(7月26日報道)、スイスのサッカー男子代表(23)が、ツイッターで差別的発言をしたとして、出場資格を剥奪し、選手団から追放(7月31日報道)されたという。
超人的な動きで人々を魅了する選手たちの中に、こうした言動が生まれることはまったく残念だが、同時にこうも思う。だから、「健全な肉体に、健全な精神が宿れかし」という願いは、古来から続いているのだなと。
2000年近く昔、ローマの詩人、 ユベナリスは『風刺詩集』第10編にて、「幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄(富・地位・才能・栄光・長寿・美貌)を一つ一つ挙げ、いずれも身の破滅に繋がるので願い事はするべきではないと戒め」、「ユウェナリスはこの詩の中で、もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) と語っており、これが大本の出典」(Wikipediaから拝借)なのだそう。
身体と精神の関係を一つ示すおもしろい命題、この他にも、「頭が良くても、人格がダメではね」とか「身体を鍛えなければ、根性は育たない」など、いろいろな語りがある。
学校の議論では、往々にして「学力」と束ねられるものを、少し小分けにして考えてみるのも一興だ。子どもを語るとき、また教職員のあり方を述べるとき、どれほど私たちが、何となくのイメージにもとづいて、あまりにナイーブに人間の能力や態度を想定しているか、そして、「本当の人間」というものをつかまえることに、まず成功していないことに気づくことができるから、である。