「教える」という仕事、というお題で、高校生と90分を一緒に過ごした。教育関係に進みたい生徒たち60名弱を対象に、こうした教育に関わるタイトルの講義を、何人だったか10人を上回る複数の大学の教員が担当するという講座の一部である。
片手少しほどの数の保護者の参加も得て、授業を担ったが、その最中、改めてそうだなあと思わされることがあった。それは、講師(授業者)を見る眼差しの強さ、真剣さが女子生徒に顕著で、男子生徒についてはあまりそうとは言えないかなあと感じたのだ。
眼差しであなたのことを聴いていますよとメッセージを送る、勢い、授業者もその眼差しに惹かれる、するといっそう見てくれるような気がする。こうした好循環が、「熱心な授業者」と「熱心な受講者」の構図を生み出すのではないだろうか。
「人の目を見て話をしなさい」といった類の教えは、それとなく聞いてはいるだろうけれど、実際にそうできるかと問われれば難しい点が少なくない。あまりに見ると失礼ではないか、誤解を与えないかと懸念されるだろうから。
おそらく、しっかりと見つめることができるのは、相手との緊張関係を想定しつつも、自分の意思や意図を表現することにやぶさかではない、つまりは自分に対する基本的な自信のあることが寛容ではないかと。恥ずかしがりに過ぎるのではなく、かといって自己への過大な評価にもとづくのでもない、「いい加減」の自己評価と対人関係を作り出せる力、こうした一つの現れとして、「しっかりと相手を見つめる」ことができるのではないかな。
仮にそれが女子生徒に多く見られるということならば、「弱者」ゆえの女性に刻印された結果と見ることもできる。弱い立場ゆえに、鍛えられ、逞しくなる彼女たちの様子を想像するに、「過去の遺産」で今なおやりすごそうとしている男子の一部に、さもありなんと思わされる。「目力」(めぢから)なのかどうか、相手を自分に向かせる方略について、おしなべて男子生徒(学生もかしらん)には、よく研究してほしいと思う。