大型連休とニュースは伝えるが、こちらはあまり影響なし(普段が、「連休」状態かも(^^;)。5月にうかがう高校で生徒たちに話をする授業資料を作っている。
その中で改めて思わされたのだが、教職って本当に曖昧なもので、これに我慢できないようでは、長くは勤められないのだろうな、ということ。だって、順接することも逆接することも、無関係なこともあって、「~すれば、~になる」と言えないことがほとんどの世界を生きなければならないから。
「褒めれば子どもは喜ぶ」?⇒子どもとの関係によるね。
「叱れば子どもは反省する」?⇒そうなるかもしれないけれど、どうかなあ。
褒めると叱るという教育の基本形ともいうべき段階で、私たちは躓いてしまう。「どうすればいいのか、わからない」って。
だから、「より良い」教育を目指すには、曖昧さに耐えられる、さらには楽しめることが大切だろうと、この齢になってようやく言える。「よくわからないから、おもしろい」って。
このことは、対人関係にも、さらには「生きる」ことにも通じるのではないかな。相手の都合、自分の眼差し、予想外の出来事の連続、と悩まされることばかりだけれど、「答え」があるはずなのに見つからない、というのが悩む理由だとすれば、発想を逆転させること、「答え」があるはずという前提を疑ってみるのも、自分を救う一つかもしれない。
ダライ・ラマ14世がどこかで語られていた。「解決の方法が分かっているのならば悩む必要はない。その方法がわからないのならば、また悩む必要がない」という昔の教えが好きだと。この言葉をわかったとは未だ言えないけれど、その方向で日々向かいたいと思う。