三陸海岸に7万本あったとされる松林、東日本大震災の際の津波に襲われ、1本だけ残った。これが「奇跡の一本松」と呼ばれているが、この松も枯れていることが判明、きょう切り倒されるという。
とても興味深く思うのは、幹の防腐処理などを施し、2013年2月にはこの場所に再生される計画になっているということだ。まさに震災の記憶と復興へのシンボルとして育っていってくれることだろう。
こうした当事者でなければ知り得ないことに、大きな意味が与えられ、人々に生きる気力をもたらすとすれば、当時者性つまり主観性を離れたデータは、どんな点で意義があり、あるいは意義を持ち得ないのか、を確かめる必要があると思う。
学校教育は、マス(mass)で見れば国民や市民の資質や能力形成にいかに寄与しているかと問うことができる一方、ミニ(mini)あるいはパーソナルには、経験と受容そして変容が実にさまざまであり、ほとんど測定不能である。今の自分はどのようにして形成されたのか、誰一人として正確に答えることはできないだろう。
したがって、マスとしてどれほどの学校がどれだけの教職員でいかほどの業務を行ったのか、その概要はおおよそどれほどかを測ることはできても、個々の職員たとえば教員が児童生徒といかに関わり、それがどんな結果や効果をもたらしたのかを測定するのはほとんど無理な話である。
どんなクラスだったのか、何が楽しく辛かったのか、それらはいずれも個々の納得や得心という意味づけに委ねられざるを得ないから、当人を離れて他者が測ることはできないのだ。
教育評価に限らず、教職員評価、学校評価がうまくできないのは、マスとミニ、マクロとマイクロといったデータの性質の違い、つまりデータの意義の違いを踏まえず、フォーマットが先行しているためだろう。そもそも誰が測ることができるのか、まで立ち戻った議論から、できそうなこと、難しそうなことを区分けする必要を強く感じる。
学校管理職はじめ教職員のやらされ感、徒労感でいっぱいの、現在のようなスタイルの評価活動が、早くなくなりますように。