教務主任への研修会で、「教職員もそうでしょうが、生徒もあれこれを抱えて学校にやってくるのですから、子どもの『みとり』と言っても、相当に限りがあるでしょう」と事例を挙げて話をした。このあと、グループごとの意見交換で、次のような話をしてくれた小学校の女性教員がいた。
「2年生の男の子のお祖父さんが亡くなった翌日、全校で運動会の準備で行進の練習をしていた。家の人から、『お祖父さんは雲の上にいるよ』と教えられていた彼は、しきりに上を見て、雲を探していた。その話をすでに男児から聞いていた自分は、お祖父さんを見つけようとしてるんだろうなと思っていたのだが、運動会を担当していた男性教諭が、そんな子どもの様子を見て、『こら、何をぼーとしてるんだ』と、みんなの前でその子を叱ったことがあった。そんなことを今の(榊原の)話を聞いて思い出した」。
似たような話は枚挙に暇がないだろうけれど、「みとり」などどれほどできるという前提で、この言葉を遣っているのだろうか。あるいは、その精度を上げるためにどんな能力や工夫が必要だと考えているのだろうか。さらには、精度がたとえ高まろうとも、見誤りを冒す可能性が残されることをどう考えるのだろう。
これらの上で、「にもかかわらず」みとりに臨むのは、相当にリスクの高いことであると踏まえて/開き直っている必要がある。教育の質保証や「確かな学力」など、絵空事であると笑い飛ばすほどの力強さが要る。はたして、今の教員はその大胆さや勇気をどれほど持ち得ているだろうか。