同じ長さの棒なのに、両はしに付ける矢印が外側に向けたものと、内側に向けたものを並べると同じ長さには見えない。こんな視覚の勘違い、錯視が生じることはよく知られているけれど、これが学校や児童生徒を見つめる眼差しについても当てはまることは、ほとんど考慮されていないように思う。
学生がボランティアとして関わったある小学校は、とても真面目な子どもが多く、傍目には何の問題もないとも思われるのに、教職員は「もっとちゃんと」と、挨拶やら靴揃えやらに躍起になり、わずかな遅れでも遅刻、服装の乱れと「指導」に懸命ならしい。あ〜あ。
「事実は社会的に作り出される」という話をするときに、専有離脱物横領罪(自転車泥棒など)の発生件数の経年比較を取り上げる。学生運動を始め世の中が「熱い」時代、自転車が取られることに関心を向けることは少なく、また警察も対応に手をかけられなかっただろう。自転車泥棒がいたとしても、それが注目されなければ事実がなかったと見なされる、という話である。
みんなが「いい子」になれば、それまでは問題にならなかった子が指導の対象になる。その反対が起これば、多少の問題も注目されなくなる。「それどころではない」からだ。これを「それどころである」と言い換えれば、微細なことでも問題になる。つまり、問題とはかくも相対的である。
こんな認識上の歪みを踏まえるならば、「問題行動」あるいは「学んでいる姿」なるものが、いかにいい加減なラベリングかもわかるだろう。他との比較から生まれる(しかも、その際の軸はすぐれて恣意的である)認識の癖を知ってか知らずか、「わかったような物言い」に注意しすぎることはないと思う。