NHK, 総合診療医、ドクターG、「だるくてぐったり」を取り上げる。
カンファレンスを経た最終診断は、副腎不全。今回の患者は、ぜんそくの関係で日常的に外からステロイドホルモンを取り入れた結果、副腎が萎縮してステロイドホルモンを作り出さなくなったことが原因と判じられた。
ここでは、環境に適応して自身の機能が変わってしまうことが「学習」と位置づけられる。つまり、学習とは環境への順応であり、異なる環境で違う反応をしたことが、生体そのものを危険に晒すことになったのだ。
かたや、学校教育の議論は、すぐに「良いこと」「悪いこと」と価値化されがちで、よく見つめ、分析するという姿勢に欠けやすい。このためだろうか、学習するとか学ぶということが疑われないままに、即、良いことと扱われて、いかに学ぶかと方法論に終始しがちだ。
でも、学習するあるいは学ぶということの良い/悪いは立場により一様ではない。これを環境適応と捉えれば保守化になるが、それを望ましいと思う人もいればそう思わない人もいる。「子どもが自分で気づく」とか「錬りあいを通じて高める」とか謳いあげても、大人が用意した路線に乗っているだけとみれば、学ぶとは何と悲しいことだろうか。
「いやいや、これまでの環境適応に留まらない学びもあるんですよ」という人がいれば、是非たずねてみたい。自分の手中に収まらないような「学び」がどうしてそれとあなたにわかるのか。それとわからないからこそ、革新的であり、新しい学びではないのか。
つまり、大人や教員側から見て、「学んでいる」なんていう事態は、お釈迦様の掌のごとく、自分の視野に収まっているような、目新しくなく、よって怖く恐るるに足るものでも決してない。
そんなママゴトのようなことについてお喋りに興じても構わないけれど、それが学説だとか、静かな革命だとか、およそ似つかわしくないような言葉遊びは即、止めよう。これまで革命を結果的に成し遂げてきた人たちに対する、冒涜にもなるのだから。