大学院生たちと話す。カレーやシチューが給食に出た際、パンをそれらにつけながら食べることを、つけパン、しばらく浸しておくことを、ひたパン、というそうだ。
学級や授業の進め方が、個業的性格の強い学校では、各教員に委ねられがちなこと、この結果、つけパンに批判的な教員から、肯定的な教員まで、子ども、とくに小学校の児童にとっては、少なからず影響を受ける問題だという話に至ったのだ。
これに批判的な教員は、パンから汁がこぼれて汚らしい、と言うらしい。反対に肯定的な教員は、ただこの方が美味しい、と。シチューやスープの最後を、パンで拭い、コックさんに美味しかったと伝えるものとは少し違うようだが、食べ方の好み、あるいは作法は、教員の価値観や規範をより直接的に表象するから、いっそう相対感覚が求められると思う。なぜなら、汚らしいと聞いた児童の中には、そうなんだと自分の規範に加えてしまう場合があるからだ。不自由への第一歩である。
たとえば和食、おかずをご飯の上に置き、ご飯といっしょに食べることをマナー違反という人はいないだろう。しかしこれは、つけパンならぬ「つけご飯」の状態である。茶碗をきれいにすべく、最後をお茶で平らげるのは「ひたご飯」状態と言ってもよい。
こんな風に、ちょっと見方を変えれば問題になったりならなかったりすることに、人間の社会は溢れている。このことをわかってなお「指導」や「教育」をしているという自覚と覚悟が、教員に求められる所以だろう。
最後に学生が言った。「カレーにナンをつけて食べるのはどうなんでしょうね」。おもしろい。こんな感性や分析力を身につけていること、それが教養、ひいては「教師力」というべきものである。