作家、平野啓一郎「分人として生きる」(2013.1.23 日本経済新聞)を読む。
自分を割り切れない(individual)個人としてではなく、いろいろな面を持つ分人として捉えること、「本当の自分」は幻想だと語る。
これはpersonality の類語でもあるペルソナ(人格、仮面、person)という言葉でも述べられてきた。一人の人間ではあるけれど、いくつもの仮面を使い分けて、社会と関わっているという説明の仕方だ。
唯一無二の自分は存在しないから、自分探しは止めなさい、というメッセージを我田引水しよう。自分のアイデンティティを保つことに四苦八苦するのは止めよう、今この瞬間の自分は、大勢の人たちのどこかに宿っている一部であり、自分らしくもあるけれど、そうでないとも言える曖昧糢糊なものだ。接する相手により、その時の状況により相当に幅のあるものだし、また自身が年齢、風貌、役割を変えていくから、決して一様ではない。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」(方丈記)、「自分自身がそもそも自分のものではない」(ブッダ)、「色即是空」(般若心経)と、このことを見抜いていた先人もいる。
「自己肯定感」や「個に応じた指導」あるいは「特色ある学校づくり」など、それぞれに主体があるかのように考えるスタイルにブレーキをかけてみよう。
そういえばこんな小話があったなあ。ひとの物を盗む手癖の悪い奴が弁解する。「こらっ、そんなことは止めろって、この右手にいつも言ってるんですけどね」。