学生のコメントあるいはミニ・レポートを読んでいると、おもしろい記述によく出合う。それは、4~5年遡れば彼らが中学生であり、さらに数年戻れば小学生だったことから、子どもの頃の記憶が十分に鮮明で、まだその立場からのものの見方ができるからだろう。
この学生のコメントも興味深い。感情労働に関わる議論のあとで書かれたものだが、その趣旨は次のとおり。「いい子は、先生や親がしてほしいことを返してくれる子どもであることが多い。明るい、素直、元気、積極的など、それが実は大人がその子に感情の制限を加えた結果だとすれば、いい子への見方も変わるだろう。…たとえば感想文で思った通りのことを書いていいとされても、教師や親が書いてほしい常套句は、楽しかった、すごいと思った、感動した、自分もやってみようと思ったなど、であり、誰がそう言った訳でもないが、暗黙の了解のようなものがあるように思う。感想文なのに、自由に書くことが許されていないのは、子ども達の感情をコントロールしている一例ではないだろうか。」
いかがだろう。「~の働きかけをすれば、~な子どもになるだろう」なんて、脳天気なおしゃべりを教員がしている他方で、教員のつもりのわかる、健気な子どもたちは、すっかり先回りをして、教員たちを喜ばせるように振る舞っている。この方が、自分の利益にもなることを知っているのかもしれない。
かくも、教育-学習関係は、因果関係が不明確で、自己言及的(この場合、子どもの振るまいが教員の機嫌を良くし、教員の振る舞いを変えてしまうということ。そうしたラポールがすでに成り立っていることは、教員の努力や人柄のなせるものかもしれないが、それは授業以前の問題である。つまり、授業だけを取り出して議論しても、仕方がないのだ)であることが確かめられるだろう。教室はこんな必ずしもアテのないものに大きく左右される。そこでは、何となくの空気や「暗黙の了解」が支配的なようである。