NHKスペシャル「魂の旋律-音を失った音楽家」を観た。交響曲第一番“HIROSHIMA"、被災地では「希望のシンフォニー」とも呼ばれる作品を作った、佐村河内守さんの話だ。音楽大学に進まず独学で習得した彼が、耳鳴りや偏頭痛に苦しみながら、曲がいかに生み出されるかを追う。
この作品を、相当のいのちを削りながら作ったとも評する音楽学者が言う。こうして言葉に表現すると薄っぺらくなってしまう、と。
言葉は確かにわかりあうために大切ではあるけれど、改めて思わされる。言葉にすると伝わらなくもなる、ということを。
学校でも教育委員会でも、報告、連絡、相談と、毎日のように言葉が飛び交う。でも、扱っている学校教育なるものは、児童・生徒が「何となく」わかったり、「うまく言えないけれど」いいな嫌だなと思う時間の連続だから、「理解した」という言葉そのものが実はよくわからないままに用いられているのだ。だから学校教育では「わかったつもり」の言説に溢れることになりがちだ。
それでもなおかつ、言葉であるいはそれを精緻化した数字で表現することでできることは何なのか。言葉にはどんな可能性があるのかについて、考えてみたいと思わされた。