高校籍出身の指導主事と話をして、やっぱりなあと思わされた。
彼が言うに、高校では授業研究という言葉は遣わないというのだ。自分がやった授業を報告したり、同僚の経験を聞いたりということはあるけれど、授業を研究するという表現はしたことないですねえ、と。
それもそうだろう。なぜって、
①授業に関わる教員と児童生徒のいずれも、性別、年齢、経験、「個性」とさまざまで、子どもについては人数も色々だから、「授業とはこれだ」と条件を整えることができない。
②教科と単元などは決まっていても、その理解、解釈、表現を教員間で一律にすることは事実上不可能なので、いわゆる教育実践という入力のあり方を制御できない。
③入力を受け止める側になる児童生徒も、「能力」から気分感情に至るまで、誰一人同じではなく、同一の子どもですら日や時間によって揺れ動くから、過程そして出力についても制御できない。
④教育内容は、授業時間内で習得されることもあるが、ほとんどはその後の長い時間の中で習得、変容するから、授業の結果を完了として捉えることができず、またその追跡もできない。
つまるところ、ある意図や計画を携えて教師は授業に臨むものの、それがどのように発現し、子どもとの関わりを通じて変わり、結局どのように伝えられたり、獲得されたりしたかはわからない、これが授業である。こうしたものが究められるべき研究の対象に馴染むはずもない。
だから、授業についての議論は究めるためではなく、経験を交換することで視野を広げ、新しい試みへと促すことを目指すのが合理的だろう。そのためには、まず授業研究という言葉を止めること、そしてこれまでやったことのない授業をいかに構想、具体化できるかを思考実験する思考体力を高めることである。
これまで何度も述べているが、研究主任に誰もなりたくないような校内研究という名前の授業研究がいかにいい加減なものか、教員たちは直観としてすでに分かっているのだから。あとは実際に変えていくことである。