日経ビジネス、昭和な会社が強い、が面白かった。報告・連絡・相談、「ほうれんそう」を強調すると、自分で判断しない部下が育つのみならず、報告したことでよしとする無責任も蔓延する背景になると読んだ。
これを学校教育に当てはめると、こんな感じだろうか。学校教育の重大な事実は教室や体育館といった最前線で起こるために、その状況認識と判断は授業者や学級担任など各々に委ねられざるを得ず、その後、他者に報告されても現実味がなかなか伴わない。この結果、学校評価の自己評価でも「学校教育目標を意識して取り組んでいる」といった「そんなこと、聞いてもしゃあないやん」と思う項目が並びがちだ。これらをあれこれ集めて、学校の説明責任を果たすって言われても…、である。
ところが、「見える化」なかでも数値化ほか客観化が声高に唱えられると(主観的な「見える化」もあるのにね)、文字や数値で表現しにくい事実認識を報告させることになるから、アリバイ的、「まあそういうことにしとこか」となりがちである。そして、ほとんどの学校は結果を公表していると文科省のHPに載り事なきを得るが、学校がどう変わったかはよくわからないままである。
だから発想を変えよう。予め用意されたフォーマットに即して報告させるのではなく、主観的でも構わないから、言いたいこと、報告したいことを求めるようにするのだ。そうすれば、何を言うのか自分で考えねばならず、報告した結果をもとに同僚などと議論もできる。元気に働くことを促すような仕掛けを考えて、試してみよう。そうでなければ、山のように紙を無駄遣いし、しかもどう変わったと言えないという状態が続くことになる。ああもったない。