研究とは、森羅万象の世界を小さく細かく分けて、独立性の高い変数を見出したり、さらに複数の変数の関係を明らかにしようとすることである。その作業に分析という言葉が当てられる。
このため、研究に際しては、対象が分析できることが前提になる。切り分けることのできないものは、そのまま受け止めるしかなく、見たままの認識を超えるものにはならない。
捕まえ、触り、反応を見ることができる、あるいは解剖して内部を覗くことができる、こうした対象が研究に馴染む。ここで問題。教育ー学習という出来事や行為をいかに切り分けることができるだろうか。教員や児童生徒の内面で起こっていることは見られない。外から見えることですら次の瞬間に姿を変える。さらには、ある様子を特定できたとしても、それと他の何かとの関係を見出すことも容易ではない。
つまるところ、教室や体育館で日々起こっていることを捕まえ、分類し、関係づけるという方向に展望は見出せない。学校教育の分野でできる研究は、学校で起こることに対してなされるお喋りを集め、どのように人々が学校教育を見つめ、捉えているかを捕まえることで、分析の俎上に載せることである。同じ言葉で意味が変わってきたり、新しい言葉がいかに生まれてくるかを追いかけることで、教育と学習についての解釈を批判、革新し、もって、学校教育に関わる人々がルーチンに陥らないように刺激を与えることである。学校教育については、こうしたメタ的な観点からこそ、分析という研究に不可欠な道具を用いることができる。