マイナビウーマン、
http://news.livedoor.com/article/detail/8397201/ の記事を読んでいたら、次の一文があった。「夜の間に溜まったホコリを一門打尽にすることが出来ます」。
思わず辞書を引き直したけれど、一門打尽はないようだ。一網打尽ですね。この手の誤用そして、やがて正当化されるかもしれない言葉の変化については、枚挙に暇がない。その一方、学生たちと話していると、そもそも誤用以前の段階、つまり、その言葉を聞いたことがないという話になる。たとえば、青田買い/青田刈り、の話が出たとき、大学2回生の多い授業だったが、いずれも聞いたことがないという学生がいた。どっちが正しいか、という話に至らないのだ。同じように、的を射る/的を得る、独擅場/独壇場、なども縁遠くなりつつあるのだろう。世代が確実に替わっている様子を興味深く思う。
こうした死語に類する言葉に対して、新しく生まれる新語もある。最近、「リア充」なる言葉を知った。現実生活が充実しているさまを指すという。それほどに仮想の世界が占める割合が高まっている証でもあるのだろう。この「カタカナと漢字・ひらがな」の組み合わせは、目を引きやすく訴えやすいのだろうか。見渡すと沢山あるように思う。
古くは、アル中⇒アルコール中毒(アルコール依存症)、合コン⇒合同コンパ、追いコン⇒追い出しコンパなど。ずいぶんと昔、「学生の頃、お金がないことをゲルピン(ドイツ語の金Geldとスッカラピンとの組み合わせで)と言ってたんだ」と、年長の教授から聞いたこともあった。そういえば明治期の、あんパン、ガス灯、辺りが発祥なのかしらん。最近では、クリぼっち⇒クリスマスを一人で過ごすこと、という言葉もあるとか。ひやー、エコノミーというかここまで変えるとは、たくましい。そう言えば、「省エネ」もこのパターンの言葉だね。
漢字、ひらがな、カタカナ、そしてアルファベットと、少なくとも4種類の組み合わせを楽しめる日本語は、どんどんと替わっていくことだろう。変化するという性質を保っていること、それが「正しい日本語」の条件である。