先日の授業で、「学校的モード」について少し議論があった。学校がともすれば前提にする、「きまりを守る」「右側を歩く」といったような常識が、学校に独自なものであるにも関わらず、無邪気に拡大されて一般的なものとして語られてはいないか、と問うたのだ。
授業のちのフィードバックで、おもしろいことを書いている学生がいた。その趣旨、「ほかにも、始業の挨拶など、大きな声でみんなで揃えて言うことが望ましいとされ、声が小さければ、『もう一度』、などとやり直しをさせられたりしました。しかし、小学校の低学年の子どもがするような挨拶が、社会に出たときにどうなるかと考えれば、不思議なことに気づきます。受け入れられるというよりも、むしろ、ふざけているとも取られかねません。にもかかわらず、学校では大きな声でみんなで揃えて『お願いします』『終わります』などと言わねばなりません。挨拶で大きな声が出せれば、授業のやる気が起こるという因果関係があるとも思えません」
いかが思われるだろうか。「あいさつは、社会に出る準備」と無邪気に信じている人たちへの批判になっているのではないだろうか。
語気を強めれば、教員個人のこだわりに過ぎないことを、やらせやすいからと子どもに執拗に求めるなど病的である。自分が気持ちいいから「丁寧なノートを」とか「整然と手が挙がるクラス」を強調するなど、不寛容で神経質な自分であることを子どもに示すだけだろう。まあ、反面教師を演じているのならば、それも一興だけれど、子どもにはやっかい、迷惑な話である。