作曲家、佐村河内守氏の一連の楽曲が、ゴーストライターによるものであることが明らかとなり、衝撃が走っている。しかも、特別な背景を持った同氏がゆえ、いっそう高く評価された面も否めず、くわえて一作のみならず二十年近くと、長きにわたって別人が作曲していたことが驚きに拍車をかけている。
研究者が、他人の文章やデータを盗み取ったものを、自分で書いた、見つけたかのようにする剽窃(plasiarism)については、すでに縷々記しているが、その問題は、知的財産権ほか法的問題や道義的問題にとどまらず、自分がこのスタイルに依存し、逃れられなくなるという点にある。
一回だけと思ったことが、似たような状況に追われると、もう一回だけと繰り返してしまう。いわばズルズルと続けてしまうのだろう。ゴーストライターに限らず、自分ではない別ものに寄って/拠ってしまうことにより、自分を次第に失っていく。
このことは、剽窃や成りすましに限らない。「中教審答申によれば…」「教育長の言葉にもあるように…」と別ものに依存する癖をつけていると、自分はどう考えるのか、どう語ってきたのかがわからなくなる。実はこっそりと「ゴースト」に寄りかかりながら、まるで自分の言葉かのように演出(粉飾)する。
こうして自身が「ゴースト」になっていく。「研究者」と呼ばれる人たちの中にも、こうした人はいないだろうか。すでに「ゴースト」となった人たちが。